越路吹雪は、戦後復興期の時代のうねり・エネルギー・文化的潮流に押し上げられるようにして“日本のシャンソンの女王”と称されるまでになり、今でも日本人の胸に残る数々のヒット曲を持つ大スターである。しかし、その戦後復興期よりもはるか前、敗戦直後の焼け野原、粗末なバラックがまだ立ち並んでいた昭和21(1946)年、9歳で歌手デビューした少女がいた。
美空ひばりである。平成元(1989)年6月に亡くなるまで43年間国民的スターであり続けた“歌謡界の女王”は、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した(没後の1989年7月2日)。そして、ひばりの活躍の場は歌謡界のみならず、映画界にも及んでいた。150本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演という映画女優でもあったのだ。
この「映画女優」であることが、ひばりの「歌唱表現」を豊かにしている要素になっている。詞の世界に描かれている人物になりきって、その人物の言葉を歌うことが出来ているのだ。
また、敗戦によって打ちひしがれていた同胞を励ますために、戦後間もない1950年、13歳のひばりは芸能界の師・川田晴久とともに米国サクラメント公演(第100歩兵大隊二世部隊戦敗記念碑建立基金募集公演)に旅立っている。日本人による海外ツアーの先駆けだ。さらに、1970年のブラジル公演では5万人の日系人観客を動員している。サンパウロの州議事堂に面した体育館、8月8・9・10の3日間昼夜公演は満席だった。ブラジルはもちろんアルゼンチン・パラグアイ・ペルー・ボリビヤ・アマゾンから日系人が団体で観にきたのである。かつてフランク・シナトラやトニー・ベネットが称賛したサンパウロの一流演奏家たち全員が『言葉は分からないが素晴らしい歌手だ』と異口同音にほめたたえたという。
ひばりは、敗戦間近の横浜大空襲を体験していた。8歳の誕生日、昭和20(1945)年5月29日、必死に防空壕に逃げ込んだ。1万人近くが亡くなっている。この戦禍の記憶は生涯ひばりの脳裏から消えなかった。昭和49(1974)年8月9日の第1回広島平和音楽祭で、新曲『一本の鉛筆』(作詞:松山善三・作曲/編曲:佐藤勝)を披露する。ひばり自身が選んだベスト10のうちの1曲で反戦歌である。
…一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く
ひばりは14年後の昭和63(1988)年8月に再び広島平和音楽祭に出演した。亡くなる前年、大腿骨壊死と肝臓病で入退院を繰り返していた時期である。出番以外は持ち込んだベッドに横になり、点滴を打った。それでも『一本の鉛筆』をいつも通り歌い終えると、『来てよかった』と喜んだという。
この「時代を共にした同胞を訪ねて歌うこと」「平和を訴える場に駆けつけて歌うこと」―このことは、ひばりの「歌唱表現」を深いものにする要素になっている。借りものではない、自分自身の揺るぎない思いを「歌詞」に込められるからである。
歌詞で書かれている主人公になりきって演じること。自分自身の辛い体験からくる思いを胸に秘めて歌うこと。それが出来たから、ひばりの歌は豊かで深いのである。
※出典/参考:ウイキペディア、日刊スポーツ配信記事、ブラジル日報配信記事。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます