goo blog サービス終了のお知らせ 

老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

ポルトガル旅行記  その⑨  コインブラ (5月28日)

2025年07月01日 19時18分04秒 | 旅行/色々な風景
(今日からもう7月ですね。ここの所余りの暑さに、散歩などはもっての外と自重し、外出は通院や買物/ジムと、最小限にとめています。もう一ヶ月以上前になるポルトガル旅行記ですが付き合いください)

 今日は昨夜泊ったコインブラに付いての書き込みです。
リスボン/ポルトに次ポルトガル3番目の町とは言え、人口10万人ほどですが、ポルトガルの文化の中心として大事な町です。

 町の高台にあるコインブラ大学は1290年に当初リスボンに設立されましたが、その後コインブラに移ったりリスボンに戻ったりしながら1537年にコインブラに落ち着き、以後パリ/ボローニア/サラマンカ(スペイン)などと共にヨーロッパの学問の中心として、多くの政治家や文化人たちを送り出しました。

 また、このコインブラはモンデゴ川に沿った町で、ポルトガルの洗濯女」の歌や、一般的には女性が唄うとされているポルトガルの歌謡曲「ファド」もこの町では男性が唄うことが多いのでも有名です。

 このコインブラの様子をお知らせします。(まさ)


早朝の散歩でホテル近くのモンデゴ河畔へ。下流に堰があるようで鏡のように穏やかな水面です
同上

同上 これはサンタ・クララ橋です

丘の上にはコインブラ大学

<コインブラ大学>
旧大学の広場 左奥がカテドラル

広場の銅像
カテドラル
マント姿の学生  黒いマントが学生の伝統のようです
旧大学構内の石畳の模様
旧大学は丘の上  新市街を見下ろす

図書館入口の金泥細工  有名な図書館で見応えありましたが、残念ながら撮影禁止でした

図書館出口 (元は入口だったのかも知れません)


カテドラル内
タイル
アズレージョ

<新市街へ>

この町へ降りていきます

途中には旧カテドラルもあります

坂道です

同上
この門を潜れば新市街

男性のファドが有名です

有名な「ポルトガルの洗濯女」の像

お土産物屋 チーズカッターですが、鍋敷きとしても使えます

メインストリート
こんな細長いビルもありました

サンタクルス修道院

最初は通りの反対側に居て、飾り物かと思ったのですが

2回目に見ると、日陰の涼しい涼しい場所に代わっていて、お金を貰えばチャンと礼をしていました

名物の金平糖屋さん

街中の風景




ポルトガル旅行記  その⑧ ファティマとトマール (5月27日)

2025年06月30日 19時23分36秒 | 旅行/色々な風景
(暫く別の話題でしたが、ポルトガル旅行記に戻ります)

  バターリャの修道院を終えてからは、近くのファティマという聖地、更に少し東にあるポルトガル最大の修道院があるトマールという町を回り、それからバスで1時間少し離れた大学都市として有名なコインブラまでの行程です。

 先程のバターリャ修道院と、トマールのキリスト教修道院がともに世界遺産なので、昨日のアルコバサ修道院と3つの世界遺産がごく近い場所にかたまっています。


<ファティマ>
 元来は小さな農村の町であったが、現在はローマ・カトリックの巡礼者を中心に国際的な巡礼地として知られています。

 即ち、第1次世界大戦中の1917年(大正6年)5月13日、ポルトガルのファティマの3人の牧童の前に、聖母マリアが姿を現わしたといわれます。
カトリック教会・ローマ教皇庁は一連の現象を聖母の出現と公認し、5月13日をファティマの聖母の記念日としました。

 毎年5月の記念日には、何10万人もの人が訪れるようで、30万人は入れるという大広場や、1万人を収容できるという聖三位一体教会などもありますが、広い広場の中で巡礼の方が、手を使わず膝だけで進まれている様子も拝見しました。 教会などは、新しいだけに非常に近代的な作りです。


<トマール キリスト教修道院>  
 1147年にサンタレンの戦いで勝利し、レコンキスタに貢献した、テンプル騎士団にアフォンサ一世が恩賞として土地を与え、12世紀にテンプル騎士団によって建設されたのが起源。

 14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後、ポルトガルに存在したテンプル騎士団は、キリスト騎士団へと改編され彼らが管轄することとなった。キリスト騎士団は、大航海時代のポルトガルを支え、ポルトガル海上帝国の礎を築いた。

 キリスト教修道院のハイライトは、1417年から1460年にキリスト騎士団の団長を務めたエンリケ航海王子の時代である。エンリケは、レコンキスタが終了したポルトガルを大航海時代に飛躍させた立役者であると同時に、トマールのキリスト教修道院では、墓の回廊・沐浴の回廊を増築した。

 また、1484年にキリスト騎士団の団長に就任し、1492年に国王になったマヌエル1世もまた、修道院の増築を行った。円堂へいたる新しい回廊を建設するとともに、修道院内部の装飾や絵画を増設した。

 マヌエル1世の後を継いだジョアン3世は、クレルヴォーのベルナルドゥスの宗教観を持った国王であると同時に、1557年には、新しい回廊の建設を命じた。この回廊はポルトガルにおけるルネサンス建築の中でも特筆すべきものがある

 このようにこの修道院は12世紀から16世紀にかけて、歴代国王が力を注いだゴシック/マヌエル/ルネッサンス様式が混合したポルトガルで最大の修道院となりました。(まさ)


<ファティマ>

大広場
聖母ファティマ聖堂

膝だけで進む信者
同上

モダンな十字架

聖堂より大広場を見る 右側にあるのは「出現の礼拝堂」丁度ミサの最中でした
聖堂内は沢山の信者なので、異教徒の私は早々に退出

新しい聖堂なので、中もモダンです


半地下形式の聖三位一体教会  広々しています

一度に1万人を収容できるようです

<トマール キリスト教修道院>
石畳の道にテンプル騎士団の紋章

城壁

この門をくぐり

修道院へ

木の天井
丸い天井

沐浴の回廊
同上


墓の回廊
同上
同上

回廊からの景色

回廊の奥

テンプル騎士団聖堂
同上
同上

同上


廊下
ミシャ回廊
主回廊とチャペル

同上

食堂



吉備路へ その② 風土記の丘

2025年06月28日 19時18分18秒 | 旅行/色々な風景
 吉備津神社を終えてから、近くにある国民宿舎で昼食を摂った後、総社市にある「風土記の丘」の散策へ。

 先にも書き込んだように、この地域は大和朝廷成立前から非常に栄えていたようで、この近くには古墳時代に作られた近畿地方に負けないくらいの数々の大規模古墳や、飛鳥時代の寺院跡、そして奈良時代の国分寺跡などなどの遺構が数多く残っています。

 これらを巡る数々の散策コースがあるようですが、今回はこのうちの「備中国分寺コース」というコースを散策し、こうもり塚古墳/備中国分尼寺跡/備中国分寺跡を回るコースです。

 ガイドいただいたのは地元のランティア方で、かなりご高齢の方でしたが、何とも早く歩かれ、付いて行くのに必死でした。
 
 有名観光地を回るツアーとは違って、何か懐かしい日本の原風景のような場所をのんびりと歩き、先人の遺構を眺めたりできた、非常に面白いツアーでした。

これらの様子をお知らせします。(まさ)

<こうもり塚古墳>

後円部分

前方部分



古墳への入り口

古墳内 天井 名前の通り、蝙蝠が1匹いました

古墳内 石棺

外に出ると水田の緑が眩しかったです

<備中国分尼寺跡>

築地土塀跡
説明文
金堂の石礎が残っています

<備中国分寺跡>
 現存している国分寺は、真言宗御室派の寺院なのに、パンフレットなどには「備中国分寺跡」とあり、どうなっているのかと思っていましたが、奈良時代に建立されたが、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573年-1592年)に備中高松城主・清水宗治が再興したが衰微し、江戸時代中期の宝永年間(1704年-1711年)に再建されたということのようです。

 創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複していて、寺域は東西160メートル・南北180メートル。出土した土器などから中世初期まで存続したと推定されています。

 また五重塔に関しては、創建当時には七重塔(推定高さ50メートル)があったようですが、南北朝時代に焼失し、1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844年-1847年)に完成したもので、江戸後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔という事です。
当初は、三重塔で計画されたのを五重塔に変更したとされ、3層まではケヤキ材、4・5層まではマツ材が主体であり、この塔は国の重要文化財に指定されています。

遠くからでも良く見える五重塔

山門

勅使門

本堂

五重塔

同上 説明版

境内のアジサイ

 <見かけた風景や花など>
散策コース

所々標識も

散策コース 心がノンビリするようなコースです

ため池の向こうには懐かしい風景

ハルジオンに囲まれたコースです

同上

アザミも点々と

水田は丁度田植えが終わった所です

同上


アカバナ科の花でしょう

同上

これはムラサキでしょうか





吉備路へ その① 吉備津神社

2025年06月27日 19時49分17秒 | 旅行/色々な風景
(折角始まったポルトガル旅行記ですが、早速小休止し、季節の話題を送ります。)

 昨日(6月26日)、M新聞社旅行の「吉備津神社のあじさいと吉備路風土記の丘」という日帰りのバスツアーで岡山に行って来ました。
4月ごろにパンフレットでこのツアーを知り、既に申し込んでいたポルトガル旅行から帰国後余り時間がないのですが、この地域に興味があったので申し込んでいました。

 前日までの天気予報では生憎と大雨という事だったので、合羽や着替えなど万全の準備をしていました。
当日は自宅を出る時は傘が要らないような状態でしたが、集合時間に梅田に着くと少し降り出し雨の中をバスに乗って岡山に向かうと、姫路を過ぎる頃から空が明るくなり、雨も止んでくれました。

 目的地に着くと、すっかり晴れ上がりましたが、湿気も凄くて、汗が滴るような暑さでしたが、首に冷たいタオルを巻き、たっぷりの水分補給をしながらの吉備路でした。

 もう関西は今日観測史上最速の梅雨明けが宣言され、暫く猛暑が続くとか・・・  昨日の暑さからすれば、納得です。


 この地域は、大和朝廷確立前に随分と開けていた地域で色々と古い遺跡などがあることを聞き興味を持っていたのですが、最初の目的地は、岡山市北区にある吉備津神社

 同神社の縁起などによると、第十代崇神天皇(紀元前148~前30とも)の御代、天下もようやく治まってきたものの、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け各地方に派遣し討伐することとなりました。
そして、西道(後の山陽道)には大吉備津彦命が派遣されることとなり、桃太郎(鬼退治)伝説に象徴されるように、この地の平定に成功したようです。

  この神社が、いつごろ誰によって造営されたのかについては、文献もなく確かなことは分かっていないようですが、吉備津彦の功績を称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっており、大吉備津彦命を主神としています。

 何れにせよ古い神社ですが、1425年に再建された本殿と拝殿は全国で唯一の吉備津造り(比翼入母屋造り・ひよくいりもやづくり)という建築様式を採用し国宝に指定されています。また、本殿から続く360mの美しい廻廊は一見の価値がある歴史的建造物です。(まさ)

北随神門への石段

同上 石段に沿った提灯が見応えあります

同上 石段の上から

廻廊 400m近くあるようです

同上の屋根  南隋神門近くから
同上

同上 上り下りがあります

同上

同上

苔むした灯籠


廻廊の途中からアジサイ園に行けます。 石段が朝の雨で濡れていて、滑る人が続出

結構きつい石段です
アジサイ

同上

同上


やはりガクアジサイの方が好きです

同上

同上 早朝の雨に濡れています



アップ


本殿/拝殿

比翼入母屋造りの本殿

大イチョウ


神社近くの水田 何とも言えず目に優しい色です



ポルトガル旅行記  その⑦ バターリャ修道院 (5月27日)  

2025年06月26日 20時55分14秒 | 旅行/色々な風景
バターリャ修道院 

 昨夜はこのバターリャ修道院のすぐ前にあるホテルに泊まったので、この日は少し早めに起きて朝食前にまだ人に姿がない静かな修道院の周辺を散歩してきました。滅多にできない経験でした。

 バターリャとは、ポルトガル語で「戦い」を意味する。
バターリャの歴史は、ジョアン1世が1385年8月14日にアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍をジョアン一世が率いるポルトガル軍が打ち破ったことを祝し、1388年以建築始まった。

 16世紀の初頭まで、100年以上かけて建設され、指揮をとった建築家は15名にのぼるゴシック様式の建造物で、中にある「王の回廊」とよばれる回廊はポルトガル独特のマヌエル様式で、きめ細かな装飾が透かし彫りのように彫りぬかれている。高さ32mの教会堂はポルトガルで最も古いステンドグラスで飾られています。(まさ)


早朝の静かな町

人気ない、バターリャ修道院(南側から)

西側側面



入口

入口アップ アーチ・ヴォールト様式で78体の聖像が彫られているようです

内部の身廊

同上 ステンドグラスが見事です

高いドーム

ジョアン1世の棺


朝日がステンドグラスを通して棺に

気付くとステンドグラスが明るく・・・

床にもステンドグラスの光が こんな光景は初めてでした。

同上

アルフォンソ5世の回廊

同上

同上


出口から一度外に出て


未完の礼拝堂へ

未完の礼拝堂

同上

同上 ここは屋根がありません

入口

入口の華麗な彫刻

同上

同上

内部から屋根のない上部を見る

ステンドグラスからの光