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劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

“初夢”『喜歌劇 クローディアスなのか、ガートルードなのか』初演!

2025年01月04日 | オペラ
 満席。場内の照明が弱まり、ピンスポットがマエストロを浮かび上がらせオケピの指揮台へ導く。聴衆のざわめきが拍手に変わる。

第一幕
第一場
テーマ音楽。
劇場内に闇が広がる。音楽「民衆のソング」。徐々に舞台に光線が射しこんでくる。
静止していたオブジェのような塊(民衆八名)が動き出し平舞台いっぱいに広がる。
〈ソング&ダンス〉がダイナミックに展開される。                                     
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第二場 エルシノア城下の空き地
つむじ風が吹き荒れ、木の葉やゴミが舞い踊っている。
素っ頓狂な声やざわめきとともに、平舞台に光が入る。
ある日。
肉屋、肉屋の女房、パン屋、酒屋、酒屋の女房、大工、鍛冶屋が、噂話にうつつを抜かしている。
離れた所で、伝令が竪笛を吹いている。

肉屋の女房: な、なんだって~!王妃様と王様の弟が?
酒屋: (伝令を気にして)こ、声がでかいよ!
パン屋: (声を潜めて)ホ、ホントか?
酒屋の女房: くっ、へっへっへ……。驚いたかい?
肉屋: ……まさかぁ。
大工: いや、火のない所に煙は立たぬ。王族貴族でも人は人、高貴な方でも男と女、あってもおかしくない話。
肉屋の女房: 王妃様と王様の弟が……ふ~ん。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                     

・第一の物語はクローディアスとガートルードの物語であり、シェイクスピアが『ハムレット』で描くことのなかった彼らの致命的な愛情を切なくも美しく描き出している。
・第二の物語は、第二幕第七場で執事アルバートの求婚が女官長マリーに受け入れられた瞬間に突然前景化され、この作品を悲劇のモードから喜劇のそれへと変貌させている。
・これらふたつの物語を覆い包む形で、常に平舞台にいる民衆の物語がある。彼らは国の政治や戦争に常に生活を左右されながらも、王侯貴族のスキャンダルを楽しむたくましさも持っている。
【安田比呂志氏(イギリス文学・シェイクスピア/開智国際大学教授)/「雪女とオフィーリア、そしてクローディアス 東京ミニオペラカンパニーの挑戦」(2019年8月・幻冬舎刊)249~250ページ所収】

・…すでに触れた通り、オペレッタの場合、朗唱やレチタティーヴォは全くなく、会話や独白には普通の会話が使われる。(中略)大衆的で親しみやすい台詞が挿入されるものの、単なるオペレッタ形式に留まることなく、叙事詩風の合唱がさらに重要な役割を果たすことになる。しかし『雪女の恋』と異なり、「日本の民話」に拠らないため、いわゆる『夕鶴』に始まる「創作オペラ」には該当しない。すなわち、『クローディアスなのか、ガートルードなのか』は、おそらく日本の創作オペラ史上、異色の作品の一つになるのではないか。近い将来上演されることが望まれる。
【森佳子氏(音楽学・オペラ研究/早稲田大学ほか講師 )/同著247~248ページ所収】

 演劇人である筆者がオペラ創作にシフトした切っ掛けは音楽が感性に直接訴えかける力であった。演劇は言葉を武器とする以上、音楽の分野としては器楽ではなく言葉を伴う「声楽」となる。そして「歌」は、クラシック音楽から大衆音楽まで幅は広い。となると、それら表現の多様性に惹かれるのは自然の成り行きであった。オペラのアリアは「王と王妃」に、オペレッタのデュエットは「女官長と執事」に、ソングは「民衆」によって歌われる。しかも、この三層における物語は時間的にシンクロしていて「城内と城外」で同時に起きている…これは面白いはずと考えたのが執筆動機であった。
 
この作品は「雪女とオフィーリア、そしてクローディアス 東京ミニオペラカンパニーの挑戦」(2019年8月・幻冬舎刊)出版の際に、将来の上演を目論んで書き下ろした脚本である。同著所収の『悲戀~ハムレットとオフィーリア』(2016年9月・JTアートホールアフィニス)『雪女の恋』(2019年2月・東京文化会館小ホール)は筆者主宰のカンパニーで上演可能であったが、この『喜歌劇 クローディアスなのか、ガートルードなのか』は大作で、しかもオペラ・オペレッタ/ミュージカル・ストレートプレイの3ジャンルの人材を必要とするため、広いネットワークと莫大な製作費が必須なので、興行会社(東宝や松竹)の主催公演でなければ不可能と考えられ、現時点では未上演となっているのだ。
 暦がめくられ、新年となった今、作者として「『喜歌劇 クローディアスなのか、ガートルードなのか』初演」を夢見ている次第である。

※写真(中)は、「シェイクスピア時代のイギリス生活百科」(2017年・河出書房新社発行)の表紙から。
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続・本物に触れて深さを知る、すべてはそこから➁

2024年11月04日 | オペラ
 私たちの多くは凡人である。天才と呼ばれその名が歴史に残る非凡な人間ではない。フツーの一般人として生涯を終えることになるわけだが、そうした運命にあっても「自分らしく生きる」ことはできる。創造活動に身を置く場合は、「自分でなければできない表現」を生み出すことは可能である。
 無名の筆者が手掛けた「音楽演劇」や「日本語によるミニオペラ」はこれまで誰も手掛けなかった独自のジャンルを開拓したと自負している。たとえその仕事が脚光を浴びなくとも、先例を踏襲したり他人の仕事をなぞったりしなかったことで「自分らしく生きる」ことはできたのではないだろうか。
 「芸術・芸能」を職業として選んだ人たちの中でも、天才と呼ばれ歴史に名を遺すのは一握りの人物いわばは氷山の一角の存在である。以前、クラシック音楽のオペラや大衆歌謡のシャンソン・歌謡曲について書いたことがある。超一流にはなれなくても、自分なりの世界を生み出して「一流」にはなれるケースについても触れた。
 パリの劇場でシャンソンの世界女王エディット・ピアフの歌を聴いて打ちのめされた越路吹雪が帰国後に立ち直った例。才能ある友人の訳詞と演出家との出会いと本人のすさまじい精進によって「自分のシャンソン」を生み出し、日本におけるシャンソンの女王になった…。【※「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として(13)~(15)2022年】
 さて、今回は「落語」という日本の伝統芸能に目を転じてみたい。
 「落語界」にも綺羅星のごとく輝く名人たちがその名をほしいままにしている。六代目三遊亭圓生・七代目立川談志・三代目古今亭志ん朝の芸は今でも耳に残り目に浮かぶ。戦後の落語界の先頭を走った圓生の柔らかで色気のある語り口は人情噺『鰍沢(かじかざわ)』の鬼気迫る世界に聴く者を吸い寄せてしまう。次世代の異才・談志のハスキーで切れ味のいい口演は、吉原通いで勘当された息子の滑稽噺『二階ぞめき』をもって古典落語の面白さを教えてくれる。また、映画・舞台でも活躍した志ん朝は、同様の滑稽噺『湯屋番』でなめらか声と心地よいテンポによって笑いを増幅させ噺家の芸を堪能させてくれる。
 一方、こうした超一流の名人たちとは別の「一流」も存在している。有名人ではないが知る人ぞ知るいわば隠れた名人――そのひとりが柳家さん喬である。五代目柳家小さん門下では出世が遅く本年75歳になって「落語協会会長」に就任している。
 先日、BS-TBSで『鴻池(こうのいけ)の犬』の口演(国立劇場)が放送された。国立劇場の「落語研究会」では隠れた名作を紹介しているようだが、この上方落語も人情噺・滑稽噺の垣根を超えたまさしく名作である。
 主人公は江戸の商家で飼われていた白犬。丁稚が熱心に世話していたのは黒犬だったが、大阪の豪商鴻池家の使いの者が『坊ちゃんが可愛がっていた黒犬に死なれ気落ちしているので譲ってほしい』と引き取られてしまう。丁稚はがっかりして残された犬の面倒を見なくなり邪険に扱う。白犬は居場所を失い、兄の黒犬がもらわれていった大阪・船場を目指して旅に出る。人間の身勝手な事情で扱われる動物の視点から描き出される「人間批評」と、「旅は道連れの“人情”」「東海道中の名所・名物の紹介」「(鴻池家で君臨していた)兄の黒犬との再会による幸福」…無理のない構成と説得力のある論理性(※出会った犬の知恵=お伊勢参り代参の「お陰参りの犬」になれば人間に大事にされる)が一貫している物語。
 柳家さん喬は穏やかで親しみやすい人柄で尖ったところがない。生来持っている温かみと人間への愛情が芸に滲み出る。演目『鴻池の犬』にとってこの噺家はうってつけで、余人が代われるとは思えないほどの存在といえる。その柔らかな語り口。的確な目線やさりげない所作で描写する世界の臨場感。声による人物の演じ分けの見事さ。しかも、音楽に喩えればフォルテからピアニッシモ、クレシェンドからデクレッシェンまで豊かな表現を持ち合わせ、本物の芸を身に着けている。
 柳家さん喬は、演目との相性という点では歴代の名人たちに引けを取らない。江戸落語の名作『死神』などを含めて「庶民のありのままの姿」「生きる上での願いや追い詰められた際の本音」「人間の油断と愚かさ」「命の尊さと悲しさ」の描写においては一流である。この人の「ニン(人柄・器量)に合っている」演目に限っては、超一流の名人たちも指をくわえて見つめるしかないと思える。
 「自分でなければできない表現」ならばその分野で生きる人びとなら誰にも可能性はあるし、それを達成することで「自分らしく生きる」ことは叶えられる。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒇(終)

2022年10月30日 | オペラ
 クラシック音楽界で活躍する人材によって結成されたオペラカンパニーによる『雪女の恋』(東京文化会館小ホール/2019年2月)以前に、主宰していた「演劇ユニット 東京ドラマポケット」では、公演vol.2『Shadows<夏の夜の夢>に遊ぶ人々』(北沢タウンホール/2010年8月)、公演vol.3『全体演劇 わがジャンヌ、わがお七』(両国・シアターχ/2012年8月)において「コロスドラマ」を上演しているが、これらは全てオペラや演劇作品の一翼を担う役割としての「合唱」であった。
 
 筆者はこれらの実践とは別に、合唱を単独で前面に押し出す試みを「劇的表現の一環」として行っている。「言葉の音楽」というモチーフで、詩作品をいわゆる朗読形式ではなく演劇的に表現するパフォーマンスである。
 ある試演会では、N.ヒクメットの『死んだ女の子』(訳:中本信幸)を取り上げた。音域の異なる3つのグループを設定し、メロディを付けずあくまでも言葉としての強弱(フォルテシモ~ピアニシモ)・高低・硬軟・上昇下降(クレシェンド/デクレッシェンド)・直線的・放物線的という多様な<合唱表現>を目指し、そのために原詩をもとに上演台本を作成した。その一部は以下の通りである。

 開けてちょうだい たたくのはあたし
 あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの
 こわがらないで 見えないあたしを 
 だれにも見えない死んだ女の子を
―――――――――――――――――――――
開けてちょうだい
開けてちょうだい 
開けてちょうだい 
開けてちょうだい
たたくのはあたし たたくのはあたし
あたし あたし あたし

あっちの戸 こっちの戸 
あっちの戸 こっちの戸 
あたしはたたくの 
たたくの たたくの たたくの
こわがらないで 見えないあたしを 見えないあたしを
だれにも見えない死んだ女の子を 女の子を 女の子を
―――――――――――――――――――――――――
 3つのグループは、一カ所に固まりまた分散し立体的に交差する。ヒロシマで亡くなった少女になりきって、叫ぶのではなく語り掛け、目線や表情を変える。ソプラノ・メゾソプラノ・アルトの音声が厚みのあるポリフォニーを生み出す。

 さて、クラシック音楽に戻ろう。
 独唱や重唱とは全く異なる合唱の魅力、合唱表現の可能性は幅広くあるだろうが、筆者にとっては、以上のような「言葉の音楽」の試みを発展させた「合唱による音楽作品」の創作に関わりたいと考えている。「合唱」の存在価値を高め、独自の音楽表現が誕生することを念願している。

(写真:新宿混声合唱団)

 合唱(がっしょう)は、複数の人が複数の声部に分かれて各々の声部を複数で歌う声楽の演奏形態のこと。器楽における「合奏」の対語でもある。クワイア(choir)、コーラス(chorus)とも呼ばれる。※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒆

2022年09月21日 | オペラ
 これまで、クラシック音楽から大衆音楽まで声楽からシャンソン・歌謡曲まで、一人の歌手によって歌われる世界について述べてきた。楽譜に付されている「詞」の世界が伝わってはじめて「歌」としての感動が成立することに言及してきた。
 「歌」は音楽と言葉が一体となっている芸術だが、そもそも一人の歌い手による独占領域・表現ジャンルではない。「独唱」とは異なる素晴らしい芸術表現が「合唱」にあるのだ。最後に取り上げたいのは、「合唱」の存在価値と独自の音楽表現およびその可能性についてである。
 有史以来、一人ではなくむしろ集団で歌われる歌と踊りが世界各地で伝承され今も民族の伝統として残っているが、紀元前のギリシャでは、それが国家的行事としての演劇に発展し野外劇場が建設された。そこで演じられるギリシャ古典劇に欠かせない存在が舞踊合唱隊=コロス(15名)であり、「コーラス」の語源となっている。名作『オイディプス王』の場合、疫病が蔓延している現状を嘆き、主人公の王に訴え、劇の進行を担う民衆役として登場する。
 筆者は、長年<コロスが劇を開き、人物たちを登場させてドラマを展開し、最後に劇を閉じる>という劇中劇の上演に取り組んできたが、演劇から日本語オペラにシフトしてからもその構造は変わらなかった。
 2019年2月25日、東京文化会館小ホールで上演された「東京ミニオペラカンパニー公演№2『雪女の恋 二幕』(作曲:鳥井俊之・指揮:佐藤宏充・演出:十川稔)」では、12名の混声合唱団が、日本語を大切にする指揮者の期待に応え見事な和声を聴かせた。
 …このオペラの詞の中にも、最初に合唱で歌われる「ゆきやこんこん」「ゆきしんしん」「くうるくうるとまわりばな」「しゅうしゅうふきすさぶ」など沢山の豊かな表現が出てきます。これらの言葉に鳥井氏によってつけられた、豊かな和声に彩られたシンプルな旋律によって、自然界の純粋さと恐ろしさが見事に表現されていると感じます。(佐藤宏充氏/上演プログラムより)
 公演の翌日、東京二期会事務局(後援・マネジメント)の大門千寿子氏から入場者数などの報告メールがあったが、そこでも「合唱」に触れられていた。
…完成度の高い素晴らしい作品に仕上がり、大好評でブラボーも沢山かかってよかったですね。民話を題材になさったことと、佐野さんの台本の構成と言葉の使い方が美しかったことも印象的でした。衣裳、メイク、装置、照明が入るとやはり臨場感が違いますね。合唱は、藪内さん(※山の神役)が集めてくださったのだと思いますが、とてもアンサンブルが美しく公演の成功に大きく寄与していました。

 東京ミニオペラカンパニーのウェブサイトにアクセスして頂けると、公演ビデオの一部を視聴できます。
  • Video: Vol2「雪女の恋(二幕)」
  • 東京ミニオペラカンパニーvol.2 雪女の恋 動画その2-1
  • 第一幕 第一場 音楽「われは大地の守り神」前半(2:04)
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒅

2022年08月26日 | オペラ
 大衆音楽。
 フランスでもっとも愛された歌手エディット・ピアフは、自らの生涯を痛切なバラードで歌い上げ、聴く者は胸を打たれた。今もなお「シャンソンの女王」として記憶されている。一方日本の「歌謡界の女王」美空ひばりは、少女期から一家を支えつつ女性としての幸福が手からこぼれようとも歌うことをやめなかった。死期が迫ってもレコーディングに臨みファンの要望に応えて満員のステージに立った。二人の女王のレコード・CDはロングセラーであり、“カヴァー”する歌手は後を絶たないが、やはり本物を観たいファンはYouTubeやTVの特集番組でその姿に触れることになる。
 二人には共通点がある。激しく生きた人生と早すぎる死(ピアフ47歳没・ひばり52歳没)。そして、「名もない人々に向かって語り掛け歌う」大衆音楽というジャンル。しかし、その「歌唱のあり方・表現方法」は全く異なる。
 ピアフは、自身が作詞家でもある。『愛の讃歌』『バラ色の人生』は彼女の心からほとばしり出た言葉に曲が付けられて生まれた作品である。したがって本質的にはシンガーソングライターに近いと言えるだろう。日本でもフォークソング・ニューミュージック・ロックのブームを巻き起こした歌手たちは自分自身の内面を自分の言葉で歌った。演じるのではない。いわば、マイクに向かって己をさらけ出したのである。
 他方、ひばりは、自身が女優でもあった。作詞家・作曲家の手による作品を演じる。己を消し主人公の女になりきって歌い、エンディングになると「美空ひばり」に戻る。「加藤和枝」本人をさらけ出すことはしない。だが、詞に描かれている女を歌う時、ひばり本人の内面と無関係ということではない。『悲しい酒』の涙について、『…あの時はね、小さいころのつらかった出来事を思い出しているのよ。』と語っている。それを「女の涙」に見せるところがプロなのである。俳優が毎回の舞台において「涙」を自在にコントロールしているのと同様である。
 美空ひばりは、「三分間のドラマ」を主人公に変身して歌える稀有な才能の持ち主であった。劇中の人物が自分の思いを歌う―それは演劇と音楽の融合である。「ひばりはオペラに関心があった」という逸話は自然な成行きと言える。もちろん、大衆音楽とクラシック音楽は異質である。成り立ちが宮廷音楽であり、歌劇の歴史も王侯貴族と切り離せない。場末の酒場の片隅と歌劇場ではその歌唱法も全く違う。大舞台から三階の桟敷席まで声を響かせるベルカント唱法など、声楽は歌手の身体を楽器として扱う。大衆音楽の歌手に「オペラ」は無理である。しかし、そのことと「歌」による感動とは分けて考えなければならない。
 ともするとオペラや歌曲の評価がその音楽表現に傾き、言葉表現を軽視する傾向がある。詞の世界がきちんと伝わらなければ、それは「歌」ではなく言葉を失った「音のヴァリエーション」でしかない。オペラにも歌曲にも具体的な自然描写や人間の心情が「言葉」で表現されており、それによって聴衆がその世界を想像できなければ「アリア」でもなければ、「独唱」でもなくなる。
 マリア・カラスがなぜ不世出の歌姫なのか。天与の音楽的才能ばかりではない。人間的孤独、オペラ界での紆余曲折、女性としての葛藤、それらが生み出した魂の叫びが「歌詞」を生きた言葉にしたのである。※参照:当ブログ2009/05/03 16:13:50 カテゴリー:随想/映画『マリア・カラスの真実』を観る
 オペラ界のマリア・カラスは、1977年9月巴里で死去、享年53歳。
 激烈な人生を送り、時代を超えて聴衆の心に生きている歌手として、大衆音楽のエディット・ピアフとも通い合い、また、歌劇の主人公として舞台に立つ時は、「三分間のドラマ」を歌う美空ひばりとも繋がるのである。

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