仕事をしていた時は、新年度の始まり4月1日は1年の中で一番気の引き締まる日だった。特に、今年のように月曜日始まりとなるとなおさら日程が詰まり息つぐ暇もなく新年度のスタートのための会議が連続する。今はそれも昔の話。朝刊に掲載される人事異動を見ても知っている人は3人だけになった。その方々も全員、再任用での校長である。
ジムでも長年勤めていたスタッフのH川さんが退職していた。ここも顔なじみのスタッフが減ってきた。入所した頃からのスタッフは3人になってしまった。時の流れを思いながらトレーニングしていたら久しぶりにS田さんとお会いした。S田さんは私より10歳年上でホノルルマラソンを始め海外の市民マラソンにも多く参加している。
私が第1回大阪マラソンのTシャツでトレーニングしていた時に声をかけられた。それが縁で時々ジムで顔を合わすとマラソン談議をするようになった。そのS田さんが「あんた今度の交野マラソン走るんか?」と尋ねてきた。「エントリーしてます」と答えると「ワシは迷うているんや」と語り始めた。
要約すると、第1回 リングオブレッド交野市チャリティーマラソン2012に出た時が70歳だったので周りの人に80歳になるまで10年間頑張ると宣言した。そして第7回まで1時間40分の制限タイム内で完走してきた。あと3回だと思っていたらコロナ禍で大会がオンラインになってしまった。5年ぶりに再開されることになったが、あらためて第1回から第7回までの記録証を並べてみると、最初は1時間15分だったが、だんだん遅くなり第7回では1時間38分とギリギリセーフという感じでゴールした。8kmの関門で「早く早く」と声をかけられた記憶がよみがえって来たという。コロナでの4年間のブランクは大きく,約8.5kmにある第二関門を1時間30分以内で突破する自信がない。最後になる走りで途中でアウト!というのは嫌なので潔く引退宣言をしようかと迷っているという。
「まだ迷えるだけいいですやん。近所のS田さんと同年齢の人たちは杖や手押し車を手放せなくなっている人が増えて来て歩くのがやっとという感じですよ」と告げそれぞれのトレーニングに向かった。
帰宅して、「第1回 リングオブレッド交野市チャリティーマラソン2012」の時のブログを開いてみた。生ビールを賭けて走った4人の内2人は足底筋炎症や腰痛のためジムをやめた。自分自身の記録を見ても時の流れを感じた。あの時のS田さんの年齢に私がなったということだ。この先80歳を超えた時S田さんと同じように迷えるだろうか?とも思った。
ジムでも長年勤めていたスタッフのH川さんが退職していた。ここも顔なじみのスタッフが減ってきた。入所した頃からのスタッフは3人になってしまった。時の流れを思いながらトレーニングしていたら久しぶりにS田さんとお会いした。S田さんは私より10歳年上でホノルルマラソンを始め海外の市民マラソンにも多く参加している。
私が第1回大阪マラソンのTシャツでトレーニングしていた時に声をかけられた。それが縁で時々ジムで顔を合わすとマラソン談議をするようになった。そのS田さんが「あんた今度の交野マラソン走るんか?」と尋ねてきた。「エントリーしてます」と答えると「ワシは迷うているんや」と語り始めた。
要約すると、第1回 リングオブレッド交野市チャリティーマラソン2012に出た時が70歳だったので周りの人に80歳になるまで10年間頑張ると宣言した。そして第7回まで1時間40分の制限タイム内で完走してきた。あと3回だと思っていたらコロナ禍で大会がオンラインになってしまった。5年ぶりに再開されることになったが、あらためて第1回から第7回までの記録証を並べてみると、最初は1時間15分だったが、だんだん遅くなり第7回では1時間38分とギリギリセーフという感じでゴールした。8kmの関門で「早く早く」と声をかけられた記憶がよみがえって来たという。コロナでの4年間のブランクは大きく,約8.5kmにある第二関門を1時間30分以内で突破する自信がない。最後になる走りで途中でアウト!というのは嫌なので潔く引退宣言をしようかと迷っているという。
「まだ迷えるだけいいですやん。近所のS田さんと同年齢の人たちは杖や手押し車を手放せなくなっている人が増えて来て歩くのがやっとという感じですよ」と告げそれぞれのトレーニングに向かった。
帰宅して、「第1回 リングオブレッド交野市チャリティーマラソン2012」の時のブログを開いてみた。生ビールを賭けて走った4人の内2人は足底筋炎症や腰痛のためジムをやめた。自分自身の記録を見ても時の流れを感じた。あの時のS田さんの年齢に私がなったということだ。この先80歳を超えた時S田さんと同じように迷えるだろうか?とも思った。