鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.西湖いやしの里根場~鍵掛峠~鬼ヶ岳 その1

2011-10-10 06:42:21 | Weblog
 西湖の根場浜にある駐車場に着いたのは7:46。この根場浜からは西湖を望むことができますが、それは西湖の一部であって全体ではありません。あいにくうす雲が空を覆っていて、富士山の姿を見ることはできません。

 この駐車場にある案内マップで、まず「西湖いやしの里根場」の位置を確認。近くには「根場民宿村」や「「西湖野鳥の森公園」などがあります。

 また別の案内マップでは、西湖沿いに村道を歩いて行くと「西湖コウモリ穴」というのがあるようです。またそれには「西湖 標高902m」とあるから、このあたりが標高900余の高さであることがわかります。

 その「コウモリ穴」からさらに東へ進むと、「西湖民宿村」を経て「三湖台」(標高1202.8m)というのがあって、「登り40分 下り25分」とある。

 「その三湖台というところまで行って、戻ってくるのも一つのコースかな」と思いつつ、案内標示に従って、まず「西湖いやしの里根場」の場所を確かめておくことにしました。

 途中、「鬼ヶ岳 十二ヶ岳 登山道入口」という、やや文字が消えかかった案内標示を見掛けましたが、この時は、まさかその「鬼ヶ岳」へ登っていくことになるとは思ってもいませんでした。

 しばらくバス道(河口湖・西湖周遊レトロバスが走っています)を進むと、右手に美しく刈り込まれた植栽に囲まれるようにして「慰霊碑」と刻まれた大きな石碑が立っていました。

 近寄ってみると、傍らに「墓碑」と刻まれた石碑があり、それには「昭和四十一年九月二十五日」とあって、「消防団長」「消防団員」「鳴沢小学校長」「婦人会長」「消防班長」などといった役職名とともに、人名がびっしりと刻まれています。

 また「石灯篭建設者芳名」と刻まれた比較的新しい石碑もあって、「神奈川県小田原市」「発起人」「衆議院議長」「衆議院議員」などの名前がやはりびっしりと刻まれています。

 この「慰霊碑」は、昭和41年(1966年)9月25日、この根場地区を襲った土石流によって亡くなられた人たちを「慰霊」するものでした。

 そこからしばらく進むと、「茅葺き集落→いやしの里根場入口」という三角形の看板があり、その左隣に「西湖いやしの里根場駐車場→」と記された小さな立て看板が立っており、そこで右折して細い道へと入っていきました(8:04)。

 途中、視界が開けたところで「↑王岳 鍵掛峠→」という案内標示を見掛け、そこで右折して右手の広い「駐車場」へと入って行きました。

 ここの駐車場は「無料」で、入館料は大人「350円」。営業時間は、4月から11月までは「9時00分~17時00分」までとのこと。

 現在は8:08だから、開館まであと1時間近くあることになる。

 駐車場を突っ切って、売店のあるところまで進むと、売店の一つに、「岡田紅陽撮影の昭和13年の根場集落と富士山」というモノクロの写真が壁に張られているのを見つけました。

 手前に20棟近くの茅葺き民家が密集し、その向こうに西湖の湖面が広がり、その奥に5合目あたりまで雪をかぶった富士山が堂々とそびえています。富士山は東からの朝日を浴びているようで、西湖の湖面や手前の畑や平原には白い靄(もや)がかかっているようにも見え、どうも早朝の根場集落を、背後(北側)の山を少し登ったところから撮影したようです。

 屋根の間から火の見梯子の先っちょのようなものが見え、また電線が走っているのも見える。昭和13年(1938年)当時、根場集落には電線が引かれ、電灯やラジオなどが利用されていることがわかります。

 西湖の周辺は青木ヶ原樹海であり、西湖の富士山の間にある山が「三湖台」のある足和田山であるでしょう。

 季節は秋というよりも、春であるように思われる。4月か5月頃の早朝、朝日が出てきて富士山の東斜面が輝き、朝靄の中、人々が起き出したばかりの根場集落を、背後の山の斜面から岡田紅陽氏は撮影したものと思われる。

 斜面に立つ茅葺き屋根の民家の縁側からは、茅葺き屋根越しに富士山を望むことができたに違いない。

 「いやしの里根場」の復元された「かぶと造り」の茅葺き民家は、整備されたまっすぐな沢とその両側の歩道沿いに、整然と並んで建っていました。


 続く


○参考文献
・『山梨の草葺民家 伝統的形式住居の終焉』坂本高雄(山梨日日新聞社)


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