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老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

ポルトガル旅行記  その① 概要 

2025年06月20日 19時20分32秒 | 旅行/色々な風景
 旅行中に書いていた「ポルトガル便り」は途中で、携帯していたPCのインターネット環境がおかしくなり、中途半端な記事になってしまいましたので、改めての「ポルトガル旅行記」となります。
写真整理がまだ完全には終わっておらず、また旅行記は結構長くなる様ですので、途中で一休みを入れることになるでしょう。


始めに・・・
 ポルトガルは実質的に初めてのツアーですが、昨年秋に参加したスペイン西部の銀の道ツアーで、半日だけとはいえドウロ川上流のポルトガル北東部国境のミランダ・ド・ドウロという小さな町に寄ったことがあります。

 更に、ポルトガル語は、私が少し理解できるスペイン語に似たような言葉であるだけでなく、パン/カステラ/金平糖/コロッケなど日本に定着しているポルトガル語由来の日本語も数多くあります。
 
 また、450年以上も前にポルトガル人牧師フランシスコ・ザビエルが「以後、ヨロシク(1549)」と言ったかどうかの真偽は別にして、初めて日本に来て以来キリスト教や色々な文化や鉄砲なども伝わり、日本とも極めて関係の深い国になっています。

 このように、ポルトガルは全く初めての国とは思えない国ですが、私流の礼儀として、初めて訪問させていただき、その内容をブログという方法で発信する以上は、その国をある程度事前に勉強した上でツアーに参加しました。

以下、ポルトガル共和国の本当に大まかすぎる概要です。

<概要>
 南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家で、正式名称はポルトガル語でRepública Portuguesa。首都はリスボン。
日本の国土の約1/4で人口は約1,000万人で、公用語はポルトガル語です。

 日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称 ポルトガル。
漢字表示は葡萄牙で、と略されるが、これは広東語の発音による漢字表記に由来し、19世紀の中国南部で生まれ、日本を含む周辺国に伝わった表記のようです。
子供の頃に、当時の地図で葡萄牙という表記を見て、“葡萄が多く取れる国かなぁ”と思ったことを覚えています。

 地勢的には、ユーラシア大陸最南西端の国で、北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及び、西と南は大西洋に面しています。
ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島とマデイラ諸島を領有しています。
緯度的にはポルトガルの本土と、日本の本州はほぼ同じくらいという理解で良いと思います。


<歴史>
隣国のスペインと共に、イベリア半島の国としてよく似た歴史ですが、大まかにいえば
・先史時代には人類が進出し旧石器時代の遺跡も発見されているが、古代においては、フェニキア人やギリシャ人が南部に進出。
・その後カルタゴがフェニキアの交易拠点を継承し、ローマとカルタゴ間の第2次ポエニ戦争ではカルタゴの軍事拠点になった。

・そして、カルタゴがローマに敗れたことにより、イベリア半島はローマの支配下に置かれ、属州として統治されるようになる。
 ・7世紀にはイスラム教の元に結束したアラブ人が進出を始め、715年迄にはイベリア半島全域がイスラム勢力下に置かれるようになる。

・10世紀頃から「国土回復運動」(レコンキスタ)と呼ばれるキリスト教徒の活動が、イスラム勢力が4比較手に弱いイベリア半島北部で始まり、最終的には1249年にポルトガルにおけるレコンキスタが終了

・1143年のサモーラ条約により、アファンソ1世を創始者とするポルトガル王国が創始され、1179年には教皇庁に寄っても王位が承認される。
・1415年にエンリケ航海王子らジョアン1世の王子たちを中心にポルトガルの海外進出が始まり、1488年にヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰到達始め、1500年にはブラジルに、そして引き続いてインド洋諸国やアフリカ職への進出が始まり、ポルトガルに大きな富をもたらすようになった。

・1580年頃に王位継承者が不在となり、1581年にスペインのフェリペ2世がポルトガル国王として承認され、イベリア半島ではスペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合が成立

・その後、ポルトガルは海外の多くの植民地を喪失すると共に、国内でも独立運動が起こっていたが、1668年にポルトガルは再独立を達成した。
・それ以後、ブラジルや各地の植民地の喪失が引き続き、ポルトガルの国力は衰弱化し内部での抗争が内戦にまで至り、1910年には共和制の樹立に到る。

・その後1933年に成立したアントニオ・サラザールによる独裁体制が40年以上続いたが、植民地への派兵などで経済状況が悪化、国民が生活苦のためにヨーロッパ諸国に流出した結果、ポルトガルの地位は西ヨーロッパ最貧国と呼ばれるまでに転落した。
そして、1974年にポルトガルで軍事クーデターが発生し、ヨーロッパ最長の独裁体制をほとんど無血に終わらせた。カーネーションが革命のシンボルとなったので「カーネーション革命」と呼ばれるが、別名「4月25日(25 de Abril)」、「リスボンの春」とも・・・。

<文化など>
・イスラム統治時代においては、言語的には以前のラテン語が使用されていたようですが、当時の先進国であるイスラムの建築様式だけでなく、造船技術や灌漑施設や色々な道具などもイスラムの影響を受けたものが多くなった。
・そしてレンガ舗装が独自の敷石舗装になったり、幾何学的なタイル張りの壁が風景や日常生活を素材にしたアズレージョタイルに変わっていきます。

・その後、ポルトガルの海外進出に伴い、ポルトガルにもたらされた富と見聞は美術や学芸の分野に大きな影響を与え、建築分野では航海に関するモチーフが施されたマヌエル形式が発達した。
・また、1755年11月にポルトガルの西南西200kmの大西洋を震源とする、マグニチュード8.5~9.0相当といわれる巨大な地震が発生し、リスボンだけでなく各地の建築物は倒壊したり大きな被害を受け、その後改修や再建を余儀なくされたものが多い。(まさ)

ポルトガル便り⑤   無事帰国しました

2025年06月06日 22時31分04秒 | 旅行/色々な風景
 現地の5月31日に⓸を書き込んでから、ブログ書き込みが途絶えていましたが、移動続きで疲れていたこともあるでしょうが、私の操作ミスでPCは立ち上がるもののインターネットが上手く操作出来なくなり、書き込み更新が出来なかったです。

 今夜18時頃に関西国際空港に無事到着。
大きなバッグは空港から宅急便で自宅宛に送り(明日自宅着予定)、手軽にJR利用で大阪駅まで出て、バスで帰宅。
航空機に中では、ブロイラー状態の食事でお腹もいていなかったので、軽くウドンを食べた所です。

 6月1日以降は、ポルトガルの東部をスペイン国境沿いに南下し、大西洋に出てからはまた北上して首都のリスボンを回りました。

 今回も好天気に恵まれ、暑い日差しの中を、坂道が多くしかも歩きにくい石畳を歩き回るという厳しいツアーでしたが、楽しいメンバーにも恵まれて楽しんできました。

 何れ、時差ボケ解消や、洗濯物などの整理を優先し、その後写真整理などをして、ブログ掲載しますので、暫くお待ちください。(まさ)



ポルトガル便り④  ドウロ川中流と、巨岩のモンサント村

2025年06月01日 06時12分58秒 | 旅行/色々な風景
 昨30日は、ブラガのボン・ジェズス教会を終えた後は、一路ドウロ川中域のワイナリーの経営するホテルへ。

 因みに、ドウロ川はスペイン源をとする大河で、昨年秋にスペインの銀の道を巡るツアーに参加した時に、この川の上流でスペインとの国境になっているポルトガルのミランダ・ド・ドウロという小さな町を訪ねたことがあり懐かしい川ですが、現地ガイドさんにその話をしたら、「ミランダ・ド・ドウロというのはほんとに不便な場所であり、ポルトガルからのツアーには組み込みにくい」とのことでした。


 翌31日(今日)は、周辺のドウロ川沿いのブドウ畑などの風景を楽しみつつ、列車でアズレージョの有名なピニャオン駅まで。
ドウロ川沿いのブドウ収穫などのアズレージョを楽しんでから、バスで約3時間揺られて南に向かい、巨岩の村として有名なモンサントへ。

 ポルトガルでも有名な観光地ですが、連日の坂道歩行で足が疲れていて、私は丘の上までは行くのを辞めて、途中で草花の撮影に集中。
やはり、日本では見られない植物が多くて、回りの参加者に笑われながらも、カメラを手に一人でウキウキ動き回っていました。

 今日は珍しく比較的早くにホテルに着き夕食を終えたので、来る途中のドバイで仕入れていたウィスキーを横に置いて、PCに向かっています。
(まさ 現地時間31日22:10頃)


ドウロ渓谷のブドウ畑

ドウロ川の橋の風景

ピニャオン駅のアズレージョ

モンサント 巨石を利用した家

同上 ホテルになっています

ポルトガル便り③   ポルトと内陸部へ 

2025年05月31日 06時49分02秒 | 旅行/色々な風景
 29日はポルトガル第2の都市であるポルトの市内をゆっくり回りましたが、何しろ坂の多い町で足腰はクタクタ。

 午後からの自由行動では、市内の植物園に行ったつもりが大学の実習農園みたいな感じで、あまり植物の数も多くなく花も少なかったので、早々にホテルに帰り昼寝し、夜はホテル近くのバールでのんびりと食事しました。

 今日30日はポルトの町を離れて、内陸部へ。
先ずは、ソルテロ村という山中の小さな村で巨岩を利用した教会を見たりした後に、ポルトガルの宗教の中心地とされるギラマンエスへ。
700段とも「いわれる石段を登るのは諦めて、丘の上のある教会に寄ったのち、石段を歩いて降りました。
ポルトガルは坂道や石段が多くて、今日も又、脚はガクガク。
脚力が必要なツアーーです。

夕方、ドウロ川に沿った高台にある眺めの良いホテルに到着で、ワインもたっぷり入ったので今からまた爆睡です。   (まさ 現地30日23時少し前)


ポルト ドン・ルイス一世橋はトラムと自転車/人が共用です

ポルト ドン・ルイ氏一世橋から見たドウロ川には昔上流からワインを運んだ船が置かれています
ポルト 世界的に有名なレロ書店 長い行列が出来ていて、内部も人で溢れています
ポルト サン・ペドロ駅の有名なアズレージョ(青味がかったタイル絵です)

ソルテロ村 聖母ラパ教会
同上 巨岩

ブラガ ボン・ジェズス教会の石段 白く見える所の内側は石段です。


ポルトガル便り②   海岸沿いに北上

2025年05月29日 07時25分30秒 | 旅行/色々な風景
 28日は,昨夜泊まったコインブラの町にある有名なコインブラ大学を散策。
丘の上にある大学まではバスで行き、有名な図書館などを見学、残念ながら撮影禁止。

 その後、急な坂道を市の中心部まで降りてきて、買い物など自由散策しましたが、この町は男性が歌うファドや、その昔流行った「ポルトガルの洗濯女」でも有名ですしが、日本に伝わり「金平糖」となった砂糖菓子のconfeitoの有名な店もあります。

 その後、コスタ・ノヴァという海岸沿いの町に寄り、派手なストライブ模様の家を見ました。
その昔は漁師町で、帰ってきた漁師が自分の家を見つけ易くするためとか・・・
町の裏手にある、砂丘まで足を延ばしました。

 更にその後、少し北にあるアヴェイロという街でアズレージョ(14世紀にイスラム教徒によってスペインにもたらされたタイルのことで、青みがかったタイルが特徴で、アスール=青に由来する)で有名な駅舎を見たりしてポルトに到着。

 ここはこのツアーでは唯一の連泊地なので、夕食後「ポルトガルの洗濯男」として下着などを洗濯し、浴室内に干しました。(まさ 現地時間23時過ぎ)


コインブラ 丘の上に見えるのが大学

金平糖(confeito)

コスタ・ノヴァの民家

アヴェイロの駅舎  現在は使用されていません
市内 ジャカランダがまだ残っていました

市内 敷石のきれいな坂道