初めて小倉駅で降りました。 新しい駅ビルを中心に、とってもエエ感じの街になってましたよ。
そして、駅から車で「田川地区」に入りました。
戦後まもなくの1950年頃には炭鉱での繁栄はピークを迎え、人口は現在の倍ほどあったようです。
地元の人に話を聞いていても、「自分達の親の世代の頃はスゴかったんだよ」って思い出話をされてました。
しかし、1960年に日米安保条約の改定で、第二条(経済協力条項)により、「黒いダイヤ」といわれた石炭から石油へ、というエネルギーの転換により、次々と炭鉱が閉山され、それとともに街の活気が失われたようです。
そして、1972年には、筑豊地域の炭鉱は全て閉山され、町には失業者が溢れ、生活保護世帯が急増したようです。 昭和初期に建てられた木造平屋建ての炭鉱住宅も、閉山とともに会社側から「退去・解体」が求められましたが、地元の人の結束によって、住宅だけは残されたようです。
現在、市町村が、随時市営住宅や町営住宅へと建て替えを推進しており、徐々にその風景は無くなってきております。
昭和の高度成長期のかかりにあった筑豊地区の光と影を見たようで、悲しく寂しい気持ちになりました。
しかしいつの時代も犠牲になるのは社会的弱者であります。
そして、駅から車で「田川地区」に入りました。
戦後まもなくの1950年頃には炭鉱での繁栄はピークを迎え、人口は現在の倍ほどあったようです。
地元の人に話を聞いていても、「自分達の親の世代の頃はスゴかったんだよ」って思い出話をされてました。
しかし、1960年に日米安保条約の改定で、第二条(経済協力条項)により、「黒いダイヤ」といわれた石炭から石油へ、というエネルギーの転換により、次々と炭鉱が閉山され、それとともに街の活気が失われたようです。
そして、1972年には、筑豊地域の炭鉱は全て閉山され、町には失業者が溢れ、生活保護世帯が急増したようです。 昭和初期に建てられた木造平屋建ての炭鉱住宅も、閉山とともに会社側から「退去・解体」が求められましたが、地元の人の結束によって、住宅だけは残されたようです。
現在、市町村が、随時市営住宅や町営住宅へと建て替えを推進しており、徐々にその風景は無くなってきております。
昭和の高度成長期のかかりにあった筑豊地区の光と影を見たようで、悲しく寂しい気持ちになりました。
しかしいつの時代も犠牲になるのは社会的弱者であります。