何を言い出すのか、と思われる人も多いだろうが、まぁ、話しを聞いてください。
先日山谷MC{マザーテレサの修道会}のクリスマスの日のことです。
私は毎年この日をいつもの白髭橋の炊き出しよりもゆっくりとおじさんたちと会話が出来るので楽しみにしていた。
可能であれば一分一秒でもひとりでも多くのおじさんと話しをしたいと考えていた。
毎週土曜日の炊き出しに行くために起きる一時間前にこの日の朝は起きられた。
用意の無事整え、いつもよりも早い電車に乗り込むと私はこの車中の時間を楽しむための読書にこの日ドストエフスキーの処女作「貧しい人びと」を開いた。
最初は私の苦手な長い手紙のやり取りに嫌気も差してきた、私はどうもこういった手紙のやり取りの小説に現実味を感じず、どうも苦手なのだ。
だがドストエフスキーは違った。
処女作とはいえ、十二分にドストエフスキーらしいダイナミックな文章とその文面から溢れ出す息遣いに魅了された。
そうなると新宿まであっという間だった。
山手線のなかでも同じことが続いた。
「あっ、、、」と思った。
降りなければいけなかった日暮里から電車はすでに鶯谷に向かってしまっていた・・・。
数日前から楽しみにしていたおじさんたちの会話、今朝もあまり寝ないで早く起きして、ここまで来たのに、少しでも早く山谷に生きたかったのに・・・。
自らの吐き出すため息にどっぷり包まれるように、そのなかからもまたため息を吐いた。
私はすっかりドストエフスキーにやられてしまった。
私は「カマラーゾフの兄弟」を読んでいた時も下車しなくてはいけない駅を三度乗りこし、今回もまたやられてしまったのだ。
ドストエフスキーはもちろんダメではない、素晴らしい作家だ。
そしてまた降りなければいけない駅を降りれなかった私も案外ダメではない。
なぜなら無我夢中になって本を読める喜びと楽しみを知っているからだ。