鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その1

2015-04-01 05:35:24 | Weblog

 国道1号の潮見坂バイパスから国道42号に入って西進し、まず立ち寄ったのは「道の駅あかばねロコステーション」でした。

 そこの海岸付近から、赤羽根遠見番所があった高台あたりを望見してみようと思いました。

 赤羽根遠見番所があったところは、現在の田原市立赤羽根小学校の南側の海食崖の上あたり。

 道の駅の駐車場に車を停め、海岸にある展望台へと歩いてその上から東方向を眺めてみると、太平洋ロングビーチと海食崖が大石や高松一色方面へと延びていました。

 崖上の段丘上にある赤羽根中学校や赤羽根小学校や赤羽根の集落は、ここからはまったく見えませんが、小学校はここから見て東北東にあり、遠見番所があったあたりを確認することができました。

 この展望台からも太平洋の大海原を視界いっぱいに見渡すことができますが、さらに標高20m余の海食崖の上にある遠見番所からは、さらに遠くまで見晴るかすことができたはずです。

 崋山は赤羽根村の街道筋からこの遠見番所へと足を伸ばし、「遠眼鏡」を備えた崖際の平地にある番所の建物をスケッチしました。

 その絵の右奥に見える海に突き出した岬は、現在の「高松一色」と「大石」の両バス停の南側にやや突き出した岬であり、『参海雑志』の最初のスケッチ(風景画)が描かれた場所(現在の「一色神社」の下あたりか)となります。

 スケッチを見ると番所の建つ海食崖上の平地や崖面にも視界を遮るような樹木は一切生えていませんが、現在の崖面や崖上は、丈の長い草や樹木で覆われています。

 「道の駅あかばねロコステーション」を出発して、次に立ち寄ったところは田原市和地(わじ)。

 前回はここにある医福寺(崋山らが旅の第一宿としたところ)が見つからず、その近くまで接近していたにも関わらず、医福寺に立ち寄ることができませんでした。

 医福寺は、この前立ち寄った法尺寺の少し前を左手へと入ったところにありました。

 法尺寺と同じく曹洞宗のお寺。

 「神双山 醫福寺」と刻まれた石柱が立っています。

 参道を入って右側にこぶりの本堂があり、「医福寺」の扁額が掛かっています。

 境内には「医福寺のナギ」と記された案内板があり、樹齢が推定300年、所在地が和地町北屋敷13、航海の安全を祈る神木として神社の境内に植えられたりすること、また、渡辺崋山が旅の途中に医福寺を訪れ、幼木のナギと薬師堂をスケッチしている、といったことが記されていました。

 崋山のスケッチを見てみると、中央やや左手に描かれているひょろっと立っている細い木がナギの幼木であり、その向こうにある建物が薬師堂、そして右側に描かれているのが本堂であるようです。

 崋山が訪問してから180年余が経過しており、幼木であったナギの木も、現在は枝葉をこんもりと茂らせた立派な大木になっています。

 崋山と縁の深い医福寺のたたずまいを確認した後、やはり前回立ち寄った堀切の常光寺にふたたび立ち寄りました。

 この常光寺を崋山はスケッチしていますが、彼はこの絵をどこから描いたのだろう。

 当時、手前の山門はなく、崋山は楼門と回廊、その奥にある本堂や観音堂を描いています。

 このような楼門の屋根と本堂の屋根の重なり具合になる場所はというと、現在の山門前の駐車場をかなり東側の端の端まで行かなければなりません。

 崋山は常光寺の背後は山で、前は林であり、「誠に望ミよき勝地」であると記しています。

 楼門や本堂へと続く参道の両側は、崋山のスケッチでは林になっており、林の中を通る参道の、かなり離れたところから崋山はこのスケッチを描いたものと考えられます。

 現在はその林の両側には人家が建ち並んでおり、参道自体も昔のままではないようです。

 といったことを確認して、堀切村を出立した崋山が次に向かった伊良子神社(当時は伊良子明神)をめざして車を走らせました。

 

  続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)

・インターネット「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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