素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

「役に立ちたい」という言葉

2014年04月20日 | 日記
 朝刊に香山リカさんの『ココロの万華鏡』という月1回のペースで書かれているシリーズがある。最近は私の心にヒットするものがなかったが、昨日の《「役に経ちたい」の裏側》は「そうだ!そうだ!」とうなづいた。

 香山さんは、大学で「社会で必要とされる人間になりたい」「大勢の人たちのために何かしたい」と将来の夢を語る学生の声を多く聞くという。自分さえよければいいという自己中心的な考えよりは「役に立ちたい」という気持ちは立派だと認めながら、そこに1つの落とし穴があるという。

 この「誰かの役に立ちたい」という思いは学生のみならず、定年を迎えた世代にも共通するものがある。仕事というものに区切りをつけた後の生活をどう過ごすかは考えざるを得ない問題である。私もよく尋ねられたし、同じ世代の悩みや希望を聞いたことも多々あった。その時に感じた違和感と香山さんの指摘する落とし穴がつながる。

 香山さんの診察室にも、世の中や人々のために何かしたいと考えていたのに挫折した人が訪れることが時々ある。そういう人に対して「まずは自分の健康や楽しみのために生きてもいいんじゃないですか」と助言すると、首を横に振って「それでは人生の意味がない」「誰かの役に立たなければ、私が生きていることにも気づいてもらえない」という答が返ってくるという。

 そういう時に香山さんは「役に立たなければダメなのか」という大前提に立ち返る。私も多くの人と話した時に同じようなことを言った覚えがある。

 「役に立ちたい」は「認めてもらいたい」という欲求と結びついている場合が少なくない。人から認められることで、自分は役に立っているという満足感を持つ人は下手をすると他人の尺度で自分を測りがちになる。他人から認められるかどうかが第一義なものとなってしまうと「認めてもらえない」と感じた時に自分に対する怒り(=役に立っていない人間だ)や他人に対する怒りが生まれ、社会生活で破たんする場合も出てくる。

 私は、自分のやっていることが人様の役に立っているかどうかを考えるのはおこがましいことだと思っている。自分自身のために生きることを第一義とし、その中でもし「おかげさまで」と感謝されたら「お役に立てなら嬉しいです。」ぐらいでいいと思っている。

 香山さんはこうしめくくっている。『社会の役に立つのはすばらしいことだが、それだけが生きる意味ではない。自分がまずその日、その日をしっかり生きて、大勢に知られなくても手ごたえのある暮らしを送る。季節の移り変わりを楽しみ、身近な家族や友人と笑いあう。「人生はそれで十分」という気もする』 

  
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