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素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

万事休す

2024年02月26日 | 日記
 昨日の「余録」は、1924(大正13)年2月25日に創設された東京の落語協会が100年を迎えたことにちなんだ話。そこで枕に使われたのが元は上方落語の演目でのちに東京に移されたいう説のある演目「百年目」。百年目には「おしまいの時」「運のつき」のような意味合いがある。時代劇の敵討ちの相手に放つセリフ『ここで会ったが百年目』には、「ここで拙者に会うとは貴様の運も尽きたようだな。観念しろ」という意味になる。敵を取られる方からすれば「万事休す」である。

 「余録」の本題は別の事にあったが、私は「万事休す」を見て「エッ!」と声を上げた。今の今まで「休す」の部分を「窮す」と思い込んでいたからだ。「窮」の字は困窮、貧窮、窮屈、窮状など「ゆきづまる、困る」という意味合いがあり、「すべてがゆきづまった」=「万事窮す」という具合に頭の中でなっていた。

 明鏡国語辞典で調べてみると当然だが「万事休す」であった。「もはや施す手段がない」とあり「休す」は【停止する・おしまいになるの意】と補足されていた。救いは注意として「きゅうす」を「窮す」「急す」と書くのは誤り。とあったこと。良く間違うということだ。でも間違いは間違い。すぐに修正しておこう。

 これまで漢字の勘違いは度々あったが、まだ尽きることがない。

「百年目」というオチは?

古来まれな、百年の長寿を保ったとしても、結局最後には死を免れないところから、究極の、もうどうにも逃れようもない命の瀬戸際をいう。「ここで逢ったが百年目」というのは、「百年に一度の奇跡」と解しがちだが、実は「(おまえにとっての)百年目で、もう逃れられない」という意味。旦那様に醜態をみられた番頭の絶望観を表す言葉として、このオチは見事に効いている。
圓生 百年目


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