鎌倉 佐助の風街便り

陶芸、街歩き、クルマ、オーディオ・・。思いのまま徒然に

親愛なるアズマに向けて。再会の日は「キャッチボールから始めよう!」

2013-03-13 11:54:16 | 日記
「あの日」から2年‥。先の週末の3月9日、10日はテレビをはじめラジオ、新聞その他メディアでは多くの時間を使って「震災」に関する特番、特集を流していました。工房にて、震災から2年を経た今の東北の状況を伝えるテレビ番組の数々を聴きながら作陶していると、この2日間に何度か福島県南相馬市小高地区の様子を伝える映像が放映され、そのたびに陶芸の手を休めて画面に見入ってしまうことが幾度も。

画面では、あの日を境にそれまで住んでいた人たちが一斉にほぼ強制的に避難させられ、現在でもほとんど人影がなくなっている小高の街の映像が。思わず、「小高か‥。アズマたちの一家が暮らしていた街、だよなぁ」‥。続けて「新たなる地での暮らしが落ち着いたら、必ずこっちに会いにきてくれよな」とつぶやいていました。

そして、反射的に家のリビングの本棚の一角にまとめてある賀状の束をひもとき、あらためてこの一枚を手にとって。

かの震災後、東北方面に住む友人知人たちの消息を追っていた中で、アズマとは最後の最後まで連絡がつきませんでした。昨年1月にふとしたことからアズマの消息を知り、今年の賀状を出そうか出すまいか悩んだ挙句、思い切って賀状を出した後に私の所に届いたアズマ一家からの嬉しい便りです。

アズマとはじめて会ったのは今から約20年ほど前、私が30代後半、そしてアズマは20代半ばの頃でした。当時、私は東京・葛飾にて高校の野球部の先輩後輩仲間とともに構成していたブラボーズという野球チームのメンバーとして、日曜日になると荒川河川敷のグラウンドを走り回っていました。なんともかんとも、今となっては信じられないくらい元気でした‥。

そんなある時、ある人を介して「東北の会社から東京へ単身赴任中の元甲子園ボーイの若者がいる。野球の仲間に加えてやってくれないか‥」という経緯にて、アズマはブラボーズにやってきました。

甲子園常連校仕込みの俊足巧打、そしてビシッと鍛え抜かれた礼儀作法を身につけていたアズマは、私達ブラボーズの頼りないメンバーに対しても「先輩、先輩」ととても真摯に付き合ってくれました。ちょうどこの時期にチームが葛飾区軟式野球連盟傘下の約150チームの頂点に立つことができましたが、それもアズマの存在があったればこそ。今ふりかえっても、アズマとともにブラボーズで野球をしたあの頃は本当に思い出深い数年間でした。

さらにアズマとはもっと以前にも少なからず縁がありました。アズマとはじめて会った時、彼が甲子園大会に出場したのは昭和62年であることを知りました。はて、東北のあの強豪校の出身‥、昭和62年の甲子園‥!?。思わず私は「ひょとして、2回戦でノーヒットノーラン喰らって負けた?」とポツリ。すぐさま、アズマも「えっ、判っちゃいました? そうなんです、今でも悔しくて悔しくて・・」と心の底から無念の表情。

すかさず「オレさぁ、その頃『週刊ベースボール』の編集部に勤めててね。その試合、よく覚えてるよ。試合後の原稿も書いたしね」と話を向けるやいなや、「お恥ずかしい‥」とアタマをポリポリやるアズマ。そんなこともあり、アズマに対してより一層シンパシーを感じるのでした。

今から約四半世紀前の昭和62年、アズマが出場した「第69回 全国高校野球選手権大会」の全容を伝える『週刊ベースボール 増刊 9月5日号』

あの時、焼けるような夏空の下でアズマは東北の強豪校のメンバーとして高校球児の聖地・甲子園球場で懸命にプレーし、そして私は毎晩徹夜しながらこの「増刊号」のページをシコシコと編集していました。

ふりかえると、この大会に出場した高校生たちの中から多くのプロ野球選手が誕生しました。横浜からメジャーリーグを経て現在は楽天に所属する斉藤隆投手はアズマの高校時代のチームメイト。そして今年のWBC日本代表チームでコーチを務める元中日の名内野手・立浪和義氏は、この大会で優勝したPL学園の主将でした。また、千葉ロッテを皮切りにメジャーリーグ、そして阪神で活躍の後に昨年7月に自ら命を絶った 故・伊良部秀樹氏も、この第69回大会・尽誠学園のエースとして数々の「豪球伝説」を打ち立てました。


アズマは数年間ほど、東京での単身赴任生活とわがブラボーズでの野球を経て故郷・東北勤務に戻っていきました。このボールは今から約20年近く前に私が結婚、ならびに挙式した折にブラボーズの先輩後輩から贈られた、とても思い出多き記念の一球。もちろん、アズマも記銘してくれています。

かの震災以来、このボールを握りしめながら、何度、アズマのことを思ったことか‥。

そして、今。

かの震災以来、友人知人とともに「いかにして支援していこうか」と話し合う中で、「いくばくかの時を経て、多くの問題点が明らかになった時に我々の『支援元年』をスタート」ということで意見が一致していました。そして今、「2年が経ったこの時こそ、我々の『支援元年』のスタート」と一同、思いをひとつにしています。「あくまでも無理せず急がず、身の丈に合ったやり方で。されど、限りなく営々と‥」との思いを胸に・・。

今年初めにアズマから送られてきた賀状を再度読み返し、「新しい地での生活」への決意とともに「今度、アトリエにおうかがいします」という一節にあらためて少なからず心躍る自分がいます。本当に久しぶりにアズマに会える‥。

アズマの一家がウチへ来てくれた時、もし許されるならば震災の時の様子、そしてそれからの2年間の生活や思いのたけをじっくりと聞かせてもらいたい、と。そしてその言葉ひとつひとつを私と友人知人達の「支援元年」スタートの参考にさせてくれたらと思っています。

アズマの一家がわが家にやってきたら、まずははじめにアズマとキャッチボールを、と自分勝手に思ったりして。

ついては、草野球選手としてはとうの昔に「現役引退」しているわが身としては、もはや野球グラブさえ処分してしまっていました。まずは桜が咲く前に、そしてアズマがわが家にやって来る前に、野球グラブを買いに行こう‥!
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