ジムなどで強めの筋トレ、有酸素運動をやった日には、なぜか嫌な夢を見ることが多い。一番多いのは定期テストが迫っているのに試験範囲まで授業が進まず、おまけにテスト問題も作成できないというもの。夢なので展開は支離滅裂なのだが焦る気持ちに圧迫されて目が覚める。2番目が試験後の採点が進まず、成績を出す期限に間に合わないというもの。現役中にプレッシャーのかかっていたことがいまだに夢の中で追いかけて来るという感じである。
寝屋川エンジョイマラソンを走り、今日はジムで普段と変わらないメニューをこなしたので全身の筋肉の張りを強く感じて床に就いた。やはりいつも通り苦しい夢を見た。あれこれとオムニバス形式で事が進んで行ったが、最後に卒業式シーンとなった。私はなぜか卒業生の入場に合わせて一人一人の名前を読み上げる役だった。実際は担任が読み上げるのが普通だが、そこは夢。私が全員を読み上げるのである。しかも、彼ら、彼女らとはなじみの薄い設定で、読み間違い、読み飛ばしなど悪戦苦闘の連続というもの。保護者、同僚、生徒からの冷たい視線に「よく知らない人間の名前を読み上げるなんて無茶なことをさせるな!俺は人間だ!機械じゃないぞ!」と開き直ったところで目が覚めた。
「あの夢は一体何だったのだ?」と考えてしまった。
眠っている時、夢がどんな仕組みで現れるのかは全く分からないが、私は自分自身への警告だと受けとめている。するべきことを先送りにするなまけ心が私にはある。現実の生活で失敗しないために、夢という仮想空間の中でなまけ心がもたらした切羽詰まった状況を体験するのだと考えている
しかし、今回の夢は少し趣きが違った。おそらく、生成AIの登場で、人間にとっての「言葉」の問題がクローズアップされてきたことに起因しているのかもしれない。日常生活の必需品であり、知性や芸術の源である「言葉」は人類の長い歴史の中で生まれ、発展してきた。特に、漢字、カタカナ、ひらがな、アルファベットなど多様な文字を取り入れ独特の言語世界を形成している日本で生まれ育った私にとって「言葉」の問題については関心が高くなっている。
作日の毎日新聞朝刊の【メディアの風景】に武田徹さんが『「東京都同情塔」と生成AI 対話装う独り言の氾濫』というタイトルで寄稿されていた。
【 第170回芥川賞を受賞した九段理江氏の「東京都同情塔」を読んだ。コミュニケーション「できる」ことと、言葉の意味が「わかる」ことが懸け離れつつある状況への違和感が表明されている作品だと思った。
主人公の女性建築家は使い慣れて意味がよくわかる言葉を、意味不明な外来語や和製英語に言い換えてしまう傾向を嫌う。高層の刑務所「シンパシータワートーキョー」を設計中の彼女はカタカナ語の氾濫の中で、それを断固として「東京都同情塔」と呼ぼうとする。
そんな彼女の前に登場する、意味がわからないままコミュニケーションができてしまう“真打ち”が生成AIだ。彼女が差別的な言葉で挑発的に問いかけてもAIは礼儀正しく応答し、差別的表現が好ましくない理由まで説明してくれる。
だが、著者が書くようにAIは「人間が『差別』という語を使いこなすようになるまでに、どこの誰がどのような種類の苦痛を味わってきたかについて関心を払わない」。生成AIは過去の言葉遣いを集めた大規模なデータベースを用いて、問いに対して出現率の高い、無難な答えを演算して示すプログラムにすぎない。】という書き出しにハッとすることがあった。
AIによるニュースの読み上げ、岸田首相の答弁などを聞いている時に感じる違和感に通じるものがあった。端的に言えば、「自分の身体を通しての言葉ではない。」ということかな。
卒業証書授与の時の名前の読み上げをAI音声ですれば正確で間違うことはない。しかし、そこには入学以来いろいろなことを経て卒業に至るまでの個々の生徒の歩みは抜け落ちている。担任がその生徒の名を読み上げる時は、万感の思いが込められている。その違いは大勢の人には分からないかもしれないが、身近に関係してきた人には伝わるのである。苗字と名前の間に2秒の間が出来た時、その2秒は1年間なり3年間の歩みが凝縮されされたものであり、読み上げられた名前に重みを与える。
そういうことを考えていたことが夢につながったのかと思った。武田さんの【経験から遊離した言葉を独り歩きさせない姿勢には、生成AIの社会的受容法を考えるヒントも含まれているのではないか。】という締めを頭に入れて「言葉」の問題を考えていかねばと思っている。
寝屋川エンジョイマラソンを走り、今日はジムで普段と変わらないメニューをこなしたので全身の筋肉の張りを強く感じて床に就いた。やはりいつも通り苦しい夢を見た。あれこれとオムニバス形式で事が進んで行ったが、最後に卒業式シーンとなった。私はなぜか卒業生の入場に合わせて一人一人の名前を読み上げる役だった。実際は担任が読み上げるのが普通だが、そこは夢。私が全員を読み上げるのである。しかも、彼ら、彼女らとはなじみの薄い設定で、読み間違い、読み飛ばしなど悪戦苦闘の連続というもの。保護者、同僚、生徒からの冷たい視線に「よく知らない人間の名前を読み上げるなんて無茶なことをさせるな!俺は人間だ!機械じゃないぞ!」と開き直ったところで目が覚めた。
「あの夢は一体何だったのだ?」と考えてしまった。
眠っている時、夢がどんな仕組みで現れるのかは全く分からないが、私は自分自身への警告だと受けとめている。するべきことを先送りにするなまけ心が私にはある。現実の生活で失敗しないために、夢という仮想空間の中でなまけ心がもたらした切羽詰まった状況を体験するのだと考えている
しかし、今回の夢は少し趣きが違った。おそらく、生成AIの登場で、人間にとっての「言葉」の問題がクローズアップされてきたことに起因しているのかもしれない。日常生活の必需品であり、知性や芸術の源である「言葉」は人類の長い歴史の中で生まれ、発展してきた。特に、漢字、カタカナ、ひらがな、アルファベットなど多様な文字を取り入れ独特の言語世界を形成している日本で生まれ育った私にとって「言葉」の問題については関心が高くなっている。
作日の毎日新聞朝刊の【メディアの風景】に武田徹さんが『「東京都同情塔」と生成AI 対話装う独り言の氾濫』というタイトルで寄稿されていた。
【 第170回芥川賞を受賞した九段理江氏の「東京都同情塔」を読んだ。コミュニケーション「できる」ことと、言葉の意味が「わかる」ことが懸け離れつつある状況への違和感が表明されている作品だと思った。
主人公の女性建築家は使い慣れて意味がよくわかる言葉を、意味不明な外来語や和製英語に言い換えてしまう傾向を嫌う。高層の刑務所「シンパシータワートーキョー」を設計中の彼女はカタカナ語の氾濫の中で、それを断固として「東京都同情塔」と呼ぼうとする。
そんな彼女の前に登場する、意味がわからないままコミュニケーションができてしまう“真打ち”が生成AIだ。彼女が差別的な言葉で挑発的に問いかけてもAIは礼儀正しく応答し、差別的表現が好ましくない理由まで説明してくれる。
だが、著者が書くようにAIは「人間が『差別』という語を使いこなすようになるまでに、どこの誰がどのような種類の苦痛を味わってきたかについて関心を払わない」。生成AIは過去の言葉遣いを集めた大規模なデータベースを用いて、問いに対して出現率の高い、無難な答えを演算して示すプログラムにすぎない。】という書き出しにハッとすることがあった。
AIによるニュースの読み上げ、岸田首相の答弁などを聞いている時に感じる違和感に通じるものがあった。端的に言えば、「自分の身体を通しての言葉ではない。」ということかな。
卒業証書授与の時の名前の読み上げをAI音声ですれば正確で間違うことはない。しかし、そこには入学以来いろいろなことを経て卒業に至るまでの個々の生徒の歩みは抜け落ちている。担任がその生徒の名を読み上げる時は、万感の思いが込められている。その違いは大勢の人には分からないかもしれないが、身近に関係してきた人には伝わるのである。苗字と名前の間に2秒の間が出来た時、その2秒は1年間なり3年間の歩みが凝縮されされたものであり、読み上げられた名前に重みを与える。
そういうことを考えていたことが夢につながったのかと思った。武田さんの【経験から遊離した言葉を独り歩きさせない姿勢には、生成AIの社会的受容法を考えるヒントも含まれているのではないか。】という締めを頭に入れて「言葉」の問題を考えていかねばと思っている。