先月下旬、かねてから危惧されていたロシアのウクライナ侵攻が現実のものとなり、以来約2週間が経ちました。
当該国であるロシアとウクライナはもちろん、西欧を中心にアメリカその他各国から、ウクライナ主要都市が壊滅的な攻撃を受けて廃墟目前に変わり果てた映像等が配信されています。この先も事態の行き先はほとんど見えない状況です。
今から約30年ほど前の1991年に勃発したユーゴスラビア内戦の折、「一応は民主主義のようなものが確立していると思っていたヨーロッパでも大きな紛争は起こってしまうのか…」と愕然とした記憶があるのですが、今回のロシアの暴挙は私にとってまさに「言葉にならない…」くらいの大ショック。ゆえに、ロシアがウクライナに攻め入った2月24日以来、柄にもなく心理的に少々落ち着かず何となくカラダも不調をきたしてしまっています。
その上で、テレビやインターネットを通して伝わってくるキエフを始めとする攻撃を受けたウクライナ各都市の影像を見るにつけ、日本もかつて80年近く前の太平洋戦争時にアメリカから空襲を受けたという事実が呼び起こされてきました。
おりしも本日3月10日という日は、昭和20年の大空襲で東京の下町が灰塵と化したなんとも悲しい一日です。私が生まれたのは終戦から約10年後。子供の頃には、戦争を体験した大人達から戦地や空襲の苦しい思い出を折に触れて聞かされながら育ってきました。この東京大空襲に関しても、当時女学生だった母は東京・向島にほど近い川沿いの街に住み、大空襲の時には自宅まで1キロほどのところまで空襲に伴う大火災が近づいて来てとても怖い思いをしたそうです。そして朝を迎えて多くの友人や知り合いの大人達の多くが犠牲に…。そのようなこともあり、今も母は3月10日をむかえるたびに「ほんとにひどい一夜だった」と目を細めてふり返っています。
そして明日は、今から11年前に東日本大震災が起こった日。あの日もたしか、金曜日でした。東北地方を中心に大きな被害を受けた方々とは比べるべくもありませんが、私たちもあの地震の大きな揺れとその後の少しばかり窮屈な日常は今も忘れることはできません。
今週の朝日新聞・文化欄では日を変えて「ウクライナとロシア 歴史の実相は」「東日本大震災11年 若い世代 いま紡ぐことば」とのテーマで、ウクライナとともにかの震災に焦点を当てた企画を掲載していました。
おりしも今週のこの文化欄に並載されている「語る 人生の贈りもの」では、私が今から40年以上も前の大学生時代に佐賀県有田町で陶芸修業をする際にまずはじめに手ほどきを受けた井上萬二先生がたどってきた道すじが描かれています。
井上先生は若き頃は軍国少年で海軍に憧れ予科練に、そして特攻部隊で偵察担当として特攻機を見送る日々を経て終戦を迎え、以来、陶芸の道まっしぐら…。まずは自宅の隣の酒井田柿右衛門窯に無給での修業から始まったそうです。
記事では「若いころ、土はなかなかいうことをきいてくれませんでした。1995年、66歳で人間国宝になったころ、やっときいてくれるようになりました」と語っていましたが、私も今年ちょうど66歳になりますが、土と同居人さんはともに今だにいうことをきいてくれません、トホホ…。
私が有田町で陶芸を学び始めたきっかけは、父の「陶芸、やってみる?」というひと言からでした。大学生当時、地理学を学ぶごく普通の学生生活でしたが、なんとなく満足できない自分がいる最中、考古学を生業として陶芸史も研究していた父から「昔、佐賀県有田町の古窯を発掘した時の知り合いがいるので、有田で陶芸してみる?」と促され、「ならば」と有田に向かったのでした。そして、まずはじめに2ヶ月ほど陶芸の手ほどきを受けたのが井上先生でした。
当時、井上先生は自らの窯を営むとともに、有田町にある佐賀県窯業試験場で陶芸を目指す若者たちの指導に情熱を傾けていました。有田随一のろくろ名人との誉高く、有田で一番ということはそのまま日本一のろくろの達人と評判が立っていました。
大学の春休み、朝8時から夕刻の6時まで、先生の窯では修業中の若い陶工さんがほとんど無言で粘土と対峙していました。工房内に流れるのはNHK第一ラジオ。体力勝負の側面のあるハードな陶芸体験の中、春休みということで大相撲三月場所やセンバツ高校野球中継の音声が流れているのが「なんともラッキー」の感がありました。
私が井上先生から陶芸の手ほどきを受けた2ヶ月のうち、一ヵ月半はただただ土捏ねとろくろ作業の見学の日々。慣れない土捏ねによる強烈な腰痛と闘いながら、最後の2週間だけ、ろくろの手ほどきを受けましたが、その時に先生からかけられた言葉が今も心の中に深く刻まれています。
いわく、「土捏ねもろくろも、ある瞬間に土から手ごたえが返ってくる」「ろくろを引く時は、横からカタチを確かめるのではなく、上からカタチを確かめる」「真ん丸にろくろを轢けるようになって、ようやく半人前…」その他、当時はその意味すら良く理解できなかったのですが、今となっては先生が投げかけてくれた言葉の一つ一つがだいぶ理解できるようになってきました。
当時は自分が陶芸を生業とするなど全く思ってなかったのですが、今振り返っているとじつに貴重な2ヶ月間を過ごさせてもらったと、ただただ感謝するばかりです。陶芸のことなど何もわからぬまま2ヶ月ほどお世話になり、東京の大学生活に戻る私に向けて、井上先生は自らの師匠である奥川忠右衛門作の夫婦湯呑みをプレゼントしてくれました。
この湯呑みは今でも大事にし、そしてあまりにも思い入れが強過ぎて使うことがためらわれています…。
そしてもうひとつ…。先生は窯に来るお客様や私達に「平和な世の中があってこその、陶芸、絵画、そして音楽をはじめとする芸術」としきりに伝えかけていました。同様の言葉は、その後に私が有田の街で陶芸を学んだ窯場の先輩を始めとして陶芸に関わる多くの方々が一様に口にしていました。
ウクライナの今、そして明日の東日本大震災を鎮魂する日に向けて、あらためて平和の意味と尊さを考えさせられた今日この頃…