素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

SNSで消える「公共」

2024年04月29日 | 日記
 ジムでは、ゴールデンウィークの間に子供や孫が泊まりに来る人たちの自慢話や愚痴話に花が咲く。嬉しいけれど家事をこなすのに体力の衰えを感じるという「嬉しさ半分、しんどさ半分」というボヤキが多い。生活リズムの変化に柔軟に対応できなくなってきていることを痛感するという人も。

 その中で、一人暮らしをしているHさんの話が興味深かった。以前は長期休暇の時家族旅行に出かけ実家に来ることはあまりなかったが、コロナ騒ぎが落ち着き出してからは休みのたびにこまめに来るようになった。自分では自覚していないが、周りから見ると衰えが目立ち要注意と思われているのかもしれないと複雑な思いがあると笑う。「子ども家族が来ていつもと違って家の中に多くの人がいるのだが、孤独を感じる」と話は続く。応接間のソファーにみんな座っているが、孫はスマホでゲームや動画を見ているし、息子夫婦もスマホとにらめっこ、ラインや気に入ったアプリを楽しんでいるといった具合で、自分はポツンと一軒家状態に置かれることが多い。「以前だったら、ワイワイガヤガヤととりとめのない話をし、私がついていけず、とんちんかんな質問をするとみんなで笑ったりして、家族を感じたが、今は孤独感が募る」という。

 その話を聞いていて、昨日の朝刊にあった日本芸術文化振興会理事長の長谷川眞理子さんが「時代の風」に書かれていた【SNSで消える「公共」]
というコラムを思い起こした。「今や、スマホを持つことはぜいたくではなく、ほとんどの人々が使っている。だからこそ、社会が、人間関係そのものが、変わるのだ。それが良いことなのか悪いことなのかは、いろいろ判断があるだろうが、変わったのは事実である。」として長谷川さんは、「公共」という概念がなくなるのではないかと危惧する。
「スマホを見ながら歩いてくる人がいる。私は、その人を見ながら、ぶつからないようにと思うのだが、その人は、ずっと画面を見続けていて、どこか目の隅で私を見つけるらしい。そして、ぶつかる寸前によけて通るのだが、こちらの方はちらりとも見ない。つまり、その人にとって私は、その場にいる他人ではない。電信柱でも何でもいい、ただのよけるべき障害物なのだ。

 電車の中などで、友人たちと大声で話している人たちは、それでもその場にいる人たちであった。しかしスマホで誰かとつながって、チャットしたり送受信したりしている人々は違う。彼らはその場を共有していない。つながっているのはスマホの先のどこかにいる人たちであって、隣にいる私たちではないのだ。  ということは、公共空間の概念とそこでの作法がなくなってしまったということだ。」
という指摘は鋭い。

 Hさんが息子家族と応接間という空間に居ながらその場を共有していないと感じる孤独感とつながる話だと思った。
 
コメント
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