雪月花 季節を感じて

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美へのまなざし 千利休と青山二郎

2006年09月28日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 風に木犀の香を聞く候となりました。桜がちらほら色づき始めています。
 夜長にゆっくりと本をひらくのが楽しみです。秋なので、手にとるのは文化・芸術の本ばかり。この夏、松涛美術館(東京渋谷)で開催されていた「骨董誕生」展を鑑賞して以来、稀代の目利き・青山二郎という人物のことを知りたくなり、しばらく関連の書にあたっていました。ところが、読みすすむうちに話は利休の茶のことにまで及んでゆきます。これまでつねづね「利休の茶とは何だろう?」と考えてきたので、理解を深めるよい機会になりました。


千利休と青山二郎
 小林秀雄と白洲正子を骨董の世界に引きずりこんだ天才的目利き・青山二郎を知るには、白洲さんの『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫)が良著です。「骨董とは、美とは何か」を知る前に、一生をかけて自ら選んだモノと人にトコトン付き合ってゆくとはどういうことなのか‥というのがこの本の眼目で、青山二郎の生きざま─彼がいなくなったいまでは、それが彼の思想だったといえるのですが─には、深い「愛」がありました。
 また、青山二郎が、それまで誰も目もくれなかったシロモノに独自の眼力で「美を発見し、創作した」人物であったという点で、千利休とまったく重なります。利休にとって、それは高麗の民器(美術品でなく、ふだんの暮らしに使ったうつわ)であった井戸茶碗や楽茶碗であったし、青山にとっては桃山陶(志野や唐津のやきもの。こちらも民器)でした。青山は茶の湯のことは知らなかったけれども、利休の茶のこころは十全に理解していたでしょう。
 ところが、生前、利休も青山も多くのことを語らなかったし、利休は自分の創作した美の世界を懐に抱いたまま「自分が死ねば茶は廃れる」と言い残し、秀吉の命を容れて死んでゆきましたし、青山はこの世の美を呑み尽くした末に、所有品のほとんどを手放してこの世を去ってしまったので、残されたわたしたちは、いったい利休とは、青山二郎とは何者だったのか、その実態をつかめないでいるのが実情です。

自分が死ねば茶は廃れる」の意味
 『いまなぜ青山二郎なのか』の中で白洲さんがすすめている本が、画家で作家の赤瀬川原平氏の『千利休 無言の前衛』(岩波新書)です。赤瀬川氏は映画『秀吉と利休』(原作は同題の野上彌生子の小説)の脚本を書いたことで知られていますけれども、当時の草月流三代目家元・勅使河原宏氏から脚本を書いてみないかと依頼されたとき、赤瀬川氏自身は茶の湯のことはまったく無知だったそうです。もちろん、引き受けた後は利休のことを調べ尽くして脚本が成ったのだし、彼も青山二郎と同じように茶の湯を知らずとも利休の茶のこころを理解して、そういった意味で、かえって新鮮な目で利休を見つめてなおしており、実に興味深い利休研究の書になっています。

 赤瀬川氏は、利休は前衛作家だといいます。形を構築しながら、つねに新しいひらめきの中に生き、創作しつづけていた人物だからです。「閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない」という直感的世界。そんな微妙なところに生きた利休は、秀吉という時代の権力をもつきぬけていた危険な人物でもありました。
 さらに、利休は「人と同じことをなぞるな」とも言っており、それは文字どおり「あなたは利休ではない、あなただけのことをやれ、新しいことをしなさい」という意味ですが、赤瀬川氏はこれを「芸術の本来の姿、前衛芸術への扇動である。‥‥前衛としてある表現の輝きは、常に一回限りのものである」と喝破します。また、そんな一回限りの輝きを求めるこころを、「別の言葉では『一期一会』ともいう」という氏の言葉に、はっとさせられました。
 そうすると、利休や青山がなぜ黙して語らなかった(いえ、語ることのできない世界に生きていた)のかが理解できます。彼らは一回性の、一瞬の輝きの継続などありえないことを、知っていたからです。

 利休の死後、彼の遺した言葉や形をなぞってみたところで、その輝きを再現することはもうできません。その結果、茶は形骸化がすすむばかり‥ というのが、「自分が死ねば茶は廃れる」の意味だったのです。

一個の茶碗は茶人その人である」(青山二郎の言葉より)
 茶の湯も骨董の世界も、この世の一握りの人たちだけによって運営される閉鎖的なものになってしまった現代、それでは美をもとめるこころや眼の力を養う機会は失われたかといえば、そんなことはないと信じたいのです。
 道を知ることは大事だけれど、いったん知ってしまったら、そこからなかなか抜けられません。日ごろから柔軟な思考と知識を離れた眼を養わなければとうていむつかしいでしょうが、素人であるわたしたちは、ついふだんの暮らしをおろそかにして、生活を成しているモノ(道具)の重要性を見失いがちです。青山の言うとおり、一個の茶碗がすなわち茶人を、骨董がそれを使う人のこころを映し出す、とすれば、毎日わたし(あなた)が使っているモノや、常にそばに置いているモノこそ、わたし(あなた)自身ということになります。そのことをまったく意識せず暮らして、日本の文化を生きているとはいえない─ ということを、わたしたちは考えてみる必要がありそうです。


 花と花器の関係を「道具が先で、花は従なのだ」と喝破した白洲さんの言です。

 それにしても、この頃の展覧会の混雑ぶりは異様で、ちょっと近よれない感じがするが、日本人の生活力と好奇心の現れと思えば、喜ぶべきことなのだろう。柳宗悦氏は、しきりに「じかに物を見る」ことを説いたが、そこではじかに見ることが、未だ充分に行われているとは思えない。‥知識を持つのはむろんいいことだ。が、物がなくて知識だけあるのは恐ろしいことである。箱書だけ尊重するのと同じように、自分で見たり、考えたりする力をなくし、いつも外の力に頼る。いつの間にか生活のすべてに亙ってそれが習慣と化すからだ。
 鑑賞という言葉も、昔はなかった。鑑賞とは、‥生活の中で、物と一緒に暮らすことを指し、長い間暮らしてみれば、人間と同じように、‥何かしらはっきりつかむものがある。‥知識とか理論とか、間に何も交えない直接な鑑賞法を、柳さんは「じかに物を見る」といったのである。

(白洲正子著 『美は匠にあり』より)

 わたしも、偉人の後ばかり追わずに、一度じっくりと自分の身のまわりを観察してみようと思います。そこから何もかも始まっているのですから。利休のいう六感(=直感、ひらめき)というものは、日ごろから五感を鍛えなければ得られないものであることを、忘れてはいけません。


_______________________________
【おすすめ展示会情報】
? 滋賀のMIHO MUSEUMで、特別展「青山二郎の眼」を開催中。(2006年12月17日まで)
  図録は青山二郎が所蔵していた本阿弥光悦作「山月蒔絵文庫」をデザインした函に
  入っています。boa!さんのブログに写真が掲載されています。
? 東京日本橋の三井記念美術館で、開館一周年記念特別展「赤と黒の芸術 楽茶碗」
  開催中。(2006年11月12日まで)

※ 『いまなぜ青山二郎なのか』、『千利休 無言の前衛』、『美は匠にあり』は、
  雪月花のWeb書店 で紹介しています。
  今回の絵「紅志野香炉」は、青山二郎から白洲正子へとわたった「This is 桃山」という名品。
  裏にはすすきの絵が描かれていて、形も線も色の味わいも美しい。

 

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40 コメント

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一陽さんへ (雪月花)
2006-12-11 14:39:42
> 一陽さん、はじめまして。
ご訪問有難うございました。わたしもつい先日ミホ・ミュージアムまで出かけてまいりました。青山や白洲さんの言葉は一陽さんのお仕事の潤滑油なのですね。一陽さんのようにものづくりをされている方の視点は、わたしにとりましては新鮮です。
截金といえば、最近人間国宝の江里佐代子さんの作品を見る機会がありました。じつに繊細な根気のいる作業ですね。一陽さんの作品は色づかいがとてもきれい。今後も楽しみに拝見します。
これからもよろしくお願いいたします。
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トラックバックありがとうございました (一陽)
2006-12-10 13:47:29
素敵な方にトラックバックしていただけて、とても嬉しいです^^ありがとうございます。

私はといえば截金というもので、もっと日常で使ってもらえるものを作れないものかと、模索の日々でございます。
ですから青山さんのお言葉にはとても勇気付けられるものがありました。白洲さんにしても、ものを作る人間にとっては、とてもありがたい方々です。

私はどんな形になっても、ものつくりを続けていくと決めています。
でも美は見てくれる方が美と定めるものなのですね。
また雪月花さんにも、私の作品を覘いていただけたら幸いです。

素敵な方がいらしてくれたことを、感謝しています。



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祝、ブログ再開 (雪月花)
2006-11-26 11:54:03
> mokaさん、
ブログを再開されたとのこと、おめでとうございます。わたしはすっかりmoka616さんのことを忘れておりまして、たいへん失礼しました。でも、この記事のおかげで再会できましたことはうれしいご縁です。これからもよろしくお願いします ^^ のちほどあらためてご挨拶にうかがいますね。
わたしは来週末にミホ・ミュージアムまで出かける予定です。青山二郎のことを知る知らないにかかわらず、彼の眼が選んだモノをじかに見られることをわたしも楽しみにしていて、mokaさんのように純粋な目で観てみたいと思っています。
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TBより、うかがいました (moka)
2006-11-25 14:22:23
こんにちは。TBからこちらにうかがって、驚きました。実は、6月8日のブラジリエの絵に惹かれてコメントさせていただきました。その時はmoka616という名前でした。事情があってブログを閉鎖しましたが、嬉しいことに続けられるようになりました。よろしくお願いします。
「青山二郎の眼」展は、素晴らしかったです。
小林秀雄さん、白州正子さんを通じて青山二郎さんのことを知りました。私は青山さんを理解したいというわけではなく、彼の眼の確かさ、すごさを信じて、いい物に出会えることを楽しみに行きました。素晴らしい満ち足りた時間でした。
雪月花さんの世界にふたたび出会えました。拝見させていただくのが楽しみです。
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RE: 冷茶のレシピ (雪月花)
2006-10-22 11:47:05
> わん太夫さん、こんにちは。

数日留守にしていてお返事が遅れました、ごめんなさい。

ご丁寧にレシピまで添えていただいて有難うございました。時間をかけて水で抽出する方法なのですね。紅茶の水出しを試したことはありますけれども、コーヒーや緑茶でもできるなんて。これからはあたたかい飲み物の季節だけれど、水出しでつくり置きをして、飲むときに温めてもよいかもしれませんね。試してみます ^^
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冷茶のレシピ (わん太夫)
2006-10-20 00:46:54
雪月花さん♪

コメントとトラックバック有難うございます。

以下に冷茶のレシピを。

玉露で冷茶を作るときの、人数分の水と茶葉とは、お湯で作るときと同じ分量でOKです。

一人分の時はグラスで、2~3人分のときは、コーヒーサーバー等に茶葉を入れ、水を注ぎ、

ラップ等で蓋をして密封し輪ゴムを掛けて空気に触れないようにします。

常温で1時間~1時間30分を目途に茶葉の抽出を待ちます。

これ以上長く抽出させると渋みが出てしまいます。

時間が来たら、茶漉しを使って別の容器に移します。

また同じようにラップをして冷蔵庫で冷やします。このとき残った茶葉は、今度はお湯を注ぐと、

それはそれで美味しく飲めますので捨てないで下さい。

約1時間冷やせば飲み頃になります。但し限度は8時間から~12時間迄に飲んで下さいです。

それ以上は、風味が落ちてしまいます。

出来上がったお茶は、風味が豊で、甘味もたっぷりありますので、

美味しい和菓子をお供にしていただくことをお勧めします。

飲む時間に合わせて、時間を遡って作り始める事をお勧めします。

直接冷蔵庫に入れて抽出することもできますが、少し時間がかかります。

コーヒーや紅茶も水出しから作ると、クリアーな色に出来上がり、見た目も綺麗です。

飲み口もすっきりしています。コーヒーの場合は、出来上がりをブラックで飲むのをお勧めします。

ただ、抽出時間と温度の管理が難しいですよ。

会社では、来客の時間と人数が前もって分かっていれば、それに合わせて作っておき、お出しします。

なかなかに好評をいただいております。
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RE: お茶を楽しむ (雪月花)
2006-10-19 17:00:13
> わん太夫さん、

毎日の仕事でお忙しいことと思いますけれども、お茶のひとときをもつことはたいせつですね。水出しの玉露があるのですか? それなら気軽にオフィスで一服‥も可能ですね。お知り合いの方も、お茶碗をいただいたらうれしいでしょう。抹茶用としてだけでなく、用途は使い手のアイデアで自由に使っていただけたらうれしいですね。
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お茶を楽しむ (わん太夫)
2006-10-19 13:24:04
雪月花さん♪

コメントとTBありがとうございます。

最近水出しのお茶に凝っていま。

茶葉の種類や水の温度、抽出時間等で微妙に味が変化します。それを楽しんでいます。

玉露も、こんなに甘いものかと再認識しました。

最近はいろいろなお祝いのお品に、そんなに高くはないのですが、お抹茶の茶碗を差し上げています。会社の近所には焼き物を扱う会社が多いので。
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RE: 利休と楽茶碗 (雪月花)
2006-10-19 11:50:34
> わん太夫さん、こんにちは。

トラックバックを有難うございました。楽茶碗の系譜をご覧になったのですね。講演会にも参加されたとか、わたしも聴講したかったです。

三井記念は、照明もさることながら、いくつかのの茶碗は360度の方向から鑑賞できるよう、個別のケースに展示されている点がすばらしいです。すべての茶碗というわけにはいかないのでしょうけれども、見る角度によってちがった表情を見せる茶碗鑑賞の楽しみを満足させてくれます。

ひとくちに楽茶碗といいましても、あんなにもゆたかな表情を見せてくれるのですね。今回の展示では、ノンコウはもちろん、十五代吉左衛門の作品にとくに惹かれました。
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利休と楽茶碗 (わん太夫)
2006-10-18 23:43:24
TBをさせていただきました。三井記念美術館で開催中の樂茶碗は、正に利休の意思が長次郎に乗り移って体現化されたものですね。
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睡眠はたいせつ (雪月花)
2006-10-06 08:36:06
> たそがれ清兵衛さん、

ところで、いつもコメントをいただく時刻が気になります。午前2時とか3時とか‥ ちゃんと寝てます? お肌と体のためにも、きっちり睡眠時間を確保してくださいね。
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ありがとうございます (たそがれ清兵衛)
2006-10-06 03:37:49
私は「こだわり」を、これまで「我執」と読み換えていました…。(一概には言えないのでしょうね…)



「美は宗教である」という貴女の宣言には、とても魅かれました。(皆、忘れてる…)



私は普通の言葉しか綴れませんが「下品も卑下すべからず」「上品も漏るることあり…」と言いますから、無学を省みず、お邪魔させていただくことにします。



きっと、貴女は後悔なさることになるでしょう(笑)
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こだわりすぎです (雪月花)
2006-10-05 07:31:52
> たそがれ清兵衛さん、

わたしも、経験も知識もゆたかなみなさんからの有難いコメントに毎回ひるみます。本や資料をパソコンの傍らに広げてコメントの返事をしたためているんです(汗 でも、楽しい修行でもあります。

素人だなんて‥ たそがれ清兵衛さんは建築のプロではないですか! 堂々と、お気軽に遊びにいらしてくださいね。玉子焼きは、日々実践あるのみですー ^^
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こだわり (たそがれ清兵衛)
2006-10-05 02:34:11
貴女のブログにコメントされてる方々の、密度の高さに驚き、ひるみます(苦笑)

インテリジェンスの高さが半端じゃない…(汗)これも修行かと、コメントしてますが…(苦笑)

素人のコメントでも、お許しいただけますか?(いまだに、玉子焼きが上手く出来ないけど…)
返信する
もうすぐ十五夜です (雪月花)
2006-10-03 10:02:21
6日(金)は仲秋です。東京はぐずついた天気がつづいていますけれども、週末はどうでしょう、お月さまは姿を見せてくれるでしょうか。明日は一日だけ和菓子教室に参加して、十五夜に供えるうさぎまんじゅうをつくります ^^ 楽しみ♪



> ちょこらさん、ようこそ。

お立ち寄りくださり有難うございました。青山二郎はつかみにくい人物ですけれども、白洲さんの著書はとても参考になりました。ぜひ読んでみてくださいね。最近、新潮社のとんぼの本シリーズ『天才 青山二郎の眼力』というビジュアル本も出ました。写真がたくさん掲載されていますので分かりやすく、こちらもおすすめです。



> 夕ひばりさん、こんにちは。

季節ごとにブログの背景の色や挿絵を考えるのは、わたしの楽しみのひとつなんです。先月の秋草と今月の柿は鳩居堂製の絵はがきのものをアレンジしてみました。色は日本の色にこだわっているつもりなのですが、たくさんある中から数色を選んで合わせるのはなかなかむつかしいです。色合わせも日ごろから意識しなくてはうまくいかないんだな、と思います。でも、自然が見せてくれる美しい色にはかないません。



> たそがれ清兵衛さん、

専門家の目で見ると、安藤忠雄さんの建築もちがって見えるのですね。その満たされないものが何なのかわたしにはまったく見えていませんけれども、たそがれ清兵衛さんの答えが出ましたら、ぜひ教えてくださいね。
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言いたくはないのですが・・・ (たそがれ清兵衛)
2006-10-03 00:28:26
安藤忠雄の建築に対する評価は高い。(世界的にも)私も随分関西まで、見に行きました。特に近年の、水とコンクリートを対比させた建築は見事です。しかし、私には、なぜか満たされないものが残るのです…。それは何なのか…私の課題です。
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すっかり秋ですね (夕ひばり)
2006-10-02 22:17:51
こんばんは。

お茶のことも、器のことも、青山二郎氏についても、ほとんど知らない私です。

ただただ、雪月花さんの文章と皆様のコメントを読ませていただき感心するばかりです。

(白洲正子さんの『明恵上人』だけは読んでいますが。明恵上人、好きなんです)



ブログのデザインがとても素敵なので、一言書き込ませていただこうと・・・雪月花さんの優しい絵と、両サイドの色調が響き合っていますね! 全体が、暖かさの欲しくなるこれからの季節にぴったりで、いいなと思いました。

次の絵と文章も楽しみにしています^^)
返信する
TBありがとうございます (ちょこら)
2006-10-02 21:39:10
TBありがとうございます。

記事の最初にあるイラストの香炉は、青山二郎の眼展で実物を見ましたが、とても素敵でした。

青山さんのことも、利休のことも、詳しく知りませんでしたが、記事を拝見して、もう少し勉強してみたくなりました。

まずは、『いまなぜ青山二郎なのか』を読んでみたいと思います。
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けがさじとおもふ御法の‥ (雪月花)
2006-10-02 20:38:03
> あべまつさん、

利休と宗二が口ずさんでいたという歌を教えてくださり、有難うございます。この歌から、「茶の道こそ仏の道と信じて歩んできたのに、思いもよらず(信長から秀吉へと)俗世にまぎれてしまったことよ」‥ そんな利休の嘆きが聞こえてきそうですね。歌意をくむかぎり、利休は権力に媚びることなく清んだこころで茶の道を究めようとしていたように思われますし、あべまつさんもおっしゃるように、利休と青山の眼をとおして、「美」をもとめるこころに宗教や愛というものを見た気がしました。

リンクの件も有難うございます。こちらからもぜひ「あべまつ行脚」へリンクをさせてくださいね。今後もよろしくお願いします。



> みいさん、こんにちは。

散歩中にあちこちで柿の実がたわわに実っているのを見て、神無月はこんな背景にしてみました ^^ 子規の句を思い出していただけてうれしいです。抱一の「柿に目白図」もよいですね~、「十二ヶ月花鳥図」は「夏秋草図」の次に好きです。どの月も小鳥たちのすがたや表情がじつに愛らしくて、思わず触れてみたくなります。

20日に四国へまいります。松山に一泊するので、夏目漱石の『坊ちゃん』を読みなおしているところです。

週末は仲秋ですね。お月見を楽しみましょう。後日ゆっくりとそちらへうかがいます。
返信する
いつも・・・ (みい)
2006-10-02 17:09:24
雪月花さんやコメントを寄せておられる皆さんの記事を拝見して、いつもお勉強させていただいています。

トップステキに変わりましたね。季節の移ろいに敏感な日本人の一人として?雪月花さんのページの絵とか、色、とても楽しみに拝見しています^^

いいタイミングで、私が開いた本に、ちょうど酒井抱一筆の「柿に小禽図」が載っていました。柿ノ木に三羽のメジロが身を寄せ合って止まっている図です。秋ですねえ^^

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」このあまりにも有名な子規の句を口ずさんでしまいました(笑

田舎育ちの私は、自然の移ろい、その美しさを実感してます。安倍総理のおっしゃる「美しい国」とは?どうなっていくのでしょうか。

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Unknown (あべまつ)
2006-10-02 12:49:39
また、お邪魔させて頂きます。

丁寧なコメントに恐縮致しています。

岡本太郎、刺激が強すぎましたか?

いきなりとんでもないことを申し上げたようで、お許し下さいませ。



利休が愛弟子の山上宗二に良く口ずさんでいたという歌がありました。



 けがさじとおもふ御法のともすれば

 世わたるはしとなるぞ かなしき



利休は、あの乱世の時代を孤独と戦いながらも、切に茶を愛した人のだと、哀しく思います。そんなことを知るきっかけを下さいました、雪月花さまに感謝致します。



これからも、ゆっくり色んなこと感じていきたいと思います。宜しくお願い致します。



勝手ながら、リンクさせて頂きます。
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美は宗教 (雪月花)
2006-10-02 12:12:47
> M. KITANIさん、はじめまして。

ご訪問、有難うございました。「美に接することにより、日常を越えて静謐な世界へ近づく」というKITANIさんのお言葉に、柳宗悦の「美は宗教である」という言葉を重ねていました。美は、わたしたちのこころを‥魂をしずめて、日常のもろもろの煩雑さを忘れさせてくれます。そんな時間をできるかぎりもちたいものです。

毎回、素人の拙い絵をお見せして恥かしいのですが、これからもよろしくお願いいたします。



> たそがれ清兵衛さん、こんにちは。

お仕事は建築なのですね、失礼いたしました。手がけた建造物に人が出入りして生活や文化を営み、何年も何十年もその土地に残るお仕事‥ 憧れます。

日本は神仏があちこちにたくさんいて、哲学が育ちにくい風土ですから、造形も淡白になりがちなのでしょうか。でも、芸術も建築も、それを神仏にささげるためのものであった時代は美しく、何か“見えない力”を感じます。そういった意味で、日本の中世の建造物や偶像に美しいものが多いとよくいわれますけれども、木造ですし、西洋に比べればやはり弱い感じでしょうね。でも、そんな宗教的“無私”のものに対して、例えば六本木ヒルズなんて、人間の私利私欲のカタマリに見えてしかたありません(笑 東京タワーの美との調和すら考えなかったのかしら、と残念です。

わたしと主人は安藤忠雄さんのファンで(サインも持っています~ ^^)、関西の安藤建築をいくつか見てまわったことがあるのですけれども、風土や歴史・文化をしっかりと捉え、咀嚼した上での建築を目指しておられるようなので、今後のご活躍にますます期待しているところです。
返信する
旅先で (たそがれ清兵衛)
2006-10-01 23:51:48
私の仕事は建築です。旅先で、評判の現代建築を見に行くけど感心しないことが多い(自分の才能は、この際、置いといて…汗)



考える…。なにかオリジンの力が感じられないなあ…。(理屈っぽい感じがするのはなぜ…?)



ところが、その気もなく出会った無名の神社建築に、思いがけなく刺激されました…。(結界する造形に)



私達日本人には、西洋のような、壮大な架空としての「神」を描く苦闘がない。

どこか、造形が淡白です。(と思ってました)



しかし、日本人の感性も、捨てたもんじゃない。歴史に学ばなければ…と、思いました。(うまく言えなくて…すみません)

返信する
静謐な世界 (M.KITANI)
2006-10-01 21:01:03
トラックバック、ありがとうございます。味わいのある水彩画と品のいい文章、楽しませていただきました。美に接することによって人は、不如意な日常を超え、静謐な世界に一歩ずつ近づくのだと思います。これからも楽しみにしています。
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神無月 (雪月花)
2006-10-01 15:17:06
> かめひろふささん、

お久しぶりです、こんにちは。お元気で何よりです。お店ののれんをくぐると、きもの姿のかめひろふささんが迎えてくれたらわたしもうれしいです。きものと帯の取り合わせがすてきですね ^^

お茶が茶室の中の「ハレの茶」となってしまい、わたしたち庶民の暮らしに浸透しないまま閉じてしまうのは残念です。お茶のこころや和菓子のすばらしさを、ふだんの暮らしの中で親しめるものにできたらよいですね。



> まささん、はじめまして。

ご訪問、有難うございました。なにも、お茶の世界に限ったことではなくて、まささんの記事にもありましたように、自然と調和することがたいせつなのでしょう。紹安が庭をすっかり掃き浄めてしまったように、自然を管理したり歪めてしまっては調和は破られてしまいます。

「奥ゆかしい」という言葉は、「もっと知りたい、見たい」気持ちの表れなのだそうです。そんな奥ゆきのあるのが、日本の文化なのでしょう。

「美しい国」を育てる教育の再生を、わたしも安倍新首相に期待しております。



> 紫草さん、

柿の実が日ごとに秋色を深めております。今日から神無月、夜空の月も仲秋が近づくにつれてふくらみ、輝きを増すようです。

つい先日から、わたしも柳の『茶と美』を読んでおりました。紫草さんからコメントをいただいて、未読だったところも目をとおしました。柳の現代の茶に対する批判は痛烈ですけれども、それだけ深い愛情をもって日本の茶を見つめていた証拠なのでしょうね。

利休は時の権力に媚びていたのでしょうか。権力など何とも思っていなかったように感じられます。権力すら利用して茶の道を切り拓いたように思えます。ただ、大徳寺の山門に自らの木像を置き、等伯に絵まで描かせたのは、いったいどういうこころづもりからだったのでしょう。

紫草さん、わたしは利休の眼と青山の眼を“比較”してはおりません。過去として捨て去られ埋もれていたものの中からまったく新しい美を発見したことにおいて共通する、と述べたつもりでした。また、青山と白洲が柳から離れたのは、いわゆる民藝運動がひとり歩きを始めたことを青山らが見抜いたからであって、柳から離れた後も、それまでの柳の骨董界における功績や「じかに物を見る」ことの重要性を、青山らは否定することなくしっかりと受けとめ、引き継いでいると考えております。



> nmさん、はじめまして。

貴重なコメントを残してくださり、感謝いたします。今回の記事は、おっしゃるとおり「白洲の感じ取った青山、赤瀬川の理解している利休であることが、この議論の前提」になっております。もとより、青山と長く深いつきあいをした白洲さんの本から波及した考えを書いたものです。ただ、それを断定したかのような表現をしたのでしたら、それはわたしの未熟さです。

なお、柳の著書はいくつか読んでおりますので、秦恒平の『茶ノ道廃ルベシ』を今後の課題にさせてください。青山の『眼の引越』は、以前もとめた折に品切れでそのままになっておりましたが、いずれ古書で探してみます。

ご指摘、有難うございました。「外野の余計な言い草」などとおっしゃらず、今後もぜひご指南ください。
返信する
Unknown (nm)
2006-10-01 11:22:14
通りすがりのものとして、

折角の良いお話なので、又聞きで話を進めるのではなく、

原典を基に話を進めればいいのに、何故そうしないのかな?

と感じました。

あくまでも、白州の感じ取った青山、赤瀬川の理解している利休

であることが、この議論の前提になっています。

彼らの思い込みの読み間違いの可能性だってあり得ます。

別に、赤瀬川を嫌うつもりはありませんが、経歴から言って、

赤瀬川の利休理解は大変特殊と思いますし、私はまだ読みたい

気持ちになっていません。

もっとも、南方録自体偽書というのは学会の常識ですし、

今の利休像は、多くのエピソードから構成されたフィクション

と考えれば、誰の言うことが正しくて、誰の言うことが特殊

も何も断定できないのが本当のところですけど。

とりあえず、

青山二郎『眼の引っ越し』中公文庫

『南方録』岩波文庫 (引用部分は、p217)

或いは、別の視点の方、確かに、柳宗悦も重要な方ですね。

私がお薦めしたいのは、

 秦恒平『茶ノ道廃ルベシ』講談社、北洋社

です。

以上、外野の余計な言い草、失礼しました。
返信する
柳宗悦 (紫草)
2006-10-01 00:42:03


千利休と青山二郎について色々の人物を揚げ登場させておりますが、その中で小林・白洲・壺中壺の広田・能楽の友枝・さん等。多くの文人等との交流の中で柳宗悦は異なる角度から美を称えていったようです。柳宗悦著「茶の美」のなかで利休を称して、彼は転々として当時の権門に仕えた。始めは信長に仕え、次には秀吉に侍り、その他の諸大名、諸武将、さては豪商と歩き廻った。その時代としてはそうするより仕方なかったのかも知れぬが、しかし権門を利用することを怠らなかった彼の生活に、既に不純なものがあったともいえる。どういうみちを通って、利休はその位置を得たか疑問の残る処であり、どうも太閤を禅味に徹した大茶人などとは義理にもいえぬ。社会的または政治的位置を得たことは利休を得意にしたかも知れぬが、同時に彼の「茶」を不純なものにしたことは否めなぬ。もしも権勢に媚びず、もって民間に「貧の茶」「平常の茶」を建てたら、茶道はずっと違ったものになっと思われてならぬと。(この論については後の宗旦を述べなくては成らないので約しますが、)

またこうも言っている。茶人達が無地の美の深さを味わったのも「貧」を美の世界に追求したのは、日本人の優れた美観を示すもので、中でも奇数の中に美を見つめたことで

、完全を求めたギリシャ人の美の理念と異なり、註、(黄金分割と、白銀比に付いては柳は述べていない)奇数よりも偶数を追ったのが西洋の見方で、つまり割り切った形である。

ギリシャ美学の理念は完璧な美に置かれたと言えよう。典型的な均整の取れた人体美に見える。    これに対し奇数の相を追い、その現われを自然の中に見つめた。                   



前者は割り切れた均整の美、後者は割り切れない不均整の美である。



柳は、自然美を尊び、後に民芸館を設立し、棟方功・バーナードリーチ・益子焼の浜田・を世に広めた事で知られる。彼が最も優れた焼き物は高麗「喜左衛門井戸茶碗」で国宝になっていてる。

私には千利休と青山二郎とは審美眼においては比較するのは無理があるのでわないかと思われる。歴史的背景に於いても、一時は柳も青山も白洲も座を共にした時期があったようですが、白州さん達と離れたいったようです。長く成りますので又の機会にお話致しましょう。今日から神無月と言うのに秋雨が続くようですので、お元気で居られます様に。

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初めまして (まさ)
2006-09-30 19:47:57
B有り難うございます。

ブログに書いていながら茶の湯に関して私はあまり知りません。

利休の「自分が死ねば茶は廃れる」。難しい言葉ですね。

ただ、茶は自然の一部でもあると考えていたのでしょうか。

茶が茶道として形にとらわれる、形に嵌ってしまえば別の物になってしまうと考えたのでしょうか。



道具は飾るものでなく普段使ってこそ生きてきます。

青山二郎の名前、恥ずかしながら始めて知りました。

良い話を有り難うございます。



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忙しい生活をしていると (かめひろふさ)
2006-09-30 18:08:40
こだわらなくなって、何でもありの世界になってしまいます。



いつもの食器でご飯を食べる

食器棚にはあふれるほどの食器があるのに。



少しこだわってみると別の世界に出会えますね。



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現実を受け容れなければ (雪月花)
2006-09-29 15:12:02
先のコメントでご紹介しました『日本の伝統』で、著者の岡本太郎さんは、いわゆる日本の文化、伝統というものに安住して過去を崇め、西洋化しつつある現代の世相を疎み嘆くのは「ただの意地悪にすぎない」と言っておられます。思わずドキッ‥としました。「古き良きもの」ばかり追いかけている自分の姿が見えたからです‥ ^^; 岡本氏は「いまあなたが生きている現在を受け容れなければまったく意味がない、現在という局限とゆたかな過去がせめぎあってエネルギーを発し、新しい伝統をつくってゆかなければ」と繰り返し説いています。明治維新以降、西洋の文化文明が一気にこの国に押し寄せてきても、それを旺盛に受け容れたにもかかわらず、江戸期の鎖国によって封じこめられ弱体化してしまった日本人の内に向く感性が、文化の発展を邪魔している‥とも。

岡本氏にしてみれば、維新以降の西洋化が日本をダメにしたと言ってしまうのは簡単だけれど、そんなことは言い訳にすぎない、というのでしょう。このことは、とても考えさせられました。



> 雪月花_westさん、

今後はどうぞ誤字・脱字など気になさらないでくださいね。

やはり‥「民芸」についてはわたしも同じように違和感を抱いています。東京駒場の「日本民藝館」にあるモノも、「古き良き道具」の展示であって、本来の「用の美」をすでに損ねているような気がします。「民芸」がひとり歩きを始めたのは、いつからなのでしょうね。

昨日から、柳宗悦の『茶と美』(講談社学術文庫)を読み始めました。現代の茶への辛辣な批判が書かれてあるようです。どんな論が展開されるのか、興味深いところです。



> tsukinohaさん、

わたしはふだんから骨董と親しんでいるわけではないし、古美術商とのつきあいもないので、できる範囲でふだんの暮らしを美しくすることを考えるしかありません。古いものでなく、現代の無名の作家さんのやきものにだって美しいものがいっぱいあると思うのです。そういうものを自分の眼で探し、見つけて暮らしに生かしてゆけたら、数百年後に土の中から発掘されたとき「あの時代のものは美しい」と評価されるかもしれない‥ などと、途方もない(とんでもない?)夢を抱いて楽しんでいるんです ^^



> むろぴいさん、

日本人はすぐに「わたしたち」というグループを作りやすい質のようなので、右へならえ、の精神を捨てなくては、いつも「他人と同じ」ことになってしまいそうです。むろぴいさんご自身の見識で、むろぴいさんの人生を歩んでください ^^



> paul-ailleursさん、ようこそ。

今回は青山二郎についてシンクロできましたこと、うれしく思っています。青山二郎─小林秀雄─白洲正子というつながりから、日本の美をあらゆる角度から学ぶことができて勉強になります。かれらはかれらの眼で見て、触れて、実際に暮らしに取り入れ、信じたモノだけをわたしたちにぶつけてくるので、かなり偏った文化論なのかもしれませんけれども、生半可な美術書を開くより、ずっとためになりそうです。

こちらは一週間に一回程度の更新ですが、これからもよろしくお願いいたします。



> 道草さん、

道草さんのおっしゃる「見立て」こそ六感のなせるわざでしょう。つねにモノを新鮮なまなざしで見なければできないことです。「花瓶は花瓶、籠は籠、石ころは石」と思ってしまったら、もうその考えから容易に抜けられなくなります。ちょっと凡人には思いつかないアイディアで、そのほかの道具との調和もとれているというモノの使い方は、かなり高度なワザです。奇抜で、それだけが浮いてしまうようではいけません。でも「見立て」によって、茶道具の取り合わせは自由を獲得することになります。形を越えて無限に広がってゆくための、ひとつのきっかけともいえるかもしれません。

美しいモノは飾ってながめるものではなくて、暮らしの中で時間をかけて育てるもの。使ってみなければ分からないし、自分の扱い次第でモノの表情も変わってくる‥と白洲さんはいいいます。そんな、モノとの“直接的な”つきあいから「モノが見える」眼が養われるのだとしたら、けして骨董や高価な茶碗でなくても、ふだんの暮らしの道具から眼を鍛えることができる気がするのです。道草さんは、京都のホンモノ(自然も芸術も食材も教育も)に囲まれて子どものころから暮らしていらっしゃるのですから、これほどの強味はないでしょう。

赤瀬川氏のほかの著書は読んでいないのですが、「現実世界と対抗する世界を描いて、却って強烈に現実世界を意識させる」というのは、岡本太郎氏が「古いものや過去に寄りかかるな、現実を直視せよ、それを乗り越えよ」と言っているのと同じなのでしょうか。

そんなわけで、わたしも「あのころはよかった」と繰言するのはやめて、「中年力」を高めてゆきたいと思います‥(笑
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五感を磨く (道草)
2006-09-29 07:53:26
 茶の湯のことなど全く門外漢の私がコメントすることなど僭越なのですが、茶の湯に「見立て」ということがある、といつか何かで読んだ記憶があります。記憶違いでしたらお許し願いたいのですが。

 利休の実行した「見立て」には制限など無い。たとえば、釣瓶を水差しに、魚籠を花活けに利用したり、日頃に使っている茶碗を茶の湯に使うのも「見立て」である。私達の身の回りにある物を幾らでも「見立て」ることが可能である。

 つまり雪月花さんの言われる、「毎日わたし(あなた)が使っているモノや、常にそばに置いているモノこそ、わたし(あなた)自身ということになります。そのことをまったく意識せず暮らして、日本の文化を生きているとはいえない─ ということを、わたしたちは考えてみる必要がありそうです。」ということなのでしょうか。そう指摘されれば、私など日々反省することばかりです。

 話は少しずれますが、小説の世界でも、現実とはほとんど無縁の世界を描きながら、読者が今生きている世界を想起させる。赤瀬川原平が尾辻克彦名で芥川賞を受賞した「父が消えた」なども、現実世界と対抗する世界を描いて、却って強烈に現実世界を意識させる、そんな感想を持ったものでした。これからは尚いっそう大いに五感を鍛えながら、「老人力」を強めたいと思います。

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TB、コメントありがとうござます (paul-ailleurs)
2006-09-29 00:55:38
今回美術館の写真に導かれるようにMihoへ向かいました。そこで偶然にも青山二郎に出会うことになりました。これから少し注意してみていこうと思いました。素晴らしいブログを紹介していただきありがとうございました。これからも訪問させていただきます。(ひょっとして未完コメントが送られているかもしれません。その場合は前のものを削除していただければ幸いです。)よろしくお願いいたします。

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自分は自分 (むろぴい)
2006-09-29 00:44:00
こんばんは!



よいお話しをありがとうございました。



日々、自分自身の人生を歩いていくことが大切だと

再認識致しました(^^)



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モノを見るということ (tsukinoha)
2006-09-28 22:39:56
こんばんは。

素敵なお話と、そしてコメントを拝読させていただいております。

ありがとうございます。

まったく、モノを見るということは生半可でできることではありませんね。身に染みます。
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Unknown (雪月花_west)
2006-09-28 20:50:35
あまりにも気持ちが高揚していたからか、最初の文節の最後が間違っていました。。喜びは「あふれる」ものですね。訂正いたします。



「閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない」というのは、この頃特に強く実感していることの一つでした。民芸の祖、柳氏が打ち立てた「民芸学」ともいえる哲学は現在、言葉に頼りすぎて直感が捕らえる真の美しさから遠ざかっているような気がします。白洲さんの著書にも同様の意見が記してありましたが、当時からそうだったのかと残念に思います。或る意味、茶道にも通じることなのでしょう。



雪月花さんは、日常をとても丁寧に過ごしていらっしゃると思いますので、身の回りのものに関しても吟味していらっしゃるのでしょう。普段のお気に入りの道具も、ぜひご紹介くださいね。
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岡本太郎の芸術論 (雪月花)
2006-09-28 19:58:51
それにしても‥ 利休は恐ろしい人です。「自分が死ぬと茶は廃れる」の意味を知ったら、茶の道を学ぶほど底無しの罠にはまってゆくような気がしてきました。青山も利休のような前衛作家だったのですけれども、やはり、やきものや茶の湯において魁(さきがけ)であった利休からみれば二番手にすぎません。利休は今後も日本文化史上のスーパースターとして君臨するでしょう。

本日、あべまつ行脚さんから教えていただいた岡本太郎の『日本の伝統』を読了しました。岡本氏の辛口な芸術論にかなりショックを受けて自省を促されたのですけれども、意外なほど、千利休、青山二郎との共通点や、赤瀬川氏と同じことを岡本氏が繰り返し述べていることに気づきました。そのひとつに、こんな岡本氏の言葉があります。



「さて過去のやりきれない形式の中には、まったく箸にも棒にもかからない、不毛なしろものが多いのです。しかし中には、それ自体なんの輝きもないが、ラジカルに視点を転換させ、新しい光をあてると現在的に生きてくる、そういう可能性をはらんだものがある。それを見分け発見することが大事です。過去は死んだものです。しかしまたわれわれによって新鮮に生かしうるものでもあるからです。

なま身でぶつかって、そこから引き出せるもののすべて、今日の生活が、そこから取りあげてゆけるもののすべてを正しく生かし、再生してゆくべきです。形骸としての過去を容赦なく否定する。そのような創造的ないとなみこそ、じつは本質的に過去と結びつき、正しく伝統を受けつぐ方法です」



岡本氏の「(過去のものの中から)輝きを発見して現在に生かす」とは、まさに千利休と青山二郎が成してきたことですし、「なま身でぶつかって、そこから引き出す」とは、白洲正子のいう、知識や理論を排して「じかに物を見る」と異口同音でしょう。赤瀬川氏が指摘した利休と同じように、岡本太郎氏も、「前衛作家であれ!」とわたしたちを扇動しているのです。



> 香HILLさん、こんにちは。

「雪月花」への初コメント、有難うございます。赤瀬川さんはNHKの番組「知るを楽しむ」にレギュラー出演していますね。一時流行語にもなった「老人力」が彼の造語だったことは、わたしも昨夜初めて認識しました。

上にも書いたのですが、赤瀬川氏は『千利休 無言の前衛』において、岡本太郎氏の『日本の伝統』の提言を忠実に受け継いで実践しているように感じられます。面白い発見でした。

はてさて、安倍新政権のスローガンは「美しい国、日本」。ところで、何を美しいとするのか、はなはだ疑問ですね。『国家の品格』にもありましたけれども、美しく掲げられたスローガンに騙されてはいけません。これまでこの国をつくり、社会に貢献してきたご年配の方々が、ゆたかな文化生活を享受できる世の中になりますよう祈ります‥



> あべまつさん、

トラックバックを有難うございました。あべまつさんから教えていただいた岡本太郎氏の本を読み終えました。かなりショックでした‥ これまでの自分を否定されたような気持ちにさえなりましたが、利休や青山二郎、そして赤瀬川氏が、岡本氏と同じ前衛芸術というライン上で結ばれていると気づいたことは大収穫でした。

草月流のいけばなを学んでいらっしゃるのですね。いけばなもまた、一期一会の輝きをもとめる道のひとつですね。わたしは「~流」のいけばなについては門外漢ですけれども、自称「花人」という川瀬敏郎さんの花が好きです。

「青山二郎の眼」展は、来年の夏に東京世田谷にくるのでしたね。わたしも、年末に信楽で観て、おそらく来年、東京でもう一度観ることになるのではないかしら、と思います ^^



> おじいさん亀さん、はじめまして。

お立ち寄りくださり有難うございました。おじいさん亀さんのおっしゃるとおり、利休は死をもって「わび茶」を完成させた、というのはほんとうでしょう。それまで創造を繰り返して時代の最先端を突っ走っていた茶は、利休自らの手で閉じられ完結してしまったのですから、残されたわたしたちは戸惑うばかりです。でも、現在茶の道を学ばれている方の中から、利休のような前衛作家がとつぜん出現して、古いものを超えた新しい伝統が構築されるかもしれません。そのように考えますと、楽しみです。現代を否定ばかりしていては、前へすすむことはできませんから。



> 雪月花_westさん、

やはり信楽へゆかれますか。わたしも師走初旬に夫とまいります。今回の記事も、その準備にほかなりません。お互いに展示を観た後、またお話ができそうですね。楽しみです。

まったく、今回はこれまで見えていなかった「一期一会」という言葉の深淵をのぞいたような、恐ろしい気持ちになりました。



> 瞬間にとらえる美、その直感は鍛え上げられた

> 運動能力にも似ていますね。



なるほど、運動能力ですか。言い得て妙です。鍛えなければ得られない能力だし、得た後もつねに磨きつづけなければならないのが茶道なのだとしたら、まことにきびしい道です。

雪月花_westさんは、美しいうつわに囲まれた暮らしの中で感性を磨いていらっしゃる。わたしも、まず身近な暮らしの道具から見つめなおしてみます。
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直感力。 (雪月花_west)
2006-09-28 16:51:46
よくぞこの時に、このテーマを選ばれました!美しい紅志野の絵を見た瞬間、喜びがあふました。

既にMIHOで開催されている「青山二郎の眼」を見に行く準備として、遅ればせながら「いまなぜ青山二郎なのか」を先日読み終えたところなのです。まさに利休との共通点「美を発見することはすなわち美を創作すること」という小林秀雄の言葉に感じ入っておりました。

「一期一会」というお茶に際し使われる常套句を赤瀬川氏の本から解説されている下りは、とても新鮮な発見でした。瞬間にとらえる美、その直感は鍛え上げられた運動能力にも似ていますね。日頃の鍛錬のみならず、生まれ持った感覚(センス)も重要なのでしょう。

わたしも、日々自分の直感に磨きをかけていきたいと思います。

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侘び寂び亀庵 (おじいさん亀)
2006-09-28 16:26:06
この度は、じじいの稚拙な記事にトラバいただきまして、大変恐縮の極みです。

雪月花様の立派な記事を読ませていただきました。

己の浅はかさに、顔から火が出て燃え尽きて、その灰がはらはらと散っていく思いがいたします。

このような稚拙な記事をこれからも懲りずに書いていくと思いますので、時々戒めていただければ幸いです。
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利休と青山二郎 (あべまつ)
2006-09-28 15:24:20
雪月花さま、コメント、TBありがとうございます。



今、草月の稽古をして帰宅したところです。

まったく雪月花様のお書きになった通り、

一度だけのその時を至上の至福の時間と感じられるのは、その人の感性にだけ、許されるものだと思うようになってきました。



お茶の言葉の一期一会を使えるような人間になるには、現代は厳しい環境なのかもしれません。



でもでも、我が眼を信じ、我が心をかき立てて行かずして、何のことか、と利休や、青山二郎に教えられているようです。



来年、青山二郎展が世田谷美術館に回ってくるので、図録はその時に求めようと思いますが、さぞ美しいのでしょうね。

情報ありがとうございます。

私の方にもTBさせて頂きます。

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赤瀬川氏 (香HILL)
2006-09-28 08:58:50
昨晩、NHK教育番組で赤瀬川さんが出演されていました。



例の”老人力”という言葉の発明者?でしたか?

話題は専ら、老人専科。

今年亡くなられた中野孝次氏は忘却力の薦めで有名でしたが、同様なポジテイブ志向で老後を過ごす処方箋。



ところで、

映画館ではシルバー割引が一般的なってきましたが、

美術館では未だ・・。

ボチボチとシルバー割引制度を導入してくれませんかね?安部さんに期待しましょうか。

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