日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

創価学会における池田名誉会長への個人崇拝の誤りを破す②

1991-06-10 | 時局資料

3.学会における個人崇拝の実状

 イ 池田氏の第3代会長就任と学会路線の変遷

 今日、学会問題が生じた根本の原因は、一つには「同じ御本尊を拝んでいながら信仰的な依り所が異なる」、すなわち1宗教2法人という構造的な問題と、二つめに「その別法人によって結果的に生じてくる組織の長=池田名誉会長=に対する絶対化」に伴う信仰的な個人崇拝の問題にあると考えることができる。
 特に、個人崇拝については、既に戸田会長に対しても「地涌の菩薩の棟梁である」とか「大聖人の再誕」などという表現がなされていた。しかし、今日の池田氏への個人崇拝の度合は、その内容の強大さといい、崇拝者の数といい、戸田会長の比ではない。池田氏への個人崇拝の実状を述べる前に、池田氏が会長に就任してから、今日に至るまでの、信仰上の変遷を概観しておきたい。
 池田氏が戸田前会長の跡を受けて、第3代の会長に就任したのは、昭和35年5月3日である。この就任式における氏の決意は、
「申すまでもなく、わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下にご奉公申し上げることが学会の根本精神であると信じます。(中略)恩師である戸田城聖先生の、総本山に忠誠を尽くされた、その心を心として今、私は全学会員を代表して、日達上人猊下により以上の御忠誠を誓うものでございます。」
というものである。つまり、「本門戒壇の大御本尊」と「血脈付法の御法主上人」を根本とした、宗門700年来の正しい信仰に基づいて御奉公していくという決意である。
 しかるに、その後、池田会長の指揮のもと、全国的な折伏に伴う信徒の増加と、新寺院を建立しての宗門への寄進等によって、池田氏は少しずつ宗門に対する自己の影響力を考えるようになったのか、仏法で誡めている 慢の心が生じてくるようになるのである。
 その最も顕著な例は、昭和40年11月10日、東京・品川区の妙光寺における事件である。当日、日達上人の御臨席のもと、正本堂建設委員会が行なわれる予定であった。ところが、池田氏は座配の問題(池田氏を日達上人と並べなかったことが気に入らなかった)で、当時、宗門の総監であり、妙光寺の住職であった柿沼広澄師(大東院日明贈上人)を罵倒し、流会にしてしまったというものである。
 また、この頃より、会員の池田会長に対する個人崇拝が、盛んにみられるようになった。昭和41年2月の『大白蓮華』には、学会の教学試験(講師)の優秀答案の例が掲載されている。その中で、
「主師親の三徳を現代生活の上から説明しなさい」
という問いに対して、
「池田会長のみがこの主師親の三徳を備えている」
というものが、模範答案となっている。日蓮正宗の教えにおける主師親の三徳具備のお方とは、本仏宗祖日蓮大聖人ただ御一人のみである。この基本的な教義を承知の上で、このような解答を優秀なものとして掲載していることの裏には、「池田会長を仏と仰いでいる者がいる」ということを知らしめる意と、「皆さんもそのように崇めていきなさい」という洗脳の意との、二つの意図があるということである。
 また、昭和42年2月号の『前進』では、
「私から幹部の任命を受ける事は、記別を受ける事」
「私を中心にして御本尊を信ずる事によってこそ(中略)
幸福境涯を確立することが出来るのです」
と、会員に教えている。記別とは、仏が弟子に対して将来の成仏の予証を与えるものである。それを「私を中心にして御本尊を信ずる」というのは、自らが既に仏であるか、それに近い尊い立場であると慢心しての発言であろう。戸田前会長には、後々の会員が神格化するようなことがあっても、池田氏のように「自らが自らを神格化する」というようなことは全くなかったのである。
 昭和43年11月度の本部幹部会における池田氏の発言は、一般新聞での「葬式の合理化運動」を取り上げ、「坊さんを呼ばないとか、死亡通知だけでよい、という様な考えです。これも、私は大賛成です。」
「日蓮正宗は葬式仏教ではなく生きるための仏教です。葬式に必ずしも御僧侶を呼ぶ必要はない」
等と発言し、宗祖大聖人の御在世の時代から執り行われている葬式等の仏事を否定している。これは、仏法を信奉していながら、日蓮正宗の化儀(儀式・法要・行体等)を否定する考えである。このように、本宗の化儀を無視し、軽んずるという姿勢は、既にこの頃より池田氏の本心として存していたのである。したがって、今日の学会の方針は、この池田氏の化儀否定、形式無視の具体化ともいえよう。
 以上のように、池田氏には、第3代会長に就任して間もなく、自分を仏と思わせるような不遜・驕慢の言動が表われ、洗脳教育をし始めたのである。
 ただ、特に宗門・僧侶に対して、顕著に軽視・敵視するようになったのは、正本堂が落成した昭和47年以後である。その理由について、日顕上人は、平成3年1月6日・10日の教師指導会において、
「池田氏の正本堂に対する意義付けとそれにともなって、自分が宗祖の御遺命を達成した」
という、大きな慢心による旨を明らかにされている。
 もともとそのような人柄であったことは、前述の通りであるが、池田氏は正本堂の建立をもって、宗祖日蓮大聖人の御遺命の「本門事の戒壇」であるとしたのである。また、そこには、そのための広布達成と御遺命の達成を、「全て私がしたのである」という大きな慢心も窺われるのである。さらに、正本堂の建立によって、宗祖日蓮大聖人の三大秘法の全てが成就し、宗門への奉公は終わったとしたのである。そして、いわゆる学会でいう広布第二章が始まり、学会独自の在家教団としての路線を、より鮮明に敷いていくことになったのである。
 池田氏の本質的な考えに基づく「在家中心の教団」という流れの中から、昭和52年の逸脱謗法路線が現われた。さらに、それを反省懴悔したにもかかわらず、わずか10年で反古にし、再び在家中心の路線が姿を見せたのである。現在、学会は信徒団体であることを忘れ、一教団として、宗門利用の目的を達すべく、宗門にあらゆる誹謗中傷を繰り返し、攻撃しているのである。
 52年路線における信仰的な、また教団的な誤りを指摘するならば、戸田2代会長、または池田会長を、仏もしくは久遠の師として敬い、帰命することを教えたことである。
 また、当時の池田会長は、「大聖人への直結」を唱えた。そして、第2祖日興上人・第3祖日目上人以来の御歴代上人を、「途中の人師論師」といって、高僧から高僧への血脈相承は必要ないとして、宗教の命脈である重大な付嘱の義を否定したのである。これは、宗祖日蓮大聖人よりの唯授一人の血脈相承、及び仏法付嘱の義を否定するとともに、さらに僧宝としての御歴代上人をも否定するという、二重の重罪を犯したことになるのである。大聖人直結の信仰姿勢は、今日の多くの日蓮系新興宗教が主張するところである。本宗が、正統・正嫡の門流たる所以は、宗祖日蓮大聖人より唯授一人の血脈相承をもって、今日まで法統連綿と、正しく法を護持してきたところにあると知らなければならない。
 また、このように、宗門本来の御歴代上人を僧宝と拝する義を否定しながら、現代の僧侶として、学会幹部、もしくは学会員全体を有髪の在家僧と立てたのである。また、「総本山──末寺──信徒」という本来の教団の在り方も廃し、「学会の会館は現代の寺院である」という意義付けの上から、「会館──会員(信徒)」という流れをつくり、会館で葬儀・彼岸法要・結婚式といった大切な儀式・法要を行ないだしたのである。
 池田氏は、はじめ「大御本尊と御法主上人」にお仕えすることを宣し、誓ったのであったが、会長に就任してわずか8年後には、化儀としての大切な葬儀等には、正宗僧侶の回向は必要なしという「在家仏教主義」を、既に指向していたことが判る。同時に、会員に対して、池田崇拝を巧妙に仕組み、長い時間を費やして洗脳し、自らは御法主上人を超え、宗祖大聖人にも値する存在であるかの印象を人に与えたのである。否、それ以前に、だれよりも自分自身が、本気でそのようなことを信じていたのかもしれない。そういう「一切が自分中心に動いている。全てが自分中心でなければならない」という大きな慢心と執着心が、在家である池田氏をして、自分を中心にした在家教団の設立実現ということにつながったのであろう。
 もともとの尊大な人柄にも由来するとはいえ、結果的に日蓮正宗の信仰からは大きくかけ離れ、信仰心もなくなり、総本山と正宗の御本尊という仏法を利用し、かつ多くの会員を犠牲にして、自らの支配欲・権力欲・名声欲を満たしているのが、氏の今日の悲しむべき姿である。少なくとも、今日、池田氏をみて、三宝を敬い、三宝に帰依する仏徒とは思いがたい。すなわち、仏宝たる日蓮大聖人を蔑ろにして、戸田前会長もしくは氏自らを仏であるとし、また僧宝たる御歴代上人と血脈を否定して、在家有髪の氏自らが、学会員に対して、自分を通して御本尊を拝する信仰を強要している。
 さらに信じがたいことは、いわゆる御本尊模刻ということである。一分でも信仰心のある者ならば、御本尊をいろうなどということは絶対に出来ないことである。そのことは、たとえ昨日入信した人でも、御本尊への信仰心があるならば、いわれなくても判ることであろう。
 このように、池田氏は、日蓮正宗の三宝の義を故意に無視し、学会を日蓮正宗の信仰とは異質な信仰集団として形成してしまったのである。すなわち、その異質な信仰とは、今日の在家における新興宗教によくみられるような、池田氏個人への崇拝を中心とした信仰で、御本尊と御書と池田名誉会長という図式の中での信仰である。25年間の長きにわたって、「広宣流布」という言葉と日蓮正宗の御本尊を利用して、池田氏自身が形成してきた池田氏への個人崇拝は、当然、学会法人設立時の三原則にも大きく違背し、さらに「誤れる三宝」への帰依は、当然、本宗の教義・信仰に背いた謗法といわなければならない。
 なお、平成2年12月末以来の学会の宗門批判は、52年路線のむし返しであるため、ここでは省略する。前回と違う池田氏の対応は、自分は一切表に出ず、幹部を駆使しながら、多くの洗脳された会員を道づれに、徹底して御法主上人や宗門に反逆・攻撃していることである。


 ロ 池田氏への個人崇拝の実状

 既に、昭和41年頃からおよそ25年の長きにわたって、他の者をして自らを絶対化させ、あるいは自らをして神格化させるという洗脳教育の中で、公称1千万人といわれるほとんどの学会員は、日蓮正宗で説く下種三宝尊への帰依・恭敬という本来の信仰から離れ、ただひたすら池田氏への個人崇拝に終始し、これをもって信心・信仰としてしまった。これは、前にみてきたように、日蓮大聖人の御在世より、昭和の初めに至るまで、700年間続いた日蓮正宗本来の「本師──小師──信徒」という、師弟子をただした正しい信仰の在り方ではない。本宗の信仰は、学会という組織の長であろうと、法華講という組織の長であろうと、その信仰における尊敬・敬愛の念を、組織の長に向けてはならない。信仰的尊敬・敬愛の念は、つねに僧宝たる御法主上人へと導かねばならない。そのためには、今日の法華講連合会の委員長のように、自らも敬い、他にも敬わしめることでなければならないのである。
 今日の多くの学会員の姿をみると、特に信仰の在り方について、会員各位が全て組織の言いなりであり、「自分で考える」ということが果たしてあるのだろうかと疑うほどである。
 例えば、今回の問題でも、「お寺にお参りに行くな」と指示が出されれば、実際には迷っている人・悩んでいる人もたくさんいるはずなのに、ほとんどの人は参詣しない。「寺院からのパンフレットや週刊誌は読むな」といわれれば、自分で読んで考え、判断しようとしない。寺院からパンフレットが送られてきても、寺院まで出向いていって、ことの真実を住職等に尋ね、自ら判断しようとする方は少ない。ただただ、大本営の発表たる「聖教新聞」等の学会の出版物や幹部の話しか耳に入れようとしないのである。「右を向け」といわれれば全体で右を向き、「左を向け」といわれれば皆で左を向くというのが、各自の主体性を殺している学会の姿である。
 池田氏は、会員には自分を仏のように崇めることを教えるが、会員には仏法でいう「無疑曰信」という信仰姿勢をダブらせ、「愚直であれ」と説いて洗脳する。「無疑曰信」とは、御本尊に対する絶対の信をいう。また、宗祖日蓮大聖人御建立の三大秘法の宗旨は、一往外相の上からいえば8宗10宗とある中で、いずれが正しいかを究明せられた上で立てられた仏法である。したがって、むしろ真実を究明し尽くした仏法であり、本尊である。はじめから考えることを止め押さえた宗旨ではないのである。
 今日の、特に婦人部や青年男子・女子部等はまことに愚直であり、仏法や世法の道理の上から考えて、学会の体質に不信を抱くということが全くなく、事の善悪・邪正を分別していく批判力が皆無といってよい。「愚直であれ」という言葉は、会員の盲従化を計っていく意味ではなかろうか。
 この学会組織に対する会員の無批判な態度は、どこから生まれてくるかといえば、ひとえに神格化された池田名誉会長に由来している。池田名誉会長が「絶対」であり、「偉大」であり、常に「誤りが無い」ために、学会という組織そのものも「絶対」であり、「偉大」であり、「間違いが無い」のである。したがって、幹部の指導も絶対であり、間違いないという構図なのである。
 問題なのは、池田氏への絶対化・神格化が、宗祖大聖人の最勝・最尊の仏法と信仰、すなわち「人の信ずる行為」とダブらせ、そして池田氏に対する、より強大な崇拝が形づくられているということである。同じ日蓮正宗の信徒とはいえ、法華講は自由でのびのびとした信心、個人の人格が尊重された自主独立の信仰をしている。この在り方に比べ、学会員の信仰は、画一的・統一的であり、そして全体主義的である。したがって、組織に対する批判はもとより、池田名誉会長に対する批判は全く許されない。また、第三者からの批判も、「一切が正しいことを行ずる為の法難」として、聞き入れる耳を持たないのである。まさに、信仰を利用した独裁者・池田氏の君臨する、不自由で不平等な息苦しい一種独特の体質をもった組織なのである。故に、学会の体質は、そのまま池田氏の性格の表われともいえよう。しかも、その洗脳教育のしからしむるところか、学会組織にいる人達の多くは、これを当たり前として、少しも違和感を感じないのである。
 昭和41・2年頃からの信仰の変遷に伴い、今日、結果的に仏法を利用して、自ら思うがままの支配・権力・名声を得ようとしていることと、尊い広宣流布のために精一杯御奉公しているということとが紙一重のため、なかなか見分けがつきにくい。しかし、少なからず多くの会員は、ただ純粋に池田氏を信じて、後者のために活躍していると思って疑わないのである。ただし、問題は池田氏である。池田氏自身の信仰の根本・大本に狂いがなければ、当然、後者であると判断されよう。しかし、池田氏の、三宝をことごとく蔑ろにし、破っている姿勢をみれば、前者の仏法利用と指摘されても、やむを得ないことであろう。
 いま、池田氏の側近の幹部・地方の幹部は、池田氏の在家仏教教団指向という誤れる謗法路線を守り、歩み、また正当化しようとしている。そのため、会員の葬儀を、正宗僧侶に依頼しないで、幹部の導師のもとに行ない始めた。これは、もちろん正宗700年の化儀を破壊する謗法行為であるとともに、つねに「大聖人の御精神のままに」といいつつ、その宗祖大聖人の示された化法・化儀の在り方に背く大罪である。
 何よりも伝統仏教の常識を無視し、信徒・会員が一番してほしくないことを、強引に押し通そうとする恐るべき行為である。これらは、全て池田氏への個人崇拝の徹底による、池田氏の日蓮正宗の仏法・化儀の私物化である。この個人崇拝は、また多くの会員の犠牲の上に成り立っているのである。池田氏への、この強大なる個人崇拝がこのまま続くならば、氏の願う在家教団として独立する可能性は大きい。


4.個人崇拝の誤り

 イ 人法一箇の御本尊と三宝一体

 本宗で拝している御本尊は、「人法一箇」の御本尊と称する。末法出現の宗祖日蓮大聖人を人の本尊として拝し、大聖人が久遠元初に証得せられ、また所持される南無妙法蓮華経の本法を法の本尊として拝するのである。すなわち、この御本尊には仏宝と法宝が、一体不二として既に具備されているのである。御本尊はそのまま御本仏の命であり、大聖人の御当体である。大聖人の御当体を離れては、妙法は存しないのである。
 ところが、特に学会員が御本尊を拝する場合、法宝たる南無妙法蓮華経の法本尊のところは拝しても、仏宝たる日蓮大聖人を正しく拝せてはいないのではないか。または、大聖人に戸田前会長・池田名誉会長を重ねて拝しているのではないか。このように御本尊を拝する基本的な誤りが存する故に、戸田・池田会長の本仏論がしばしば唱えられるのではないかと批判するのである。
 また、仏宝・法宝の一体不二がぼんやりと理解できていたとしても、さらに大切なことは、「帰依・帰命する仏法僧の三宝は常に一体である」ということを、心から領解できているかどうかということである。僧宝、すなわち日興上人以下御歴代上人への信順・信伏随従という姿勢をもって、人法一箇の御本尊を拝することが、三宝一体という拝し方である。特に御歴代上人は、本仏大聖人の仏宝の内証を付嘱・伝持遊ばされるただ一人のお方である。この事実の上から、特に本宗では、『御本尊七箇相承』に、
「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」
とあるように、内証の上から代々の御法主上人を、即日蓮大聖人とまで拝し、信順して仏法の教導を賜るのである。このような大聖人の相伝・遺誡を無視して、ただ法宝としての御本尊のみを拝し、仏宝・僧宝を蔑ろにすることは大きな誤りである。つまり、仏法僧の三宝を、等しく同じように尊崇・恭敬していくことが、三宝への帰依ということである。

 

 ロ 二頭の信心の誤り

 もともと法華経は、仏の随自意の教えなるが故に、法・仏に対する絶対の信心と、「不受余経一偈」という純粋な信仰が求められている。故に、宗祖日蓮大聖人は、『日女御前御返事』
に、
「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり」
とも、『上野殿御返事』に、
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、(中略)此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」
とも仰せられているのである。すなわち、宗祖御建立の三大秘法に対して、さらには三大秘法の本尊に含めた仏法僧の下種三宝尊に対して、余事をまじえない絶対・無二の信心こそ、成仏の直道なることを教えられている。大聖人の教義に対して、権迹のみならず外道の余事まで含めて敬い、まじえて玉石混交して、我見・計我の講演をしているのが、池田名誉会長の昨今である。
 「南無妙法蓮華経に余事をまじえない」ということは、ただ法宝のみについてばかりではない。帰依・尊崇する対境として、三宝は一体なる故に、仏宝・僧宝についても、同じく余事たる他仏・他僧をまじえないのが、日蓮大聖人の仏法である。
 「南無妙法蓮華経」の御本尊を受持し、題目を唱えていても、もし本宗で立てる仏宝・僧宝以外の仏・僧を敬い、崇めるならば、御本仏日蓮大聖人に対する絶対の信を失い、邪義謗法となるのである。このような誤った信仰姿勢を、「二頭の信心」といって、古来、本宗では厳に慎み誡めるところである。すなわち、日有上人の『化儀抄』第39条には、
「法楽祈祷なんどの連歌には寄り合はず、其の故は宝号を唱なへ三礼を天神になす故に、信が二頭になる故に我宗の即身成仏の信とはならざるなり云云」
同じく第40条に、
「帰命の句の有る懸地をばかくべからず二頭になる故なり」
と仰せのように、菅原道真を和歌の神として祭る連歌の寄り合いに集まり、神の名を唱えたり、礼をすることや、「南無観世音」とか、「帰命頂礼釈迦牟尼仏」等と、「南無=帰命」の文字のある他宗の仏・菩薩の掛軸を掛けたりしてはならないのである。それは、本宗で立てる三宝に対して、その信仰が二つになるからであり、余事をまじえない純一無雑の法華経の信心から外れるからである。
 「帰命」とは、仏法僧の三宝に、身命を捧げて帰依し、信ずることをいう。本宗の御本尊を拝し、題目を唱えていても、よく学会員がいうように「池田先生のリズムに合致したい」とか、「池田先生に命をかけてついていく」という姿勢は、まさにこの二頭の誤った信心のあらわれである。つまり、三宝に正しく帰命していないという、多くの学会員の否定できない現実の姿でもある。
 僧宝たる御法主上人の御指南・御指摘を、素直に拝することができず、池田名誉会長を護るためには、むしろ御法主上人すら軽蔑し、誹謗・悪口をしてしまう。このような今日の学会の姿は、ただ「心情的に敬愛しているだけ」ということだけではない。池田氏を「絶対者」、もしくは「絶対善」として崇めている証拠である。すなわち、学会員は、池田氏に対して、信仰の次元における仏・僧宝として崇拝していることに気づかなければならない。
 昭和55年11月26日、御当代日顕上人は、学会創立50周年記念幹部登山の折、
「もし、その会長に対する信頼と尊敬が、いわゆる神格化につながるようなことがあれば、それは明らかに日蓮正宗の信徒団体としての在り方から逸脱することになるのであります。」
と御指南されている。それにもかかわらず、この10年間、個人崇拝への大きな信仰上の誤りは、少しも改められなかったということである。
 このような池田氏への個人崇拝をする学会は、「釈迦仏」や「観音菩薩」を崇めながら本宗の信心をするという、誤った二頭の信心の姿を如実に物語るものである。すなわち、本宗で立てる三宝の中でも、とりわけ仏宝・僧宝を軽んじ、蔑ろにし、さらに破壊する、という信仰上の大罪であると断じなければならない。


 ハ 仏法の師弟と人生の師の誤り

 本宗の信徒団体の長たる者は、自らつねに本宗の三宝を敬い、さらに他をして、本宗の三宝を敬うことを教える立場でなければならない。ところが、自ら三宝を蔑ろにし、他には己に帰命し、己を敬うことを洗脳するとは、仏罰をも信じぬ恐れ多い破仏法の因縁・所行である。多くの会員に、絶対的なこととして己に帰することと敬うことを、本宗の信仰に結びつけて教えたのが、池田氏の師弟論である。
 我々が生きていくためには、世法のことから仏法のことに至るまで、様々な師を得なければならない。と同時に、その師に対する恩の大小・軽重・厚薄をも、弁えなければならないのである。世法のことを教えてくれる師よりも、三世にわたって出離生死の成仏を教えてくれる仏法の師の恩は、まことに大きく、厚いのである。したがって、成仏を目指して信仰をしていく者にとっては、世法の師よりも、仏法の師がより大きく重いことを知らなければならない。同じ仏法の師でも、直接の手続の小師よりも、本師たる御歴代上人の恩は大きく重い。さらに根本の正師たる本仏日蓮大聖人を、最も大きく重い仏法の師として仰いでいくのが、本宗本来の信仰である。
 細かい論証はここでは省略するが、戸田前会長も師と弟子については種々言及している。しかし、重厚なる仏法の師弟と、軽小なる世法の師弟の在り方は、いささかも乱すことなく、明確に区分されていた。ところが、池田氏は、世法と仏法の師弟関係を全て一緒にし、仏法の重厚なる師弟論を用いて、己を神格化してしまったのである。
 会長といえども、仏法の師弟の筋道からいえば、「解悟の善知識」でなければならないであろう。また、本宗の本来の信仰と教団の在り方からいえば、池田氏は、信徒会員を地元の末寺の小師に親近すべきことを教え、さらには総本山嗣法の本師たる御法主上人を仰ぎ奉ることを教える立場でなければならない。ところが、この本来の師弟の在り方を、根本から壊乱して、己に帰することを説き、永年にわたって会員を洗脳してきた悪書が、小説『人間革命』である。その最たるところは、第3巻の「結実」の章と、第10巻の「脈動」の章である。「結実」の章には、
「この若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有の師への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである。」
 これは、人生の師を、仏法における仏宝・僧宝と混じ、人生の師に対して、使用してはならない「帰命」の語を用いて、会長に対する会員の思いを絶対化したものである。すなわち自分が戸田会長に帰命してきたとすることをもって、そのまま自分の弟子である全ての会員にも、自分に帰依しなければならない、ということを示すものである。すなわち、会員に対する自分への帰依の強要である。
 さらに、「脈動」の章においては、
「師の意図が脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとるとき、師弟の連結は、はじめて師弟不二の道をまっとうすることが辛うじてできるといわなければならない。師弟に通ずる生命の脈動こそ、不二たらしめる原動力である。」
 ここでは、師の道を弟子が実践していくという「師弟不二」を説いている。文中、「脈動」とか、「五体」とか、「生命の脈動」等の語は、恐れ多くも唯授一人の血脈相承たる「血脈の次第日蓮日興」に模した、人生の師に対する師弟不二論である。つまり、人生の師弟関係に、仏法の大事たる「血脈」の義を盗み入れたのである。そして、「唯仏与仏」という仏の境界における師弟関係にまで持ち上げ、己を絶対化しようとしているのである。人生の師・世法の師と仏法の師とは、どこまでも一線を画し、同じ次元において論じたり、扱ったりしてはならない。それを、あえて同次元に扱って、仏と仏、もしくは御歴代上人における唯授一人の血脈相承のような師弟論を牽強付会し、池田氏自らの神格化・絶対化を計ってきたのである。
 師が仏法を信じ行ずるからといっても、それをただちに仏法の血脈相承に基づく師弟論にまで持っていってはならない。唯授一人の血脈相承は、我々僧俗が帰依する信仰の主体であり、我々はその信仰の主体に帰依し、信順し、弘通していくのみである。いかに帰依し、いかに信じ、そしていかに実践弘通していくか、それを教えるのが、組織の中での師弟論でなければならない。
 池田氏の場合、宗祖大聖人の絶対的な血脈相承に基づく師弟論を立てた所以は、ただ師匠への、すなわち自分への絶対度・崇拝度を高めるためである。その絶対度・崇拝度の大きさは、例えば「師が地獄に行くならば、自分も地獄に行く」という言葉によって表現される。学会内では、池田氏に対するこのような姿勢・生き方が尊ばれているのである。これでは一体何のための師弟論なのか。信仰の目的である成仏をするための師弟論ではなかったのか。学会でいう人生の師、とりわけ池田氏と、仏法の教導の師たる御法主上人、さらには根本の正師たる日蓮大聖人とを、同じ次元では絶対に論じてはならないのである。
 本宗においては、宗祖大聖人を仏と崇め、血脈付法の御法主上人を本師と仰ぐのである。その上で、地元の寺院住職を直接の小師として、本仏と本師、本師と小師、小師と信徒という縦の信仰の筋目を重んじるのである。このように、師弟子をただし、それぞれ超えることなく、師に随従していくことが、成仏の直道であり、師弟相対の本義である。故に、31世日因上人は『有師物語聴聞抄佳跡』に、
「当宗の即身成仏の法門は師弟相対して少も余念無き処を云ふなり」
と仰せられ、更に65世日淳上人は、
「師弟の関係を整へることが最も大事であって、此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである。」
とも仰せられている。つまり、宗祖日蓮大聖人、2祖日興上人以来、本宗に伝えられてきた師弟相対の信仰が、いかに重要であるかを御教示されているのである。この師弟相対が重んじられる所以は、ひとえに本仏日蓮大聖人からの法水・血脈が、「本仏→本師→小師→信徒」という縦の次第で流れ通い、即身成仏の大功徳を成就していく、という教義に基づくからである。

 創価学会の伝統的な考え方の一つに、広布至上主義というものがある。つまり、「広宣流布するものは全てに勝れて尊い」という考え方である。日蓮大聖人の「広宣流布」という御遺命達成のためには、何をやっても、どんなことをしても、許されるという考え方である。むしろ、広宣流布という大義名分の名を隠れ蓑にした上で、世法の悪事や不善も、また仏法上の逸脱や謗法も、全て正当化されるという感さえある。
 また、今の創価学会の体質は、そのまま池田氏の性格が表われたものといえる。「広宣流布、広宣流布」といっても、もっと大事なことは、その流布していく根本・主体となるものである。つまり、「何をどう弘めていくか」ということが、一番重要なのである。
 今、学会でいう広宣流布とは、大御本尊と血脈を護持する唯一正統門流たる日蓮正宗を利用し、学会の組織を拡大していくことに、変質してしまっている。しかし、それは、日蓮正宗で伝える三大秘法の宗旨、さらには末法下種三宝尊、日蓮正宗の化法・化儀の広宣流布ではない、ということを正しく見極めなければならない。御本尊を拝み題目は唱えるが、仏宝・僧宝は蔑ろにするという、三宝破壊の学会の今日の誤れる姿勢は、当然、本宗本来の信仰ではない。池田氏自ら長年にわたって計ってきた、池田氏への絶対的な個人崇拝によって生じた異流義といわなければならない。すなわち、池田氏の、日蓮大聖人の仏法の私物化であって、まさに魔の所行と断ずるものである。
 どれほど、世法において名声を得ようとも、成仏を説く仏法に違背するならば、池田氏の「世界の偉大な識者たらん」とする言行は、単なる名聞名利の世事であり、本宗の教義とは無縁のものであることを知らなければならない。
 三宝に帰依し、三宝を護持する清信の僧俗は、どこまでも本門戒壇の大御本尊と、血脈付法の御法主上人を厳護申し上げ、富士の清流を未来永劫に流れ通わさんとするのみである。

     以  上 

この記事についてブログを書く
« 葬儀について | トップ | 創価学会における池田名誉会... »