12月6日(日)午後5時―7時、慶応義塾大学日吉キャンパス・ファカルティラウンジで開かれた「宮下啓三先生を偲ぶ会」に出席した。静けさと温かさと気品…今は亡き慶応紳士を慕う人々が参集した会場は、大人の雰囲気で満たされていた。参会者に配布された「追悼文集」に私の小文も載せて頂いた。
還暦を越えた後、大切な人を失うことが多くなった。まさか宮下先生とのお別れが今年あるとは!けれども思う―『天上へ赴く時の喜びが増したのだ。』と。
青インクの一行~最後の賀詞~
佐野語郎 (日本橋女学館高等学校講師)
今年の年賀状数百枚のうち、心に留まっていた一枚があった。「御多祥をお祈りいたします」という青インクの一行と「啓」の朱印。『しばらくお目にかかっていないけど、宮下先生はお元気だろうか?』私は先生のご病気についてはまったく知らなかったし、主宰している演劇ユニットの公演準備に追われる現実に身を委ねるうちに時間ばかりが過ぎていった。「訃報」に接したとき、その日の時間が止まった。すぐさま、先生の賀状を取り出し見つめ直してみると、私へのお別れの言葉のように思えてきた。『あなたの幸いや喜びが続くことを祈っておりますよ』―あの温厚で柔和なお顔が浮かんできた。
宮下啓三先生とは、西洋比較演劇研究会で初めてお目にかかった。例会の後は、成城大学の会議室で「ワインパーティー」があって議論を深め交流を図り、さらに、その日の発表者を囲んで二次会が持たれるのが常だった。当時、私は、県立神奈川総合高等学校の演劇講師を務めていて、毎年、生徒たちのために脚本を書き「舞台系発表会」(年度末の三月)で上演していた。『今年度のタイトルは‘メルヘントリップ’で、新美南吉と宮澤賢治、グリム童話と日本昔話を素材に構成します…』―私が二次会場の居酒屋でその取り組みを夢中になって話していると、先生は親しみを込めてこうおっしゃった。『私の亡くなった父も児童文学を書いていましてね、豊島与志雄たちとも交流があったのですよ。…』そして、1998年3月13日、その「舞台系発表会」を観に来てくださったのである。三年後、再び多目的ホールにご来場された折だった。私は「発表会」終了後、国語科の職員準備室にご案内した。先生の甥にあたる中川千春氏が教師として赴任されていたのである。お二人はその奇遇を喜ばれた。
中川千春氏は慶應義塾大学出身で、詩人・文芸評論家としても名をなしていて、単行本のほか雑誌や新聞への執筆活動もされている。「追悼文集」についてお伝えすると、『ちょうど祖父のことを新聞に書いたところで、叔父についても触れました』とのこと。早速、掲載記事を添付送信して下さった。「伊那谷出身の児童文学者宮下正美と『山をゆく歌』のこと[上]・[下]」(信州日報/2012年10月5日・6日)には、身内ならではのエピソードが細やかに描出されており、そこには筆者の祖父そして叔父への敬愛の情が静かに流れている。
私は宮下啓三先生とのご縁によって、慶応義塾大学(三田)で「映画演劇論」を九年間担当し、父の母校で講義できる喜びを与えられた。今後は「青インクの一行」を胸にしまいつつ、演劇・童話・教育の仕事に力を尽くすことで、先生のご恩に報いたいと考えている。
還暦を越えた後、大切な人を失うことが多くなった。まさか宮下先生とのお別れが今年あるとは!けれども思う―『天上へ赴く時の喜びが増したのだ。』と。
青インクの一行~最後の賀詞~
佐野語郎 (日本橋女学館高等学校講師)
今年の年賀状数百枚のうち、心に留まっていた一枚があった。「御多祥をお祈りいたします」という青インクの一行と「啓」の朱印。『しばらくお目にかかっていないけど、宮下先生はお元気だろうか?』私は先生のご病気についてはまったく知らなかったし、主宰している演劇ユニットの公演準備に追われる現実に身を委ねるうちに時間ばかりが過ぎていった。「訃報」に接したとき、その日の時間が止まった。すぐさま、先生の賀状を取り出し見つめ直してみると、私へのお別れの言葉のように思えてきた。『あなたの幸いや喜びが続くことを祈っておりますよ』―あの温厚で柔和なお顔が浮かんできた。
宮下啓三先生とは、西洋比較演劇研究会で初めてお目にかかった。例会の後は、成城大学の会議室で「ワインパーティー」があって議論を深め交流を図り、さらに、その日の発表者を囲んで二次会が持たれるのが常だった。当時、私は、県立神奈川総合高等学校の演劇講師を務めていて、毎年、生徒たちのために脚本を書き「舞台系発表会」(年度末の三月)で上演していた。『今年度のタイトルは‘メルヘントリップ’で、新美南吉と宮澤賢治、グリム童話と日本昔話を素材に構成します…』―私が二次会場の居酒屋でその取り組みを夢中になって話していると、先生は親しみを込めてこうおっしゃった。『私の亡くなった父も児童文学を書いていましてね、豊島与志雄たちとも交流があったのですよ。…』そして、1998年3月13日、その「舞台系発表会」を観に来てくださったのである。三年後、再び多目的ホールにご来場された折だった。私は「発表会」終了後、国語科の職員準備室にご案内した。先生の甥にあたる中川千春氏が教師として赴任されていたのである。お二人はその奇遇を喜ばれた。
中川千春氏は慶應義塾大学出身で、詩人・文芸評論家としても名をなしていて、単行本のほか雑誌や新聞への執筆活動もされている。「追悼文集」についてお伝えすると、『ちょうど祖父のことを新聞に書いたところで、叔父についても触れました』とのこと。早速、掲載記事を添付送信して下さった。「伊那谷出身の児童文学者宮下正美と『山をゆく歌』のこと[上]・[下]」(信州日報/2012年10月5日・6日)には、身内ならではのエピソードが細やかに描出されており、そこには筆者の祖父そして叔父への敬愛の情が静かに流れている。
私は宮下啓三先生とのご縁によって、慶応義塾大学(三田)で「映画演劇論」を九年間担当し、父の母校で講義できる喜びを与えられた。今後は「青インクの一行」を胸にしまいつつ、演劇・童話・教育の仕事に力を尽くすことで、先生のご恩に報いたいと考えている。