劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

新校舎落成、多目的ホール開場へ!

2009年08月28日 | 日本橋女学館高校
 日本橋女学館中学校・高等学校は3年間の校舎建替え工事を終え、仮校舎から新校舎への移転が終了した。また、2学期からは芸術進学コース(演劇・音楽・美術デザイン)が生まれ、演劇研究系列クラスはその一員として従来のカリキュラムを継続することになった。まもなく、明るく近代的な学び舎に生徒たちの明るい声がいっぱいに広がることだろう。なお、演劇の授業は、これまで使用してきた別館(新校舎本館向かい側)のスタジオで引き続き行なわれ、女学館祭や学年末発表会、卒業公演は、新校舎5・6Fの多目的ホール(400名収容可能)が開催場所となる。
 先日、新校舎見学会や落成式を控えて、多目的ホールの設備点検・舞台設備操作講習会・舞台裏の備品整理などが行なわれた。指揮を執ったのは、当ホールの設計段階からアドヴァイザーを務めてきた羽賀義博氏である。学校施設としては立派なホールで、まず客席が電動式になっていて、後部から座席が階段状になってせり出してくる一方、前部の舞台下かも座席が引き出されてくる。ただ、いずれも、学校行事や発表会が無いふだんの時は、座席は後部および前部に収納されることになる。全体が平面のみの床面となるため、ダンスや卓球の授業およびクラブ活動が行われ、演劇の授業も実寸稽古の折などに利用される。正に、「多目的」ホールなのである。また、卒業公演など照明効果を特に必要とする場合は、スポットライトなど照明機材が吊り込めるように、照明バトンが客席上部にも舞台上部にも設置されている。もちろん、必要な照明回路数に対応できるように設備設計されている。
 この日、点検作業や備品整理に当たってくれたのは、羽賀氏も所属している東京ドラマポケットのメンバーたちである。演劇研究クラスの卒業公演に舞台スタッフとして協力してきた人たちだからこそ、担当講師として安心して仕事をお任せできる次第である。

 写真は、左上は、ホール客席。右上が6F照明室、右中が音響室。左下は、舞台裏。下中央は、客席内部。


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「港」~TDP夏の飲み会~

2009年08月23日 | 創作活動
 晩夏である。去年の今頃は、「演劇ユニット 東京ドラマポケット公演vol.1『音楽演劇 オフィーリアのかけら』」(新宿/シアター・サンモール)の小屋入り前で、濃密過ぎる時間の中にいた。横浜・急な坂スタジオを5日間借り切って、舞台装置(床面)の仮組み、初めての小編成オケとの合同練習、通し稽古、そして、制作スタッフの事務作業など、仲間たちの緊張はピークに達しようとしていた。そして、8月31日の千秋楽を迎え、5ステージの公演終了となる。一昨年のアトリエ公演『オフィーリアのかけら~予告篇~』(横浜創造界隈ZAIM別館ホール)と合わせて、2年間にわたる第一期活動だったが、今年の2月の「納会」をもってその幕を閉じた。
 今、第二期東京ドラマポケット(TDP)の活動が始まっている。「演劇ユニット」の性格上、メンバーは公演企画のたびに再結成される。代表とコアメンバーを残して、ユニット参加者はほとんど入れ替わる。「個人参加型演劇ユニット」の場合、事務所に所属している俳優さんをはじめ多くのメンバーが、それぞれ自分の職場や活動の場を一時的に離れて「ユニット」に参加するのはなかなか難しい。自主活動が可能な期間があったり、参加できる条件が整ったりした場合のみ、公演製作のメンバーの一員として加わることが出来るわけである。
 しかし、代表者としては「晴れて、メンバーの一員に!」などと、とても言えた義理ではない。何しろ、スタートして間もない「演劇ユニット」であり、東京ドラマポケットは無名の存在なのだ。しかも、「個人参加型」で無報酬の活動であり、そこで費やされるエネルギーと時間は半端なものではない。それだけに、活動そのものの中身が魅力に溢れ、公演の成果が充実したものとなり、参加したことの歓びが長く残るようでなければならない。
 数日前、「飲み会821」が演出部のH君の音頭取りで開かれた。会場は横浜だったが、埼玉・東京・神奈川全域から仲間が集まった。第一期のメンバーとともに、第二期から新しく参加しているメンバーも入り交じって、楽しく時間が過ぎていった。二次会には、(現在関わっている公演の)稽古を終えたメンバーが何人も駆けつけてくれた。歓談し、談笑する仲間を見ながら、私はフシギと心が癒されていることを感じた。この感覚はなんだろう?…そうだ、「港」だ!私という小船が舫(もや)っている港だ!仲間の小船たちが何艘も停泊している。やがて、この「港」を離れ外海へ漕ぎ出していく…。自分にとって「飲み会821」は、苦労を共にしたTDPの仲間たちから受ける信頼感を新たにしてくれる素敵な機会となった。

  【港】外界の大波をふせぎ、船が安全に出入りしたり、停泊したりできるように作ったところ。(三省堂現代国語辞典)

 *写真は、東京ドラマポケットの仲間たち(「飲み会821」会場にて)


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「あの日たち」のかけら~浅草篇~

2009年08月05日 | 随想
 土地は「記憶」と分かちがたく結びついている。特に時代の波に洗われつつもその面影を色濃く残している場所は、人間を過去の「あの日」に優しく佇ませてくれる。浅草は、東京の下町。今や日本人ばかりでなく外国人が数多く訪れる観光名所となったが、数十年前までは映画・演芸・実演ショーの看板や幟が立ち並ぶ一大興行街であった。
 昭和38年(1963)早春、親友河崎君は、雨模様の中、仲見世通りを抜けて伝法院通りを歩いていた。芝居の鬘・小道具といえば「浅草」と考えて出掛けてきたのだった。その頃、私たち仲間は、演劇・舞踊・軽音楽・ブラスバンドをプログラムに組んだ公演の企画製作に取り組んでいた。(関連記事:メニュー「創作活動」タイトル『あの日から始まった』2007.3.27.)結局、鬘・小道具は浅草ではなく、まだ都電が走っていた新宿若松町の「日本芸能美術」に私が赴き、そこで紹介された八木さん(当時フジTV美術部)にお世話になることになったのだが、「浅草」と聞くと、まず浮かんでくるのが、小雨の中、伝法院通りの店を訪ねる河崎君の姿なのである。
 さて、先日、久しぶりに藤川流舞踊会(浅草公会堂)に出かけた。会主の藤川爵応丈から毎年招待状を頂くのだが、最近はとんとご無沙汰しっぱなしである。爵応丈との出会いは、私がまだ30代の頃、新人演歌歌手のリサイタルで舞台監督を務めた時のことであった。当時は「藤川澄十郎」で、お弟子さんとのダイナミックな立ち回りによってリサイタルに花を添えられたのであった。テレビでの悪役のイメージとは打って変わって、誠実なお人柄と情熱的な姿勢を打合せや本番を通して印象付けられた。昨夏の東京ドラマポケット公演(新宿シアター・サンモール)の際には、お忙しい中、「藤川流40周年記念特別公演(国立大劇場)」のパンフレットを携え立ち寄ってくださったのである。
 この日、宗家・藤川爵応と家元・藤川澄十郎による『橋弁慶』を観せて頂いた。優雅・繊細・勇壮・豪気、長唄・鳴り物と合わせて、十分に堪能することができた。浅草公会堂を出る頃に、雨がぱらついてきた。還暦を越え古稀に向かおうとする現在でも、ひとたび浅草に佇めば、「あの日たち」の自分に、19歳の、そして38歳の私に、一瞬にして戻れるのである。

 *写真左は、伝法院通りのお店。写真右は、藤川流舞踊会。


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