素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

『100分de名著 風姿花伝』最終回は《秘すれば花》《男時・女時》

2014年01月29日 | 日記
 世阿弥は透徹したリアリストであると思う。いかにして民衆の心をつかむか?(=立合という勝負に勝つ)ということを追求し続けていたことが書からうかがえる。最終回は私がよく使っていた言葉《勝負》と《流れ》に関する話であった。
  相手の意表をつくサプライズを用意しておくということは勝負の世界では必要である。文化祭や体育祭の応援などで肝心要なところは当日の本番までは他のクラスの目にふれないように粛々と用意をしていくことはよくやった。2つの効用があったように思う。1つは当日に他のクラスの人たちに驚きを与え、注目を自分達に引き寄せるという、世阿弥が「秘すれば花」で説いたこと、もう1つは秘するものを共有することで、自分のクラスの中に団結心を生むことである。

 ただ、1回使えば「秘すれば花」でなくなるので常に更新していかなければならない。そこがおもしろさであり、つらいところでもある。
  見てもらわないと商売にならないので広告を含め最近の映画やテレビでは事前の情報が非情に多い、そのことが興ざめの原因にもなっているという皮肉な結果になっている。最近の紅白歌合戦はその最たるもの。600年前の世阿弥の時代から観客の側が求めるものはいい意味での期待を裏切る演出である。落語の「中村仲蔵」もそのことを語っている。

 とは言っても、現代は情報垂れ流し社会となってしまったので発信する側に制御は期待できない。自分自身が情報をシャットアウトして、「どうなるだろう?」と「秘すれば花」を楽しむようにしている。

 《勝負》にとって大切なこととの一つが《流れ》を読むこと。世阿弥の時代の能は《立合》によって観客からの支持を競っていたというが、大阪で吉本興業が誕生したころ松竹と熾烈な客とり合戦をくり広げたことや今の視聴率競争と同じだったのだろうとイメージできる。どんなに周到に準備し努力を重ねてもどうすることのできない流れがあり、浮沈を繰り返す。そのことを世阿弥は「男時・女時」という言葉で表現している。

  授業も生徒との勝負と考えれば同じように流れがある。悪意なく何となく散漫な時がある。その時にしゃかりきになって挑んでも空回りとなりますます悪い状態に陥っていく。ひと呼吸おいて潮時を待つ余裕も必要ということ。サッカーの試合でも同じ、流れを読んで選手交代をするのが監督の大きな役割だが、決断のタイミングがまことに難しい。などということを思い出しながら土屋さんの話を聞いていた。
  たとえ勝負に勝ってもそこに安住しないで、常に新しい自分をつくっていこうとする世阿弥の厳しい生き方から生まれた言葉は平易だが奥が深い。
 新しい力をもらった4回の放送であった。後はこのことも参考に、自分でさらに深めていきたい。
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