今から数日前の20日・木曜日、一年のうちで最も寒さが厳しい頃とされる「大寒」を迎えました。この「大寒」という文字を見ただけでも、真冬の凍てつく寒さの厳しさがひしひしと伝わってきます。例年ならば、玄関ドア上にお祀りしている「おはらひさん」は松の内に水色の御幣の夏バージョンから赤い冬バージョンに変えていたのですが、今年に限ってはやや思うところがあって「大寒」を機に差し替えることとしました。
昨年6月末から大晦日まで家を守ってくれた水色御幣の「おはらひさん」は、ウチに迫りきていた厄を払ってくれたのでしょうか、かなりのヨレヨレ…となっています。
そしてこの終末…ではなくて週末、かの流行り病いによる国内の新規陽性者数は初の5万人超えとなり、東京都でも初めて1万人を超えてしまい、感染の拡大は当分収まりそうにありません。
このような状況のもと、先週19日に政府分科会・尾身茂会長が発した感染抑止に向けての「人流抑制ではなく人数制限を」という提言、
そしてその後は「若い世代の『検査なし』もありき…」との考えも示しました。その結果、ただでさえ感染抑止の糸口さえ見出せぬ現状がさらに混乱しているようにも思われます。「なんだかますますカオスの底に引き込まれつつあるコロナの行方…」と案じていた折、尾身会長の言葉を分析するテレビ番組がありましたが、
これがまた、理解できるような、疑問がより深まるような、つくづくなんとも難解な「尾身苦論」に振り回された…といった感もあります。
「尾身先生、今、いったい何歳なのだろう。本来ならば第一線から一歩退いた立場からじっくりと状況を分析しながら、世の中のしがらみを超えた崇高な立ち位置から対コロナの考えを発信したいところなのだろうなぁ…」と考えながら、あらためてお歳を調べてみました。その結果、尾身先生はかの太平洋戦争敗戦後の昭和24年生まれ。この頃は戦後の第一次ベビーブームといわれ、さらにつけ加えれば、昭和22年から24年に生まれた人達は各世代の中でもとりわけ出生数が多く「団塊の世代」と称されています。すなわち、尾身さんは「団塊の世代」の真っ只中の人。
蛇足ながら、ちょっと前まで首相の座に在り、尾身さんとともに何度も記者会見の臨んでいた菅前総理も尾身さんと同じく「団塊の世代」。この世代の方々は70歳をゆうに越えた今も元気な方が多く、私がこよなく愛する文化放送のラジオ番組「くにまるジャパン極(きわみ)」でもコメンテーターを務めるジャーナリスト・二木啓孝さんや政治アナリスト・伊藤惇夫さんはじめ、第一線で活動する姿がうかがえます。
ということも思い描きながら、ふと思い出したのが19日のこの新聞記事。
この記事の中の「それでいいのか、蕎麦打ち男」という書は、今から17年前、編集業や文化イベントプロデューサーとして活動していた残間里江子さんの著になる、かつて50年ほど前におもに大学生たちが学生運動を行ない世の中を改革に向けての渦を巻き起こした「団塊の世代」に対する賛美とともにいささか寂しくもある初老期の姿を分析した話題の一冊でした。
記事によると残間さんはこの書の中で、「かつての元気だったオトコどもが蕎麦打ち、楽器、陶芸など趣味に走っており もっと社会に目を向けよ」と訴える内容とのことになっています。私もかつてこの書を読んだことがあり、たしかにそのような内容だったと思うのですが、ふとわが身をふり返ると定年後の世代に属し、しかも日々陶芸している自分がいるではありませんか。いやはやなんとも、こうなればもうひとつ、真剣に蕎麦打ちもしようかな、とも自虐的な思いにも駆られてしまいます…。それにつけても残間さんも今、どのようにお暮らしになっているのでしょうか…。
そしてもうひとつ、「団塊の世代」の方々にとってある意味 共通項でもある全共闘・学生運動を当事者へのアンケートも含めてあらためて振り返る著書「続・全共闘白書」が2019年に刊行されて以来、静かにそしてジワジワと話題になり現在に至っています。蛇足ながらこの一冊のページ数は膨大で、頭を殴ると人を殺せるくらいの分厚さがあるこのような本は俗に「鈍器本」などとも言われたりもします。駅前の本屋さんで買い求めようとしたのですが、お堅い本にもかかわらずなんと品切れです。ネットでしらべると、たしか定価3,850円のはずが、かなり値上がりしちゃってます…。
私はこの「団塊の世代=全共闘世代」ではなく、その次のちょっと冷めた感じの無気力、無関心、無責任を指した「三無主義」がはびこり始めていた頃の世代ですが、かの学生運動華やかなりし頃の世の中の風潮は小中学校、そして高校時代をとおして鮮明に記憶しています。
今から約50年前、当時の東京の大学生の多くは程度の差こそあれ「革命」を夢見て、ヘルメットをかぶり、角棒を振りかざして機動隊と対峙して国家権力と闘いを繰り返していました。日大のおひざ元の神田界隈・靖国通りの都電の路石が投石の材料として掘り起こされたり、書店街の店先がズタズタに破壊されたり、それはそれは壮絶な光景でした。あの当時の団塊となった若者のパワーは今の若い人達には理解できないでしょう。現在の若い人達の多くは、最新のネットやテクノロジーを馳駆してスマートに颯爽と生きているように見えます。現在、「分断」「差別」「貧困」その他、さまざまな問題が表面化、深刻化していますが、その一方、この時代を上手く切り抜けていくスキルを持った人達にとっては、とても良い時代なのだと思ます。
3年目を迎えたコロナとは単なる流行り病いだけにはとどまらず、私たちにとっては過去から現在、そして未来へ向けて、かつて見て来たモノ、そしてこれから先ずっと見続け、そして解き続けなければならない「永遠の宿題」のようにも感じられます
昨年6月末から大晦日まで家を守ってくれた水色御幣の「おはらひさん」は、ウチに迫りきていた厄を払ってくれたのでしょうか、かなりのヨレヨレ…となっています。
そしてこの終末…ではなくて週末、かの流行り病いによる国内の新規陽性者数は初の5万人超えとなり、東京都でも初めて1万人を超えてしまい、感染の拡大は当分収まりそうにありません。
このような状況のもと、先週19日に政府分科会・尾身茂会長が発した感染抑止に向けての「人流抑制ではなく人数制限を」という提言、
そしてその後は「若い世代の『検査なし』もありき…」との考えも示しました。その結果、ただでさえ感染抑止の糸口さえ見出せぬ現状がさらに混乱しているようにも思われます。「なんだかますますカオスの底に引き込まれつつあるコロナの行方…」と案じていた折、尾身会長の言葉を分析するテレビ番組がありましたが、
これがまた、理解できるような、疑問がより深まるような、つくづくなんとも難解な「尾身苦論」に振り回された…といった感もあります。
「尾身先生、今、いったい何歳なのだろう。本来ならば第一線から一歩退いた立場からじっくりと状況を分析しながら、世の中のしがらみを超えた崇高な立ち位置から対コロナの考えを発信したいところなのだろうなぁ…」と考えながら、あらためてお歳を調べてみました。その結果、尾身先生はかの太平洋戦争敗戦後の昭和24年生まれ。この頃は戦後の第一次ベビーブームといわれ、さらにつけ加えれば、昭和22年から24年に生まれた人達は各世代の中でもとりわけ出生数が多く「団塊の世代」と称されています。すなわち、尾身さんは「団塊の世代」の真っ只中の人。
蛇足ながら、ちょっと前まで首相の座に在り、尾身さんとともに何度も記者会見の臨んでいた菅前総理も尾身さんと同じく「団塊の世代」。この世代の方々は70歳をゆうに越えた今も元気な方が多く、私がこよなく愛する文化放送のラジオ番組「くにまるジャパン極(きわみ)」でもコメンテーターを務めるジャーナリスト・二木啓孝さんや政治アナリスト・伊藤惇夫さんはじめ、第一線で活動する姿がうかがえます。
ということも思い描きながら、ふと思い出したのが19日のこの新聞記事。
この記事の中の「それでいいのか、蕎麦打ち男」という書は、今から17年前、編集業や文化イベントプロデューサーとして活動していた残間里江子さんの著になる、かつて50年ほど前におもに大学生たちが学生運動を行ない世の中を改革に向けての渦を巻き起こした「団塊の世代」に対する賛美とともにいささか寂しくもある初老期の姿を分析した話題の一冊でした。
記事によると残間さんはこの書の中で、「かつての元気だったオトコどもが蕎麦打ち、楽器、陶芸など趣味に走っており もっと社会に目を向けよ」と訴える内容とのことになっています。私もかつてこの書を読んだことがあり、たしかにそのような内容だったと思うのですが、ふとわが身をふり返ると定年後の世代に属し、しかも日々陶芸している自分がいるではありませんか。いやはやなんとも、こうなればもうひとつ、真剣に蕎麦打ちもしようかな、とも自虐的な思いにも駆られてしまいます…。それにつけても残間さんも今、どのようにお暮らしになっているのでしょうか…。
そしてもうひとつ、「団塊の世代」の方々にとってある意味 共通項でもある全共闘・学生運動を当事者へのアンケートも含めてあらためて振り返る著書「続・全共闘白書」が2019年に刊行されて以来、静かにそしてジワジワと話題になり現在に至っています。蛇足ながらこの一冊のページ数は膨大で、頭を殴ると人を殺せるくらいの分厚さがあるこのような本は俗に「鈍器本」などとも言われたりもします。駅前の本屋さんで買い求めようとしたのですが、お堅い本にもかかわらずなんと品切れです。ネットでしらべると、たしか定価3,850円のはずが、かなり値上がりしちゃってます…。
私はこの「団塊の世代=全共闘世代」ではなく、その次のちょっと冷めた感じの無気力、無関心、無責任を指した「三無主義」がはびこり始めていた頃の世代ですが、かの学生運動華やかなりし頃の世の中の風潮は小中学校、そして高校時代をとおして鮮明に記憶しています。
今から約50年前、当時の東京の大学生の多くは程度の差こそあれ「革命」を夢見て、ヘルメットをかぶり、角棒を振りかざして機動隊と対峙して国家権力と闘いを繰り返していました。日大のおひざ元の神田界隈・靖国通りの都電の路石が投石の材料として掘り起こされたり、書店街の店先がズタズタに破壊されたり、それはそれは壮絶な光景でした。あの当時の団塊となった若者のパワーは今の若い人達には理解できないでしょう。現在の若い人達の多くは、最新のネットやテクノロジーを馳駆してスマートに颯爽と生きているように見えます。現在、「分断」「差別」「貧困」その他、さまざまな問題が表面化、深刻化していますが、その一方、この時代を上手く切り抜けていくスキルを持った人達にとっては、とても良い時代なのだと思ます。
3年目を迎えたコロナとは単なる流行り病いだけにはとどまらず、私たちにとっては過去から現在、そして未来へ向けて、かつて見て来たモノ、そしてこれから先ずっと見続け、そして解き続けなければならない「永遠の宿題」のようにも感じられます