素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

『広辞苑』の編者・新村 出(しんむら いずる)先生

2012年01月24日 | 日記
 「舟を編む」の余韻から家にある辞書のまえがき(序)やあとがき(後記)を初めて読んだが、中でも『広辞苑』の後記は心に留まった。昭和10年に刊行された新村出先生の『辞苑』から昭和30年5月25日に発行された『広辞苑』第一版から昭和44年5月16日に発行された第二版までのあらましが記されていた。その最後は「編者新村出先生が業半ばにして不帰の客となられたことは痛恨の極みであるが、謹んでここに本書をその霊前に献げ、先生の御遺業の今後永く生きつづけることを証し得ることは、私どものせめてもの喜びである。」と結ばれていた。

 この後記を読んでいるとなぜか物語の松本先生と新村出先生が重なってきたのである。物心ついた時から私の前には『新村出編 広辞苑』があった。なのに新村出先生のこと何も知らなかったと思い、Wikipediaで調べた。


新村 出(しんむら いずる、1876年(明治9年)10月4日 - 1967年(昭和42年)8月17日)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
 (中略)
 静岡尋常中学、一高を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学博言学科卒業。在学中、上田萬年の指導を受けた。国語研究室助手を経て、1902年(明治35年)、東京高等師範学校教授。1904年(明治37年)、東京帝国大学助教授を兼任。

 1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授。言語学講座を担当し、1919年(大正8年)には文学博士。1928年(昭和3年)帝国学士院会員。1936年(昭和10年)に定年。

 終生京都に在住し、辞書編纂に専念し、戦後に発刊された『広辞苑』の編纂・著者(息子の新村猛が共同作業に当たった、初版1955年)として知られる。新仮名遣いには反対し、当初予定の『廣辭苑』が『広辞苑』に変更になったとき、一晩泣き明かしたという。そのため「広辞苑」の前文は、新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書いた。また形容動詞を認めないため、「広辞苑」には形容動詞の概念がない。(後略)


 青色の部分のこだわりが興味を引いたので第二版の一ページから四ページにある新村出先生の書かれた“自序[第一版]”をじっくり読んだ。格調高い文章である。第二版の序は息子の新村猛さんが書かれている。「舟を編む」を読んだ後では、この2つの序から伝わってくるものが全然違う。何といっても本を読まなければ“序”そのものを読むことはなかったであろう。

 6日の小寒から21日の大寒を経て3日の節分までは“寒の内”と呼ばれる。今週はそれにふさわしい大寒波が居座るようだ。今朝、遠くの山なみは雪で覆われていた。外は厳しい寒さだが、「舟を編む」のおかげで“言葉”というものに火をつけられ、部屋にあるその類の本を引っ張り出しては読み返しているので心の内はホットである。 
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