劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

地元個人商店の灯(後)

2008年12月31日 | 随想
 食器を買う場合、大型スーパーや100円ショップで用が足りる。デパートの食器売り場を回る年配者もいるだろう。若い世代に限らず、今や瀬戸物屋を頼りにする消費者は稀かもしれない。来客が途絶え採算が合わなくなれば、店は立ち行かなくなり、跡継ぎは他に職を求めなくてはならない。
 事は瀬戸物屋だけに止まらない。多くの個人経営の店が同じ運命にある。ある日、出入りの酒屋がビールと日本酒を配達に来た際、『あ、佐野さん、これが来ていました』と大学からのメール便を差し出した。いつもは1Fの郵便受けに投函されてあるものをどうして酒屋さんが持ってくるのか、といぶかしげな顔をすると、『…ああ、ウチはメール便もやってるんですよ』と照れ笑いの表情を見せた。清涼飲料水と並んでアルコール飲料もスーパーやコンビニに大量に出回っているので、わざわざ酒屋に電話注文する客も少ないに違いない。しかし、酒屋がメール便を配達していたとは、正直、不意を衝かれた思いだった。
 別の日、米屋が配達にやってきたので、玄関先で立ち話となった。『昔はこの界隈にも米屋が結構あったんですけどね、今はウチと、あと残っているのは…』米も今はスーパーのレジ付近にどっさりと積まれている。我が家のような老人家庭でもなければ、重いものとはいっても、米や酒を配達してもらう必要もない。米屋さんは、玄関ドアに手を掛けながら、個人商店の状況を明晰にレクチャーしてくれた。「コンビニ・スーパーばかりでなく、郊外型の大型店が出た場合、地元商店は根こそぎ廃業に追い込まれる。そして、その大型店がやがて閉鎖となった時、その地元には小売店が無くなっている」それに加えて、インターネットの普及が話題にのぼった。パソコンに入力するだけで、‘door to door’ドアを開ければ商品を受け取れる、いわば、現代の御用聞きである。米屋・酒屋ばかりでなく、本屋・写真屋など、小規模の商いは大規模店や情報化社会の波に飲み込まれつつある。
 現代は口を利かなくていい時代である。コンビニ・スーパーでは、黙って商品をカゴに入れ、レジ打ち店員のマニュアルどおりの対応に無言で頷いて金を払う。そしてインターネットでは、情報に向かってパソコンキーを叩くだけである。相手の顔を見て、その人格を認めて、会話する――固有名詞的存在としての、人間と人間とのつながりはどんどん失われていく。地元個人商店の灯は、私にとって心を温めてくれる灯である。吹きすさぶ時代の風に揺らぎながらも点り続けてほしいと祈るばかりである。



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地元個人商店の灯(前)

2008年12月30日 | 随想
 横浜北部の京浜急行沿線の町に住みついて20年近くになる。車を持たず、週のほとんどを東京との往復に明け暮れる身には、駅近辺の近代長屋がうってつけであった。行きつけの理髪店では主人夫婦の笑顔と会話とに心が和むし、ラーメン屋の親父は「焼きそばと餃子の持ち帰り」に『まいど~!』と言って‘ゆで卵’を一つおまけしてくれる。横須賀、鎌倉、横浜南部…と転々としてきて、この流れでいくと次は東京となるが、今しばらくは居心地のよさを味わいたいと思う。
 しかし、この昔ながらの小さな町にも時代の波は確実に押し寄せてきていて、親しみを感じているだけにつらい気分になる「現実」があった。
 京急・JR京浜東北線・横須賀線・東海道線が一箇所に集まる踏切を越えて、細い路地に入ると、老人夫婦が営む瀬戸物屋がある。茶碗や小皿にビールグラス、年末には縁起物の干支の置物を買いに訪れる。『…そうなんですよ。うちのような瀬戸物屋は少なくなりした。若い人たちは、スーパーやコンビニのパックのまんまで、食器を使わなくなりましたからねぇ』主人は苦笑交じりに語ってくれた。「衣食住」のうち、「食」の時間の過ごし方は、人間の心の在り様や資質を映す鏡になる。食器という道具を捨てれば、これまで培ってきた食文化は雲散霧消してしまう。大家族が核家族となり、その上、家族揃って食卓を囲む時間を失うとなれば、家族という最小単位の社会は瓦解してしまう。今、「孤食」が増えているという。たとえ一人だけの質素な食事であっても、食器は豊かな時間を演出してくれる道具だ。老母は、茶碗や皿を洗う際、時折握りそこなって割ってしまう。私は数百円の食器を買いに、線路を渡り、徒歩10分の店へ向かう。瀬戸物屋がこれから先いつまでも店を開けていてくれることを願いながら…。


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ピカソ展を巡りながら思う

2008年12月14日 | 随想
 ピカソ展が近接する二つの会場で同時開催されているので、仕事帰りに六本木まで足を伸ばした。数十年前は、旧俳優座劇場で上演される芝居を観によく地下鉄の階段を上ったものだ。また、かつてガラス屋の地下にあった自由劇場にもよく通った。新劇・アングラというジャンルを超えて、そこには熱気と実力と芝居の匂いがあった。最近は足が遠のき、新装成った俳優座劇場に関係者が出演している時のみ立ち寄るくらい…。
 さて、まず訪れたのは、国立新美術館「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」である。高い吹き抜けのある近代的な建物、1Fには広いカフェ。サンドウィッチとコーヒーで一息ついてから会場に入る。青年期から壮年期、そして老年期(73年、91歳で死去)に至るまでのピカソの生涯に圧倒された。美術展のチラシには「青の時代からキュビズムを経て、新古典主義、さらにはシュルレアリスムへと変貌を重ねる作風。パピエ・コレ、レリーフ絵画、構成的な彫刻やアサンブラージュなど、さまざまな素材と表現の可能性の追求。戦争や平和をめぐって、人間性や芸術の意味を求めて、ピカソの芸術は、多様な展開を見せます。…」とある。
 一点一点、作品と向かい合いながら、その創造の軌跡のすさまじさと、彼の創作活動と不可分な女性遍歴にみる人間としてのパワーに瞠目した。また、二つの世界大戦を経た時代の潮流、ジャック=プレヴェール、エリック=サティ、ジャン=コクトー、セルゲイ=ディアギレフたちとの出会いと交流は、芸術活動そのものに幅と奥行きを与えたに違いない。
 つぎに訪れたのは、東京ミッドタウン内・サントリー美術館「巨匠ピカソ 魂のポートレート」である。樹木や芝生が配された道を進むと、イルミネーションに輝くオブジェやガラスの塔のような建物にたどり着く。ここには代表作の一つ「ゲルニカ」の制作過程が組み写真(撮影は、愛人でシュルレアリスムの写真家)で展示されていた。印象に残った絵は、「牧神と馬と鳥」(1936.8.5. パリ グワッシュ墨/紙 44×54㎝)で、グレーを基調とした色彩と線描の組み合わせが美しかった。国立新美術館では、彫刻「ヤギの頭蓋骨、瓶、蝋燭」(1951~53 ヴァロリス 彩色したブロンズ 79×93×54㎝)で、ヤギの頭蓋骨に施された青が魅力的だった。
 両会場の膨大な展示作品の中で、心に残ったのは上記の二つだけである。私がピカソに惹かれるのは、作品そのものより「変貌を重ねる作風」「さまざまな素材と表現の可能性の追求」である。『面白い発想だな。ユニークな様式だな』そういう思いでピカソ展を巡りつつ、実は常に頭にあるのは演劇である。美術にしても音楽にしても衣装にしても、その「美たち」はいつの日か生み出される私の舞台作品の泉になってくれるはずだ。

*写真左は、国立新美術館。右は、東京ミッドタウン内・サントリー美術館。


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消えゆく小屋たち

2008年12月06日 | 随想
 
 劇場は、正に‘劇’の‘場’であって、演劇の構成要素の一つになっている。私は演出家として、上演行為の第一に劇場を挙げている。「演劇ユニット 東京ドラマポケット」の第一期活動は『音楽演劇 オフィーリアのかけら』だったが、新宿シアター・サンモールとの使用契約成立が確定したことで、本格的なスタートを切ることになった。演出意図および上演内容、舞台装置・客席との関係などの条件を満たしていたからである。幕を使わない、200~300人ほどの客席、それも舞台と客席の最前部分を外して演技空間を客席へ張り出す装置、それらが可能な劇場を必要としていたので、もし、劇場使用の契約が結べなかったとしたら、公演企画自体を断念していたに違いない。
 東京の小劇場で魅力的な小屋(Play House)は、シアター・サンモールだけではない。芝居の雰囲気を湛えていて、上演側の使い勝手もよく、足の便も悪くない小劇場、その小屋たちのいくつかが消えてゆく運命にあるという。
 シアター・トップス(新宿)。来年3月で閉館。座席数150、85年オープン。劇場側は「劇場が入るビルのテナント見直しで閉館が決まった」と説明。(ニッカン芸能ニュース)/隅田川左岸劇場ベニサン・ピット(森下)。85年オープン、座席数176。「諸般の事情により平成21年1月25日をもちまして閉館とさせていただきます。…」(株式会社紅三HP)/ザ・スズナリ(下北沢)81年開場、客席数230。「下北沢再開発計画。幹線道路・高層ビル・大規模店舗の建設→現在のスズナリ取り壊し…へ」(補助54号線/ザ・スズナリHP)
 時代の流れと経済的事由という一撃の前には、演劇文化の拠点などひとたまりもないのか。“あの黒い箱の中に、硬質でいて情感豊かな劇世界を構築したい!”――私の念願だったベニサン・ピットでの公演は、夢幻となってしまった。
 実は、ことは非商業演劇に止まらない。あの松竹資本の歌舞伎座(東銀座)も改装のため取り壊しとなるのだ。10月21日の朝日新聞に、「10年4月さらば歌舞伎座」の見出しが躍った。「…(全面的建て替えが)老朽化に伴うもので、新劇場は13年中にもビルと劇場の複合施設として誕生する。…現在の建物(1950年築・1900席)は02年、国の登録有形文化財になった。…」歌舞伎座は、日本を代表する伝統演劇の殿堂である。その独特な「正面の破風を配した形状」を持つ建築物に対して、日本建築学会が06年4月、「歌舞伎座の保存に関する要望書」を提出していたという。劇場というものは、単に消防法の規定を満たした建物ならよいというものではない。それ自体が劇の入口であり、非日常の世界を現出する空間でなければならない。歌舞伎座が近代的なビルの中に吸収される、と想像しただけで絶望感に襲われる。1年4ヵ月後のことなのだ!この国には「劇場」という歴史的建築物を守ろうという意思は見られない。怒りを通り越して、ただ悲しい思いが胸いっぱいに広がってくる。

*写真は上から、ベニサンピット、 シアター・トップス、ザ・スズナリ、歌舞伎座。


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