鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その2

2011-10-11 05:19:22 | Weblog
 駐車場の売店から、「西湖いやしの里根場」の入口までは、本沢川に沿った遊歩道をしばらく歩いていくことになります。橋(ねんば橋)があって、その右手に受付がありましたが、まだ開館はしていません。

 橋の左手には「土石流危険渓流 西湖水系本沢川 土石流が発生する恐れがありますので大雨の時は十分注意してください。 山梨県」と記された看板が立っています。

 この本沢川の位置と看板の記述から、土石流を引き起こしたのは、この本沢川であったのだろうと思われました。

 橋を渡って、まだ開店していない茅葺き民家の「手打ちそば」屋さんの前を歩いて西へと進んで行くと、「鍵掛峠登山道入口」と記されたまだ真新しい案内標示があり、そこで右折すると左手の山すそに朱塗りの鳥居がありました。石灯籠や石段の古さから言っても、この神社はむかしからここにある神社であるようです。

 朱塗りの鳥居に掛かる額を見てみると、「薬明大神」とあり、あまり見かけない名前をしています。

 この神社は石段を上ったところに社殿があり、土石流の被害には遭わなかったものと思われる。ということは、この神社の前の道はむかしながらの道であり、その道を上がって行けば「鍵掛峠」へと通じていたということになります。

 その道の左手には、「土室」や畑などがあり、また土石流の被害を免れたものと思われる古い民家が一軒、建っていました。

 その道筋から右手方向を眺めると、重厚な「かぶと造りの」茅葺き民家(2階建て)の屋根が重なって見え、その家と家の石垣の上に、白やピンクのコスモスの花が今を盛りと美しく咲き誇っています。

 少し上がったところからは、火の見梯子が突き出ているのが見え、その梯子の上には半鐘がぶら下がっています。

 空にはあいにく雲がうすくかかっており、富士山の姿は、その稜線も含めてまったく見えません。

 一番奥にある茅葺き民家の背後を見る形で進んで行くと、道は山道となり、右手に沢(本沢川)が見えてきました(8:27)。

 さらに上へと進んでみると、「水源かん養保安林」の看板を見てまもなく、「鍵掛峠 十二ヶ岳 王岳 → 方面登山道 足和田村」と記された案内標示が現れました。

 ここからはまったくの幅の狭い登山道となっています。

 「本沢川」の上流がどのようになっているのか、という関心と、「いやしの里根場」あたりが上から見るとどのようになっているのか、という関心から、まだ8時半過ぎということもあり、その登山道を進んでみることにしました。

 登山道はよく整備されており、案内標示が次々に現れます。「食害防護筒」という看板もあって、鹿やカモシカが植木を食べてしまうことを防ぐ防護チューブが施されていることがわかります。

 15分ほど登っていったところで、左手下に沢が現れましたが、岩底を急傾斜で下っています。

 巨大な岩が現れ、見上げたその岩の途中に石仏が置かれているのを見たのは9:16。

 そこからしばらくして、ようやく眼下に根場あたりの集落が見えてきました。

 「鍵掛峠山頂」と記された案内標示にいきなりぶつかったのが9:29。登山道の登り口からおよそ1時間の行程でした。

 この峠からの登山道は、左方向は「王岳」へ続き、右方向は「鬼ヶ岳」へと続いています。「鬼ヶ岳」からは「雪頭ヶ岳」を経て根場へと下っていく下山道があり、また「鬼ヶ岳」からはさらに「金山」→「十二ヶ岳」へと尾根道のようなものが続いています。

 どちらに進もうかと少し迷いましたが、「雪頭ヶ岳」には「お花畑・眺望最高」とあり、その根場へと続く下山道には「ブナ原生林」とあったので、「鍵掛峠頂上」(見晴らしは効かない)を右折して、「鬼ヶ岳」方面へと進んで行くことにしました。


 続く


○参考文献
・『山梨の民家』坂本高雄
・『山梨の草葺民家 伝統的形式住居の終焉』坂本高雄(山梨日日新聞社)


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