日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

日有上人『化儀抄』

1483-07-03 | 御書要文

1
 一、貴賎道俗の差別なく信心の人は、妙法蓮華経なる故に、何れも同等なり然れども竹に上下の節があるがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか、信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に、道俗何にも全く不同有るべからず、縦い人愚痴にして等閑ありとも我は其の心中を不便に思うべきか、之に於て在家出家の不同有るべし、等閑の義をなお不便に思うは出家、悪く思うは在家なり、是れ則ち世間仏法の二なり。

2
 一、人の志を仏聖人へ取り次申さん心中大切なり、一紙半銭も百貫千貫も多少ともに志の顕はし物なり。あらわす所の志は全く替るべからず、然る間同等に多少軽重の志を取り次ぎ申すべし、若し軽重の心中あらば必ず三途に堕在すべし云々。

3
一、名聞名利は世事なり、仏法は自他の情執の尽きたる所なり、名聞名利は自身の為なるが故に世事なり、出家として此の心有る時は清浄の仏法を盗んで名聞名利のあきないになす処は仏法を盗むなり、然るべからざる心中なり尤も嗜むべし云云。

4
一、手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此の如く我に信を取るべし、此の時は、何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり云云。

5
一、行躰、行儀の所は信心なり、妙法蓮華経なり、而るに高祖、開山の内証も妙法蓮華経なり、而るに行躰の人をば崇敬すべき事なり云云。

6
一、仏事追善の引導の時の回向の事、私の心中有るべからず、経を読みて此の経の功用に依って、当亡者の戒名を以って無始の罪障を滅して成仏疑いなし、乃至法界平等利益。

7
一、同明門徒中に真俗の人を師範に訴う時、ささえらるる人、起請を以って陳法する時、免許を蒙るなり、然るに支えつる輩は誤りなり、仍って不審を蒙る間、是れも又起請を以て堅く支えらる時は、両方且らく同心なきなり、何れも起請なる故に、仏意計り難し、失に依るべきか云云。

8
一、実名、有職、袈裟、守、曼荼羅本尊等の望みを、登山しても、田舎の小師の吹挙を取 りて本寺にて免許有る時は、仏法の功徳の次第然るべく候、直に申す時は、功徳爾るべ からず云云。

9
一、真俗、老若を斥わず、いさかいを寺中に於て有る時は、両人共に出仕を止めらるるな り云云。

10

一、本寺直檀那の事は、出家なれば直の御弟子、俗なれば直の檀那なり云云。

11
一、末寺の弟子檀那等の事、剃髪を所望し名を所望する事、小師の義を受けて所望する時、望みに隋う云々、彼の弟子檀那等が我と所望する時は而るべからず云云。

12
一、仏法退大する輩、子孫なんどを信者に成し度く所望候、是れは用いられざる事なり、 志の通ぜざる故なり云云。

13
一、夏中の間勤行を成す人、夏に入るとは申さざるなり、別行の子細候よしを申すなり、案内を申す事は、夏中の間、にら一もぢを、御前にてたまわらざるは緩怠なるが故なり。

14
一、信者門徒より来る一切の酒をば、当住持始めらるべし、只、月見、二度の花見等計り児の始めらるるなり、其の故は三世の諸仏高祖開山も当住持の所にもぬけられたる所なるが故に、事に仏法の志を高祖開山日目上人の受け給う姿なり。

15
一、天台、伝教の恩徳を報ずる事有り是れは塾益の通りなり、さて本門下種の宗なる所には混乱すべからず、内鑑冷然、外適時宜等云々、学問修業して一時一句をも訓えらるる輩をも正法にて訪うべき事なり、其の外歌道と学ぶ時は、人丸の恩徳を大切にし、管紋を学ぶ時は、妙音の恩徳を報じ、釜をつかふ時は釜の恩徳を大切にし、臼をつかふ時は臼の恩徳を大切にする事有り云云。

16
一、手水の事、塩気に限るべし、不浄の物なるが故に、ただし酒には手水を仕うべし、破戒なるが故に云云。

17
一、仏法同心の間に於て人の遺跡を相続する時は、別の筋目の仏法の血脈にも入るなり、同心なき方へは、たとい世事の遺跡を続くとも、我が方の血脈にはなすとも、同心せざる方の邪法の血脈には入るべからず云々、邪法の血脈に子供を入るる時は、其の親の、一分謗法になる姿なる故に親に中を違うべし云云。

18
一、二親は法華宗なれども、子は法華宗に成るべからずと云う者あり、其の時は子に中を違うなり、違わざる時は師範の方より其の親に中を違うなり云云。

19
一、二重、十二合、瓶子等は其の時の亡者を翫したる躰なり、此の世界の風俗なり、仍って仏事作善の時は先ず三献の酒の様有り、点心はあれども所具に用うるなり、能具は酒なり、たとい湯なんどを引けども、酒過ぎて点心の前に引くなり。

20
一、紫香、青香等の色有る袈裟を懸くべからず、律師已上の用ゆる所なる故に、但し五帖、長絹、長衣等計りを用ふべきなり云云。

21
一、内衣には老若に随って其の時分の色有る小袖を用うべし、衣付には必ず白小袖を著るべきなり云云。

22
一、出仕の時は太刀を一つ中間に持たすべし、折伏修行の化儀なるが故なり但し礼盤に登る時、御霊供へ参る時は刀をぬいて傍に置くべきなり云云。

23
一、仏の供養を取り次ぎ候に、祝の時は、如法目出度く候と申し候、訪いの時は如法有り難しと云云。

24
一、弟子檀那の供養をば、先ず其所の受持の御目にかけて、受持の義に依って仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり、先師先師は過去して残る所は当受持計りなる故なり、受持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり。

25
一、他宗難じて曰く、謗施とて諸宗の供養を受けずんば、何ぞ他宗の作くる路、他宗のかくる橋を渡るか、之れを答うるに、彼の路は法華宗の為に作らず、又法華宗の為に懸けざる橋なり、公方の路、公方の橋なるが故に、法華宗も、或は年貢を沙汰し或は公事をなす、故に公界の道を行くに謗施と成らざるなり、野山の草木等又此の如し云云。

26
一、絵師、仏師、或は鍛冶、番匠等の他宗なるをつかう事は、御堂、坊等にも苦しからず、作料を沙汰するが故なり。

27
一、信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中・八億四千の念あり念念中の所作皆是れ三途の業因と文。

28
一、経を持つ人の事、今日持って明日退するとも、無二の志にて持つ時は然る可し何れの年、何れの月とも時節を定めて持つ事、爾るべからず云云。

29
師弟相対する処が下種の躰にて事行の妙法蓮華経なるが故に、本尊の前より外に、亡者の前とて別に供具をもり、又は三具足を立つる事之れなきなり、霊供なんども高祖代々の御霊供に対して備うるなり、代々の御台はあれども何れも師の方に付けて仏界の方におき、今日の霊供をば九界の方へ付けて備うる時、十界互具、一念三千にて事行の妙法蓮華経なり、仏事の時は必ず仏界へ向かわずして通途の座にて御経を読むなり、仏界より九界を利益する姿なり、是れも十界互具を躰とするなり云云。

30
一、経を読むには必ず散歌あるべし、信の時は法界妙法蓮華経なる故に一仏なり、その一仏の三身に供するなり是れ即ち本門の無作なり、天台宗に沙汰する本有の理智慈悲は理の無作なり。

31
一、卒都婆の事、縦ひ能筆なりとも題目計りをば書くべき人にかかすべし、余の願文意趣の事は然るべき作文の人能筆尤も大切にて候、又一向其の時の導師無筆ならば、代官にしても書かすべきなり、是れも師弟相対、十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経なる故なり。但し導師計りの外には沙汰あるべからざることなり云云。

32
法華経をば一部読まざれども、一部本尊の御前にもおき、我が前にもおくべきなり、方便寿量品につづめて読むも一部なり、されば経文には皆於此経宣示顕説文、御書には、皆於此経宣示顕説とは一経を指すに非ず題目の五字なりと遊ばさるる故なり、仍お法華経に於て文義意の三の読み様あり、夫れとは一部二十八品を読むは文を読むなり、又十界互具の法門を云うは義を読むなり、亦題目計り唱うるは意を読むなり云云。

33
一、当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍つて今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断或の導師を本尊とするなり、地住已上の聖者には末代今の五濁闘諍の我等根性には対せらるべからざる時分なり、仍つて方便品には若遇余仏便得決了と説けり、是れをば四依弘経の人師と釈せり、四依に四類あり、今末法四依の人師、地涌菩薩にて存す事を思い合すべし。

34
一、唐朝には鉢を行う故に飯をもち上げて食する事、唐の土の法なり、日本にてはクギャクにて飯を用ゆる故に持ち上げざるなり、同じく箸の礼も唐の法なる故に日本にては用いざるなり、日本にても天台宗等は慈覚大師の時分までは葎の躰にて唐主の振舞なり、慈恵大師の代より衣鉢を捨てて折伏修行の躰たらくにて一向日本の俗服を着らるるなり、聖道は何れも日本の風俗なり云云。

35
一、法華経は不軽の礼拝一行を本となし、受持の一行計りなり、不軽は威音王仏の末法の比丘、日蓮聖人は釈迦仏の末法の比丘なり、何れも折伏修行の時なり云云、修一円因感一円果文、但受持の一行の分の読誦解説書写あるべし、夫れとは梅桃のさねの内にも枝葉になるべき分之れ有り、之れを思うべし

36
一、当宗には談義あるべからず、其の故は談義とは其の文段を横に沙汰する故に智者の所作なり、当宗は信の宗旨なる故に爾るべからず、但し竪に一宗の建立の様を一筋云い立つるは説法なり、是をば当宗にゆるすべきなり、愚者の聞く耳なるが故に云云。

37
一、卒都婆を立つる時は大塔中にて十如是自我偈を読みて、さて彼の仏を立つる所にて、又十如是自我偈を読むべし、是れ又事の一念三千の化儀を表するか。

38
一、一日十五日、香炉に香を焼て天の経の内へ参らすべきなり云云。

39
一、法楽祈祷なんどの連歌には寄り合わず、其の故は宝号を唱え三礼を天神になす故に、信が二頭になる故に我宗の即身成仏の信とはならざるなり云云。

40
一、帰命の句の有る懸地をばかくべからず二頭になる故なり、人丸の影、或は勝鬼大臣等の影をばかくべきなり云云。

41
一、仏事引導の時、理の廻向有るべからず、智者の解行は観行即の宗旨なるが故なり、何にも信者なるが故に事の廻向然るべきなり、迷人愚人の上の宗旨の建立なるが故なり、夫れとは経を読み題目を唱えて此の経の功用によって成仏す等云云。

42

一、龕など用うべからず、唐土の躰たらくの故なり、但し棺を用うべきなり。

43
一、霊山への儀式なるが故に、他宗他門、百門に於ても同心なき方をアラガキの内へ入るべからず、法事なるが故なり云云。

44
一、上代の法には師範より不審を蒙る族をば一度訪うべし、二度とは訪うべからずと、云う大法なり、其の故は与同罪の科大切なり、又堅く衆に同心に会せずしてこらさん為めなり、亦衆に見こりさせん為めなり。

45
一、師範の方より弟子を指南して住山させ、又我が身も住山仕らんと披露するより全く我身なれども、我と、はからひえぬ事なり。既に仏へ任せ申す上は、私に、はからひえぬ事なり、然るは行体にささるる時は我は用が有ると云い、又我はしえぬなんと云う人は謗法の人なり、謗は乖背の別名なりと、妙楽大師釈せられ候、即身成仏の宗旨を背く故に、一切世間の仏の種を断つ人に候わずや。

46
一、当宗の経を持つ人、二親をも当宗の戒名を付けて又仏なんどをも当宗の仏を立つる時、初七日より、乃至四十九日百箇日乃至一周忌乃至十三年・三十三年までの仏をも立てて訪なわん事然るべし云云、何れの時にても年月日なんどは訪わん時を始めとして仏も書く事・子細に能わず云云。

47
一、学問修行の時、念比に一字一句をも習い候う人、死去なんどの後は、経をも読み仏をも立てて霊供なんどをも備えて、名をも付け訪わん事子細に能わず、其の謗法の熱情をこそ同ぜざれ、死去の後熱情に同せずして、訪わん事子細なきか、縦い存生たりと云うとも其の謗法の熱情に同せずして祈壽をもなさん事子細なきか。

48
一、父親は他宗にて、母親は法華宗なる人、母親の方にて其の信を次ぐべき間、彼の人二は経を持たすべきなり其の故は人の種をば父の方より下す故に、父は他宗なるが故に、母方の信を次ぐべき人には初めて経を持たすべきなり云云。

49
一、白腰をさしたる摺をば法華宗の僧も著べし染袴きべからず。

50
一、一里とも他行の時は十徳を著すべし裳付衣のままは然るべからざるなり、裳付衣は、常住の勤行の衣なるが故に、ただし、十徳の上に必ず五帖けさをかくべきなり、只十徳計りにては真俗の他宗に不同なきなり。

51
一、有職・免許の後は状などには有職を書くべし、緩い怠のぎにあらず、俗の官堵寿領の後、状並びに着到なんどには書くが如し云云。

52
一、謗法の妻子眷属をば連連教化すべし、上代は三年を限って教化して叶わざれば中を違うべしと候いけれども、末代なる故に人も機も下機なれば五年十年も教化して、彼の謗法の処を折伏して同ぜざる時は正法の信に失なし、折伏せざる時は同罪たる条分明なり云云

53
一、当宗は折伏の宗なる故に山居、閑居、宗旨に背く云云。然れども付弟を立てて後は宗旨の大綱に背かず云云。

54
一、他宗なんど祈祷を憑みて後は、此の病、御祈祷に依って取り直し候わば御経を持ち申すべき由、約束の時は祈祷を他宗に憑まれん事子細なきか、左様の約束も無くして他宗の祈りを成さん事は謗法に同ずる条、更に以って遁れ難し云云。

55
一、学問修行の時は宗を定めざる故に他宗の勤め行事をなし、又他宗のけさ衣をかくる事一向子細なきか、宗を定むる事は化他門なり、学問修行は自身自行なるが故なり云云。

56
一、親先祖、法華宗なる人の子孫は経を持たざれども、真俗血筋分かるに皆何れの代なりとも法華宗なるべし、根源となる躰の所、仏種を断つ時、自ら何れも孫ひこの末までも断仏種なり、但他宗他門の真俗の人、法華宗の真俗の人に引摂せられ師範の所にて経を持つ人は、縦い引摂する真俗の人仏種を断つ故に不審を蒙るといえども引摂せらるる他宗他門の真俗の人は仏種を断つ引摂せらるる人に同ぜずんば師範の不審を蒙るべからず云云。

57
一、法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背の別名なるが故なり、門徒の僧俗の中に加様の人ある時は再三私にて教訓して用いずんば師範の方へ披露すべきなり、其の義無くんば与同罪遁れ難き故なり云云。

58
一、門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を背せらるる事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり。

59
一、法華宗の真俗の中に知らずして仏法の義理を違え化儀を違うる事、一定辨えず違えたらば、罰文起請を以って義理を違うると云わば免許有るべきなり云云。

60
一、遠国住山の僧衆の中に本尊、守り、有職、実名等の望み有らば、本寺住山の時分たりとも田舎の小師の方へ、本寺に於て加様の望み候、如何為す可くやと披露して、尤も然るべき様、小師の領納を聞き定めて、本寺に於いて、加様の望みを申す時は田舎の小師に談合を致し、加様の望み申す由申され候時、諸事の望みに隨って本寺に於て免許候えば、信の宗旨に相応して事の宗旨の本意たり、其の義なき時は理の宗旨、智解の分に成り候て爾るべからず云云。

61
一、居住の僧も、遠国の僧も、何れも信力志は同じかるべき故に、無縁の慈悲たる仏の御代官を申しながら、遠近偏頗あるべからず、善悪に付いて門徒中の事をば俗の一子を思うが如くかえりみん事然る可きなり。
但し機類不同なるが故に、仏法の義理をひずみ、又は本寺のうらみを含まん族有りとも尚此の如くひずむ族の科を不便に思わん事、仏聖人の御内証に相叶ふべきか、但し折伏も慈悲なるが故に、人の失をも免ずべからず、能く能く教訓有るべき事なり、不思議に有り合ふ、世事の扶持をも、事の闕けん人を、本と為して少扶持をも成さん事尤も然るべし云云。

62
一、諸国の末寺へ本寺より下向の僧の事、本寺の上人の状を所持せざる者、縦い彼の寺の住僧なれども許容せられざるなり、況や風渡来らん僧に於てをや、又末寺の坊主の状なからん者、在家出家共に本寺に於て許容なきなり云云。

63
一、諸国の末寺より登山せずんば、袈裟をかけ又有職を名乗り日文字などを名乗る可からず、本寺の上人の免許に依って之れ有るべし、坊号又此くの如し云云。

64
一、法華宗は天台の六即の位に配当すれば名字即、始中終の中には名字の初心聞名の分に当る故に、寺は、坊号まで、官は有職までなり、仏教の最初なる故なり云云。

65
一、他宗他門より納る所の絵像、木像等を他宗に所望すれども出ださず、又は代を以ってかうとも売るべからず、一乗より三乗に出で又一乗に帰る姿なるが故に無沙汰にすべからず云云。

66
一、六人上主の門徒の事、上首帰伏の時は、元より六門徒なるが故に門徒を改めず同心すべし、さて門徒の先達未だ帰伏せざれば衆僧檀那に於ては門徒を改むべし等云云。

67
一、事の即身成仏の法華宗を建立の時は信謗を堅く分かちて身口意の三業に少しも他宗に同ずべからず云云、
身業謗法に同ぜざる姿は、法華宗の僧は、必ず十徳の上に五帖の袈裟をかくべきなり、是れ即ち誹謗法華の人にて軈て法華宗と見えて結縁せしめん為なり、若し又十徳計りにて真俗の差異なき時は身業が謗法に同ずるにて有るべきなり、念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば口業が謗法に同ずる姿なり、彼の折伏を心中に油断すれば心業に同ずるなり云云。

68
一、仏の行躰をなす人には師範たりとも礼儀を致すべし本寺住持の前に於ては我が取り立ての弟子たりとも等輩の様に申し振る舞うなり、信は公物なるが故なり云云。

69
一、法華宗の僧は天下の師範たるべき望み有るが故に、我が弟子門徒の中にて公家の振舞いに身を持つなり、夫れとは盃を別にし、しきのさかなの躰にする事も有り、又はなげしの上下の如く敷居をへだてて座席を構うる事も有り、此くの如く振る舞うは我が宗、我が門徒にての心得なり、他宗他門に向かって努々あるべからざる事なり云云。

70
一、法華宗は何なる名筆たりとも、観音妙音等の諸仏菩薩を本尊と為すべからず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり、是れ則ち法華宗なり、今の時の諸人は愚迷なるが故にあまた事を雙べては信心が取り難き故に只法華経計りに限りて本尊とするなり云云。

71
一、他宗初めて法華経を持つ時、御酒を持たせ酒直等を持参する時、未だ法華経を持たざる巳然なるが故に世事にて仁義に用うるなり、仍って此の方よりも紙扇のさたあり云云。

72
一、他宗の法華宗に成る時、本所持の絵像木像並びに神座其の外他宗の守なんどを法華経に納むるなり、其の故は一切の法は法華経より出でたるが故に此経を持つ時又本の如く妙法蓮華経の内証に事納まる姿なり、総じて一生涯の間大小権実の仏法に成す所の所作、皆妙法蓮華経を持つとき、妙法蓮華経の功徳と成るなり、其の時実の功徳なり云云。

73
一、法華宗は能所共に一文不通の愚人の上に建立有るが故に、地蔵、観音、弥陀、薬師等の諸仏菩薩を各拝する時は信があまたになりて法華経の信が取られざる故に諸仏菩薩を信ずる事を堅く誡めて、妙法蓮華経の一法を即身成仏の法ぞと信を一定に取らせらるるなり信を一法に取り定る時は諸仏所師所以法也と釈して、妙法蓮華経は諸仏如来の師匠なる故に受持の人は自ら諸仏如来の内証に相叶ふなり、されば四巻宝塔品には我即歓喜諸仏亦然と説けり云云。

74
一、本寺直の弘通所にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟たるべし、其の所の代官の私の弟子には有るべからず、既に代官と云う故に初従此仏菩薩結縁の道理爾らざる故なり云云。

75
一、他宗の神社に参詣し一礼もなし散供をも参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人なり、就中正直の頭を栖と思し召さん垂迹の、謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還って諸神の本意に背くべきなり云云、但し見物遊山なんどには神社へ参せん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云。

76
一、謗法の人の所に勧請の神社に垂迹あるべからず、と云う義は爾なり、我が正法の人として正法の神社を修造せん事は如何と云云。
 是れは道理然なれども、惣じて、此の国は国王将軍謗法の人にて在す故に、謗法の国には垂迹の義有るべからず、という法門の大綱なるが故に小社などを建立しては法門の大綱混乱する故に謗法ならん間は神社を必ず建立なきなり、此の国正法の国ともならば垂迹を勧請して法華宗参詣せんに子細有るべからず云云。

77
一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守りをば書くべし、但し判形は有るべからず本寺住持の所作に限るべし云云。

78
一、曼荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるる事も之有り、希なる義なり云云。

79
一、日蓮聖人の御書を披見申す事、他門徒などの御書をも書写しこい取りつつなどして見るべからず、本寺の免許を蒙るべし、其の故は当宗は信の上の智解なるが故なり云云。

80

一、田舎より児にて登山して本寺に出家するは、本寺のいたちに同ずるなり、田舎にて児なれども田舎にて出家すれば爾るべからざるなり云云。

81
一、霊供を備うるには、仏供二つ、日蓮聖人より代々の御霊供を備えて今日の亡者の霊供に備うるなり、皆大儀なれば日蓮聖人の御台計り備え申して、余の代々をば御さん計り備え申して、さて其の日の亡者の霊供を備うべし代々上人の御台をしたてぬは略儀なり云云、又亡者俗人なんどならば其の霊供をば少し下く備うべし云云。

82
一、茶湯有るべからず、唐土の法なるが故に霊供の時も後に酒を供すべし云云、此の世界の風俗は酒を以て志を顕わす故に仏法の志をも酒を以て顕わすべしと云う意なり云云。

83
一、俗の亡者乃至出家たりとも余の常の出家の霊供の飯をば出家に与ふべからず、俗の亡者は位い出家に劣るが故なり、高祖已来代々の御霊供を賜わらん事は子細に能わず云云。

84
一、門徒の僧俗の謗罪を見隠し聞き隠すべからず与同罪遁れ難き故なり、内々教訓して用ひずんば師範に披露なすべきなり云云。

85
一、親類縁者一向に一人も無き他宗他門の僧俗近所に於て自然と死去の事有らば念比に訪ろうべし、死去の後は謗法の執情有るべからざる故なり、若し一人も縁者有って見次がば自ら其の所に謗法の執情を次ぐ故に然るべからず云云。

86
一、他宗他門等の人死せば知人ならば訪ふべし、但し他宗他門の本尊神座に向かって題目を唱へ経を読まず、死去の亡者に向かって之を読むべし、惣じて法界の衆生の死去の由を、聞き受けて之を訪ろうべし云云。

87
一、縦い禅、念仏の寺、道場の内なりとも法華宗の檀那施主等が之れ有らば仏事を受くべきなり云云。

88
一、縦い昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主が無くんば仏事を受くべからず、但取骨までは訪ろうべし云云。

89
一、法華宗の法師は他宗他門の人に交わる時は我が人体の分程と振舞ふべし、懈怠すべからず、又卑劣すべからず、俗姓程になるべし、我が法華宗の中にては貴賤上下を云はず仏法の信者なるが故に卑劣すべからず云云。但し檀那に依り不肖の身たりと雖も上座に居する事有り云云。

90
一、本寺に於て小師を持ちたる僧をば小師に届けて仏の使いなんどにも、檀方へも遣わし其の外の行躰をも仰せ付けらるるなり云云。

91
一、本寺へ登山の諸国門徒僧衆は三日の間は仏の客人たる間賞翫之れ有り云云。

92
一、釈迦の末法なる故に在世正像の摂受の行は爾るべからず、一向折伏の行なるべし、世、嶮なるが故なり云云。仍て刀杖を帯するなり、之れを難ずべからず云云。

93
一、法華宗は折伏修行の時なる故に、断酒、定斎、夏に入るなんどといい、又断食なんどと、云う事有るべからず云云。

94
一、法華宗は大乗の宗にて信心無二なる時は即身成仏なるが故に戒の持破をも云はず、又有智無智をも云はず、信志無二なる時は即身成仏なり、只し出家の本意なるが故に何も持戒清浄ならん事は然るべし、但し破戒無智にして已上すべからず云云。

95
一、法華宗は他宗の仏事作善をば合力せざるが功徳なり、其の故はかたきの太刀、刀をばとぎて出すべきか、敵のようがいをこしらえて無用なるが如し、仍て他宗の仏事の合力を為すべからず云云。但し、公事なんどの義は別の子細なり云云。

96
一、他宗の親兄弟の中に病災等に付いて祈祷を成すべき子細あらば我が信ずる正法の法華宗の出家を以って、我が所にて祈祷せば尤も仰せに随うべし、既に兄弟が正法の檀那なるが故に彼の仰せに子細なしと云云。

97
一、他宗の親、師匠の仏事を其の子、其の弟子、信者にて成さば子細有るべからず。

98
一、末寺の事は我が建立なるが故に不弟を我と定めて此の由を本寺へ披露せらるる計りなり云云。

99
一、日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり、内には本尊を懸けらる。是れは本門寺の朽木書と云云、今の義にあらず、天下一同に法華経信仰の時は当宗の鎮守は八幡にて在すべし云云、大隅の八幡宮の石の文に昔は霊山に存りて法華経を説き、今は正宮の中に有りて大菩薩と現ずと八幡の御自筆有り、釈迦仏の垂迹にて在すが故なり云云、所詮朽木書きとは手本と云う意なり。

100
一、他宗の仏事善根の座へ法華宗の出家、世事の所用にて行く時、彼の仏事の時点心を備うには食すべきなり、既に請せず。又ロサイにも行かざる故に態とも用意して翫なすべき客人なれば備うるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり、又法華宗の仏事作善の所へも禅宗念仏宗の出家の請せず、またロサイの義もなくして、世事の用にて風渡、来らるるには、有りあたえたる時、点心を備うるなり、是れ又謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり云云。

101
一、法華宗の仏事作善に縁者親類の中に合力の子細之れ有り、是れは法華宗の人を能開とする故に世事を於て他宗の合力有とも世事は自他宗同時なり、法華宗能開の世事は自他同時なるが故に子細なきか云云。

102
一、他宗の親を其の子法華経を持ち申すべく候、訪って給わる可き由申さば訪うべし、子とは親の姿の残りたる義の故に子が持つは親の法華経を持つ全躰なり云云。

103
一、師匠の法理の一分を分かちたる弟子が正法に帰する時は謗法の師匠の正法を信ずる姿なるが故に弟子の望みに依って謗法の師匠を訪うべきなり云云。

104
一、親師匠は正法の人なれども、其の子、其の弟子謗法たらば彼の弟子、子に同じては訪うべからず、但し謗法の弟子、子はイロハずして正法の亡者を訪うべし、但し孝子なくんば取骨までは其の家にて訪うべし、其の親の姿が残りたる故に、其の後は謗法の弟子、子の供養受くべからず云云。

105
一、師範の時世間の義に依って所領等を知行あらば、其の跡を続く弟子縦い他人たりとも、真俗の跡を続くに子細有るべからず、謗法の所領を領するには成るべからず、其の地頭のそ子の分に当るなり云云。

106
一、謗法の人、子を法華宗に成して彼の此の供養と号して法華経を供養する事有り、子が能開と成る上は子細なく之れを納むべし云云。

107
一、所にて仏事作善を広大になす時、其の所の謗法の地頭などの方へ、酒の初ほを進らする事一向事仁義なり、又其所などに他宗他門の仏事、法会を成す時、其所の然るべき法華宗なんどの所へ酒の初ほをつかわす事有り是は世事の仁義なり、受け取る人も世事仁義と心得、請け取る可きなり云云。

108
一、法華宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供まいらせ花を捧ぐる事有り之れを制すべからず、既に順縁なるが故なり、但し大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば一向取り次ぐべからず、謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云云。

109
一、非情は有情に随う故に他宗他門の法華経をば正法の人には之を読ますべからず、謗法の経なる故に、但し稽古のため又は文字を見ん為めなどには之れを読むべし子細有るべからず、現世後世の為に仏法の方にては之を読むべからず云云。

110
一、袈裟衣等惣じて仏具道具等の事。一向他宗に借すべからず、又他宗の仏具道具等をも法華経の法会に借るべからず、既に非情は有情に随うが故に謗法の有情の道具は自ら謗法の道具なり、但し世事の志にて謗法の道具を正法の方へ取り切り乃至料足などにてかい切っては正法の方に成しては子細有るべからず云云。

111
一、仏聖人の御使いに檀方門徒へ行きて仁義にても引出物を得たる時は本寺の住持の前にて披露するなり、其のまま我が所には置くべからず云云。

112
一、世間病なんどの有る檀方の方へ御仏の御使いに行きて帰りたる時は、水をあびて本堂へ参りて其の後上人の御前へ参りて後に小児などのそばへも行くなり。

113
一、法華宗は人の死去円寂の所をばいまず、只今荼毘のにわより来る禁忌の人なれども一向に忌まざるなり、只産屋月水等をば堅く是れをいむなり云云。

114
一、法華宗の御堂なんどをば日本様に作るべし、唐様には作るべからず坊なんども結構ならんは、中門車寄なんどをもすべし云云。

115
一、薄袈裟にうづら衣はスワウハカマに対するなり、イクワンの時は法服なり、帷を重ねたる衣に長絹の袈裟は直垂に対するなり云云。

116
一、釈尊一代の説教に於て権実本迹の二筋あり、権実とは法華已前は仏の権智、法華経は仏の実智なり、所詮釈尊一代の正機に法華已前に仏の権智を示さるれば機も権智を受くるなり。さて法華経にて仏の実智を示さるれば又機も仏の実智の分を受くるなり、されば妙楽の釈に云く権実約智約教と釈して権実とは智に約し教に約す、智とは権智実智なり、教に約すとは、蔵通別の三教は権教なり、円教は実教なり、法華已前には蔵通別の権教を受くるなり、本迹とは身に約し位に約すなり、仏身に於て因果の身在す、故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方へ取るなり、夫れとは修一円因、感一円果の自身自行の成道なれども既に成道と云う故に断惑証理の迹の方へ取るなり、夫より已来機を目にかけて世々番々の成道を唱え在すは皆垂迹の成道なり、華厳の成道と云うも迹の成道なり、故に今日、華厳、阿含、方等、般若、法華の五時の法輪、法華経の本迹も皆迹仏の説教なる故に迹なり、今日の寿量品と云うも迹中の寿量なり、されば経に約すれば是れ本門なりと雖も文。
さて本門は如何と云うに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり、下種とは一文不通の信計りなる所、受持の一行の本なり、夫とは信の所は種なり心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以てそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行相似は熟の位分真究竟は脱の位なり、脱し終れば名字初心の一文不通の凡位の信にかえるなり、釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐと釈して、脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是れなり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く釈には益なきなり、皆本門の益なり、仍って迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則ち法華経の本意滅後末法の今の時なり。

されば日蓮聖人御書にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫とは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付属を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為なるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、嘱累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故は住本顕本の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、夫れとは涌出品の半品、寿量の一品、分別功徳品の半品合して一品二半なり、是れは迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所用なり、滅後の為には種の方の題目の五字なり、観心本尊抄に彼は一品二半、是れは但題目の五字なりと遊す是なり云云。

117
一、神座を立ざる事、御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書き之れ有り、師匠有れは師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向ふ所、中央の妙法なる故に、併ら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ則事行の妙法、事の即身成仏等云云。

118
一、当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり、経の文に若遇余仏便得決了文、疏の文には四依弘経の人師と釈する此の意なり、されば儒家には、孔子、孝子を本尊とし、歌道には人丸・天神を本尊とし、陰陽には晴明を本尊とするなり、仏教に於て小乗の釈迦は頭陀の応身、権大乗の釈迦は迦葉舎利弗を脇士とし、実大乗の釈迦は普賢文殊を脇士とし、本門の釈迦は上行等云云。故に滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり。其の故は神力結要付属とは受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊とすべき時分なり、是れ則本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種をそだつる智解の迹門の始めを熟益とし、そだて終って脱する所を終りと云うなり、脱し終れば種にかえる故に釈に実体なきなり、妙楽大師、雖脱在現、上の如し云云、是れより迹門無得道の法門は起こるなり云云。

119
一、法華経を修するに五の様あり、夫れとは受持、読、誦、解説、書写等と云云、広して修するは像法の読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根機極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四字を修したもうなり、日蓮聖人は方便寿量の両品を助行に用い給うなり。文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し、塔婆などに題目を書写するは受持の分の五種の修行と心得べきなり

120
一、一乗要決に曰く諸乗の権実は古来の諍いなり、倶に経論に拠り互に是非を執す、余、寛弘丙午の歳冬十月病中歎じて曰く、仏教に遇うと雖も仏意を了せず、若し空手に終ては後悔何ぞ追わん、爰に経論の文義、賢哲の章疏、或は人をして尋ねしめ、或は自ら思択し、全く自宗他宗の偏党を捨て専ら権智、実智の深奥を擇び終に一乗は真実の理、五乗は方便の説なるを得たる者なり、既に今生の矇を開く、何ぞ夕死の恨を遺さんや文。

121
一、涅槃経の九に曰く、諸の衆生命終の後、阿鼻地獄の中に堕して方に三思有り、一には自ら思わく我が至る所何れの処ぞや、則ち自ら知りぬ是れ阿鼻地獄なり、二には自ら思わく何の処より而も此に来生する、則ち自ら知りぬ人界の中より来る、三には自ら思わく何れの業因に乗じて而も此に来生する、則ち自ら知りぬ大乗方等経典を誹謗するに依って而も此こに来生す。

「仰せに曰く二人とは然るべからざる由に候、此の上意の趣を守り行住坐臥に拝見有るべき候、朝夕日有上人に対談と信力候わば冥慮爾るべく候なり」
時に文明十五年初秋三日書写せしめ了んぬ。
御訪に預るべき約束の間、嘲りを顧みず書き進らせ候なり、違変有るべからず候。                               筆者 南条日住

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