旅行中に書いていた「ポルトガル便り」は途中で、携帯していたPCのインターネット環境がおかしくなり、中途半端な記事になってしまいましたので、改めての「ポルトガル旅行記」となります。
写真整理がまだ完全には終わっておらず、また旅行記は結構長くなる様ですので、途中で一休みを入れることになるでしょう。
始めに・・・
ポルトガルは実質的に初めてのツアーですが、昨年秋に参加したスペイン西部の銀の道ツアーで、半日だけとはいえドウロ川上流のポルトガル北東部国境のミランダ・ド・ドウロという小さな町に寄ったことがあります。
更に、ポルトガル語は、私が少し理解できるスペイン語に似たような言葉であるだけでなく、パン/カステラ/金平糖/コロッケなど日本に定着しているポルトガル語由来の日本語も数多くあります。
また、450年以上も前にポルトガル人牧師フランシスコ・ザビエルが「以後、ヨロシク(1549)」と言ったかどうかの真偽は別にして、初めて日本に来て以来キリスト教や色々な文化や鉄砲なども伝わり、日本とも極めて関係の深い国になっています。
このように、ポルトガルは全く初めての国とは思えない国ですが、私流の礼儀として、初めて訪問させていただき、その内容をブログという方法で発信する以上は、その国をある程度事前に勉強した上でツアーに参加しました。
以下、ポルトガル共和国の本当に大まかすぎる概要です。
<概要>
南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家で、正式名称はポルトガル語でRepública Portuguesa。首都はリスボン。
日本の国土の約1/4で人口は約1,000万人で、公用語はポルトガル語です。
日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称 ポルトガル。
漢字表示は葡萄牙で、葡と略されるが、これは広東語の発音による漢字表記に由来し、19世紀の中国南部で生まれ、日本を含む周辺国に伝わった表記のようです。
子供の頃に、当時の地図で葡萄牙という表記を見て、“葡萄が多く取れる国かなぁ”と思ったことを覚えています。
地勢的には、ユーラシア大陸最南西端の国で、北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及び、西と南は大西洋に面しています。
ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島とマデイラ諸島を領有しています。
緯度的にはポルトガルの本土と、日本の本州はほぼ同じくらいという理解で良いと思います。
<歴史>
隣国のスペインと共に、イベリア半島の国としてよく似た歴史ですが、大まかにいえば
・先史時代には人類が進出し旧石器時代の遺跡も発見されているが、古代においては、フェニキア人やギリシャ人が南部に進出。
・その後カルタゴがフェニキアの交易拠点を継承し、ローマとカルタゴ間の第2次ポエニ戦争ではカルタゴの軍事拠点になった。
・そして、カルタゴがローマに敗れたことにより、イベリア半島はローマの支配下に置かれ、属州として統治されるようになる。
・7世紀にはイスラム教の元に結束したアラブ人が進出を始め、715年迄にはイベリア半島全域がイスラム勢力下に置かれるようになる。
・7世紀にはイスラム教の元に結束したアラブ人が進出を始め、715年迄にはイベリア半島全域がイスラム勢力下に置かれるようになる。
・10世紀頃から「国土回復運動」(レコンキスタ)と呼ばれるキリスト教徒の活動が、イスラム勢力が4比較手に弱いイベリア半島北部で始まり、最終的には1249年にポルトガルにおけるレコンキスタが終了
・1143年のサモーラ条約により、アファンソ1世を創始者とするポルトガル王国が創始され、1179年には教皇庁に寄っても王位が承認される。
・1415年にエンリケ航海王子らジョアン1世の王子たちを中心にポルトガルの海外進出が始まり、1488年にヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰到達始め、1500年にはブラジルに、そして引き続いてインド洋諸国やアフリカ職への進出が始まり、ポルトガルに大きな富をもたらすようになった。
・1580年頃に王位継承者が不在となり、1581年にスペインのフェリペ2世がポルトガル国王として承認され、イベリア半島ではスペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合が成立。
・その後、ポルトガルは海外の多くの植民地を喪失すると共に、国内でも独立運動が起こっていたが、1668年にポルトガルは再独立を達成した。
・それ以後、ブラジルや各地の植民地の喪失が引き続き、ポルトガルの国力は衰弱化し内部での抗争が内戦にまで至り、1910年には共和制の樹立に到る。
・その後1933年に成立したアントニオ・サラザールによる独裁体制が40年以上続いたが、植民地への派兵などで経済状況が悪化、国民が生活苦のためにヨーロッパ諸国に流出した結果、ポルトガルの地位は西ヨーロッパ最貧国と呼ばれるまでに転落した。
そして、1974年にポルトガルで軍事クーデターが発生し、ヨーロッパ最長の独裁体制をほとんど無血に終わらせた。カーネーションが革命のシンボルとなったので「カーネーション革命」と呼ばれるが、別名「4月25日(25 de Abril)」、「リスボンの春」とも・・・。
<文化など>
・イスラム統治時代においては、言語的には以前のラテン語が使用されていたようですが、当時の先進国であるイスラムの建築様式だけでなく、造船技術や灌漑施設や色々な道具などもイスラムの影響を受けたものが多くなった。
・そしてレンガ舗装が独自の敷石舗装になったり、幾何学的なタイル張りの壁が風景や日常生活を素材にしたアズレージョタイルに変わっていきます。
・その後、ポルトガルの海外進出に伴い、ポルトガルにもたらされた富と見聞は美術や学芸の分野に大きな影響を与え、建築分野では航海に関するモチーフが施されたマヌエル形式が発達した。
・また、1755年11月にポルトガルの西南西200kmの大西洋を震源とする、マグニチュード8.5~9.0相当といわれる巨大な地震が発生し、リスボンだけでなく各地の建築物は倒壊したり大きな被害を受け、その後改修や再建を余儀なくされたものが多い。(まさ)