劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

恩人との再会は、天上にて

2012年12月29日 | 随想
 12月6日(日)午後5時―7時、慶応義塾大学日吉キャンパス・ファカルティラウンジで開かれた「宮下啓三先生を偲ぶ会」に出席した。静けさと温かさと気品…今は亡き慶応紳士を慕う人々が参集した会場は、大人の雰囲気で満たされていた。参会者に配布された「追悼文集」に私の小文も載せて頂いた。
 還暦を越えた後、大切な人を失うことが多くなった。まさか宮下先生とのお別れが今年あるとは!けれども思う―『天上へ赴く時の喜びが増したのだ。』と。

                    



                  







青インクの一行~最後の賀詞~
                  佐野語郎 (日本橋女学館高等学校講師)
 
 今年の年賀状数百枚のうち、心に留まっていた一枚があった。「御多祥をお祈りいたします」という青インクの一行と「啓」の朱印。『しばらくお目にかかっていないけど、宮下先生はお元気だろうか?』私は先生のご病気についてはまったく知らなかったし、主宰している演劇ユニットの公演準備に追われる現実に身を委ねるうちに時間ばかりが過ぎていった。「訃報」に接したとき、その日の時間が止まった。すぐさま、先生の賀状を取り出し見つめ直してみると、私へのお別れの言葉のように思えてきた。『あなたの幸いや喜びが続くことを祈っておりますよ』―あの温厚で柔和なお顔が浮かんできた。
 宮下啓三先生とは、西洋比較演劇研究会で初めてお目にかかった。例会の後は、成城大学の会議室で「ワインパーティー」があって議論を深め交流を図り、さらに、その日の発表者を囲んで二次会が持たれるのが常だった。当時、私は、県立神奈川総合高等学校の演劇講師を務めていて、毎年、生徒たちのために脚本を書き「舞台系発表会」(年度末の三月)で上演していた。『今年度のタイトルは‘メルヘントリップ’で、新美南吉と宮澤賢治、グリム童話と日本昔話を素材に構成します…』―私が二次会場の居酒屋でその取り組みを夢中になって話していると、先生は親しみを込めてこうおっしゃった。『私の亡くなった父も児童文学を書いていましてね、豊島与志雄たちとも交流があったのですよ。…』そして、1998年3月13日、その「舞台系発表会」を観に来てくださったのである。三年後、再び多目的ホールにご来場された折だった。私は「発表会」終了後、国語科の職員準備室にご案内した。先生の甥にあたる中川千春氏が教師として赴任されていたのである。お二人はその奇遇を喜ばれた。
 中川千春氏は慶應義塾大学出身で、詩人・文芸評論家としても名をなしていて、単行本のほか雑誌や新聞への執筆活動もされている。「追悼文集」についてお伝えすると、『ちょうど祖父のことを新聞に書いたところで、叔父についても触れました』とのこと。早速、掲載記事を添付送信して下さった。「伊那谷出身の児童文学者宮下正美と『山をゆく歌』のこと[上]・[下]」(信州日報/2012年10月5日・6日)には、身内ならではのエピソードが細やかに描出されており、そこには筆者の祖父そして叔父への敬愛の情が静かに流れている。
 私は宮下啓三先生とのご縁によって、慶応義塾大学(三田)で「映画演劇論」を九年間担当し、父の母校で講義できる喜びを与えられた。今後は「青インクの一行」を胸にしまいつつ、演劇・童話・教育の仕事に力を尽くすことで、先生のご恩に報いたいと考えている。


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豪華客船南太平洋クルーズ体験②

2012年12月11日 | 随想
 <南太平洋の旅>といえば、その語感からロマンチックな気分になるが、その大海原の下に苛酷な現実が横たわっていた。11月8日、私たちの船は、赤道を通過後、「鉄底海峡」に差し掛かる。配布されたプリントの記載―ソロモン諸島のサボ島、フロリダ諸島の南方、ガダルカナル島の北方に存在する海域(海峡)のこと。太平戦争中、日米の大消耗戦となったガダルカナル島の戦いにより多数の艦船・航空機がこの海域に沈みました。海底を鋼鉄の残骸が埋め尽くしていることから、鉄底海峡(アイアンボトムサウンド)と称せられるようになり、現在はスキューバダイビングの名所となっております。
 当日、デッキで船上慰霊祭が行われた。汽笛の響く中、黙祷をもって戦死された方々の冥福を祈った。日本軍だけでも総数12,600名が戦死したとの記録があるが、その七割近くが、病死・餓死・行方不明である。輸送船がことごとく撃沈され、武器弾薬・食料・薬品がまったく補給されない中での悲劇。戦争指導者の判断、軍部の無謀な命令が招いた結果を忘れてはならない。
 11月12日、船はニューカレドニアのヌメアに入港した。私は親しくなったパッチワークキルトと囲碁教室の先生方と「ヌメア市内展望と博物館」のバスツアーに参加した。印象に残ったのは、博物館の説明表示がフランス語だったことである。列強諸国による植民地経営の実態がどうだったのか、自分にとって新たな課題が一つ生まれた。
 11月14日午前、このクルーズの最大の目的である「皆既日食」に遭遇する。甲板は船客たちで埋めつくされ、事前に部屋に届けられた<日食観察メガネ紙>を片手に暗くなっていく空を見つめた。5秒ほどであったろうか、真っ黒くなった太陽の左上に‘ダイヤモンドリング’が現れた。まさに光り輝く小さな指輪!おーっ…という感嘆の声が広がる。科学に無知で天文学に関心の薄い私でも、その美しさに息を呑んだ。
 その日の夕方は、「朗読を楽しむ」教室8回の講座の締めくくりの「発表会」だった。プログラムは、宮澤賢治『なめとこ山の熊』の朗読・ペロー『赤ずきんちゃん』の語り・シェイクスピア『ハムレット』のドラマリーディング。11名の受講生は、マイクの前にかわるがわる立ち、生き生きと発表した。客席の家族や知り合いからは、拍手が送られ、好意的な感想が述べられた。
 11月15日、豪華客船は、ニュージーランドのオークランド港に到着した。横浜と同じくそこはどこかノスタルジックな港町だった。私はお仲間の先生二人と8時でも明るい目抜き通りに繰り出した。足が向くのは、やはり劇場。町外れの「シビックシアター」ではミュージカルを上演中だったが、帰船時間もあって諦める。「スカイタワー」の展望ラウンジからの夜景を楽しみ、満席に近い古びたビアホールでベルギービールを味わった。
 11月16日早朝、セミナー講師たちは、ぱしふぃっくびいなす号と別れ、マイクロバスでオークランド空港へ向かった。11時間後、飛行機は夜の帳が下りた成田空港へ着陸、京成ライナーに乗って日暮里駅のプラットホームに降り立つ。『ああ、東京だ…』―こうして「旅」は終わった。


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