食器を買う場合、大型スーパーや100円ショップで用が足りる。デパートの食器売り場を回る年配者もいるだろう。若い世代に限らず、今や瀬戸物屋を頼りにする消費者は稀かもしれない。来客が途絶え採算が合わなくなれば、店は立ち行かなくなり、跡継ぎは他に職を求めなくてはならない。
事は瀬戸物屋だけに止まらない。多くの個人経営の店が同じ運命にある。ある日、出入りの酒屋がビールと日本酒を配達に来た際、『あ、佐野さん、これが来ていました』と大学からのメール便を差し出した。いつもは1Fの郵便受けに投函されてあるものをどうして酒屋さんが持ってくるのか、といぶかしげな顔をすると、『…ああ、ウチはメール便もやってるんですよ』と照れ笑いの表情を見せた。清涼飲料水と並んでアルコール飲料もスーパーやコンビニに大量に出回っているので、わざわざ酒屋に電話注文する客も少ないに違いない。しかし、酒屋がメール便を配達していたとは、正直、不意を衝かれた思いだった。
別の日、米屋が配達にやってきたので、玄関先で立ち話となった。『昔はこの界隈にも米屋が結構あったんですけどね、今はウチと、あと残っているのは…』米も今はスーパーのレジ付近にどっさりと積まれている。我が家のような老人家庭でもなければ、重いものとはいっても、米や酒を配達してもらう必要もない。米屋さんは、玄関ドアに手を掛けながら、個人商店の状況を明晰にレクチャーしてくれた。「コンビニ・スーパーばかりでなく、郊外型の大型店が出た場合、地元商店は根こそぎ廃業に追い込まれる。そして、その大型店がやがて閉鎖となった時、その地元には小売店が無くなっている」それに加えて、インターネットの普及が話題にのぼった。パソコンに入力するだけで、‘door to door’ドアを開ければ商品を受け取れる、いわば、現代の御用聞きである。米屋・酒屋ばかりでなく、本屋・写真屋など、小規模の商いは大規模店や情報化社会の波に飲み込まれつつある。
現代は口を利かなくていい時代である。コンビニ・スーパーでは、黙って商品をカゴに入れ、レジ打ち店員のマニュアルどおりの対応に無言で頷いて金を払う。そしてインターネットでは、情報に向かってパソコンキーを叩くだけである。相手の顔を見て、その人格を認めて、会話する――固有名詞的存在としての、人間と人間とのつながりはどんどん失われていく。地元個人商店の灯は、私にとって心を温めてくれる灯である。吹きすさぶ時代の風に揺らぎながらも点り続けてほしいと祈るばかりである。
事は瀬戸物屋だけに止まらない。多くの個人経営の店が同じ運命にある。ある日、出入りの酒屋がビールと日本酒を配達に来た際、『あ、佐野さん、これが来ていました』と大学からのメール便を差し出した。いつもは1Fの郵便受けに投函されてあるものをどうして酒屋さんが持ってくるのか、といぶかしげな顔をすると、『…ああ、ウチはメール便もやってるんですよ』と照れ笑いの表情を見せた。清涼飲料水と並んでアルコール飲料もスーパーやコンビニに大量に出回っているので、わざわざ酒屋に電話注文する客も少ないに違いない。しかし、酒屋がメール便を配達していたとは、正直、不意を衝かれた思いだった。
別の日、米屋が配達にやってきたので、玄関先で立ち話となった。『昔はこの界隈にも米屋が結構あったんですけどね、今はウチと、あと残っているのは…』米も今はスーパーのレジ付近にどっさりと積まれている。我が家のような老人家庭でもなければ、重いものとはいっても、米や酒を配達してもらう必要もない。米屋さんは、玄関ドアに手を掛けながら、個人商店の状況を明晰にレクチャーしてくれた。「コンビニ・スーパーばかりでなく、郊外型の大型店が出た場合、地元商店は根こそぎ廃業に追い込まれる。そして、その大型店がやがて閉鎖となった時、その地元には小売店が無くなっている」それに加えて、インターネットの普及が話題にのぼった。パソコンに入力するだけで、‘door to door’ドアを開ければ商品を受け取れる、いわば、現代の御用聞きである。米屋・酒屋ばかりでなく、本屋・写真屋など、小規模の商いは大規模店や情報化社会の波に飲み込まれつつある。
現代は口を利かなくていい時代である。コンビニ・スーパーでは、黙って商品をカゴに入れ、レジ打ち店員のマニュアルどおりの対応に無言で頷いて金を払う。そしてインターネットでは、情報に向かってパソコンキーを叩くだけである。相手の顔を見て、その人格を認めて、会話する――固有名詞的存在としての、人間と人間とのつながりはどんどん失われていく。地元個人商店の灯は、私にとって心を温めてくれる灯である。吹きすさぶ時代の風に揺らぎながらも点り続けてほしいと祈るばかりである。