劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

青春は続く~同窓仲間1962/2017.3

2017年03月18日 | 随想
 3月13日。わが横須賀商業(現・横須賀市立横須賀総合高校)の仲間9名が久しぶりに故郷に集まった。母校を卒業後、金融・保険・製造・航空などの民間会社にみな就職した。激動の55年を経て、高齢者となった今、会社勤めはお役御免の身、月曜日であっても日程調整はたやすい。参加者全員が、午後2時、京急・馬堀海岸駅改札に顔をそろえた。
 会合は題して「わが町歴史散歩と出版祝賀の宴」。
 その第一部が昼下がりの<わが町歴史散歩>である。三浦半島の横須賀に生まれ育ちながら、「この地が古代の歴史に重要な足跡を残し、幕末の国難に直面した際には海防の役割を担い近代国家の礎を築いた」についてぼんやりした知識しか持ち合わせていなかった。初等中等教育における郷土史教育の欠落に遠因がある。その<欠落>を埋め、わが横須賀再発見に導いてくれたのが、今回の歴史散歩のリーダー・玉井幸雄さんだ。玉井さんは私より一学年先輩で半世紀以上のお付き合いになる仲間で、定年退職後に横須賀史跡ツアーガイドを務められ、10年経過した現在はガイド仲間の責任者となられて、先日もTV番組にも登場された。
 久しぶりに歩く海辺。静かに打ち寄せる波、海の匂い潮の香。親しい先輩が語る東京湾・浦賀水道に刻まれた歴史に耳を傾ける。古事記・日本書紀に残る「走水」の地名。『日本武尊が東征のため房総半島上総国を目指す途上、暴風雨に遭遇。荒れ狂う海を鎮めようと最愛の妻・弟橘姫命が入水すると、海は穏やかになり海面を走るように進むことができた』『横須賀高女(現。神奈川県立横須賀大津高校)の同窓会名「橘会」はこれに由来している』/敗戦後、米海軍のアジアにおける重要基地が置かれた横須賀は、幕末以来明治・大正・昭和と、国防の最前線であり、海軍の街として知られていた。『江戸(東京)に入るにはこの狭い浦賀水道を航行しなければならない。外国の侵入を防ぐために、東京湾中に海堡、沿岸に砲台などの要塞を築く必要があった』私たちは普段は見ることもない「走水低砲台跡」の砲座跡や弾薬庫の存在に触れて、歴史におけるわが町の位置づけを改めて認識した。
 夕暮れ。一行はバスに乗って25分、繁華街・横須賀中央にある居酒屋へ入った。第二部<出版祝賀の宴>が始まるのだ。昼の部の玉井さんから主役は柳田勇君に交代する。「庚申の詩 庚申塔とその周辺の石像たち ~横須賀 三浦 鎌倉~」(神奈川新聞社刊)について感想と批評を述べ、友人の自費出版を祝う会である。
 柳田君は文芸部の仲間だった。彼の書く詩のセンスは抜群で、高校時代からカメラも手にしていて私たちはよく被写体になったものだ。その詩文と写真の力がこの著書に結実している。定年後13年、自由になった時間を生かして横須賀を中心に三浦半島や鎌倉を歩き回った。ペンを手にカメラを肩に、石仏を訪ね向き合い対話し、それを記録し続けた。極めて気品のある愛情のこもった一篇一篇がページを繰るごとに現れる。そこには歴史の風雪に耐えた野仏や庚申塔に対する敬意と時代の変遷に対する筆者の感慨、そして自らの人生や家族への思いが「写真の対象」と重ね合わされているのだ。
 『子供の頃路傍の片隅に建っている野仏に興味があった。それらがなんという野仏かは知らなかったが、永い時間を経て現在あることは子供心には解った。難しい文字が書いてある石塔や、不思議な像が彫刻され手が何本もあり、昔の人は何故このような石塔を彫って後世に残そうと考えたのか疑問で仕方がなかったのである。』(あとがき)より。
 私たちは一人一人自分が特に感銘を受けた数篇について語り、筆者の柳田君もその話の輪に加わって、55年前の文芸部を彷彿させるような場が出来上がっていた。
 
 玉井さんも柳田君も、会社勤めは卒業しても社会との接点を持ち「青春」を生きている。18歳から20代前半の頃、私たちは親友河崎君宅で飲みかつ語った。劇団を作って公演をし小旅行に出かけた。私は母校のバドミントン部で主将を務めていたが、ダブルスのパートナー宮崎君はなんと今でも現役である。全国大会シニアの部でダブルス優勝を勝ち取っている。今年も福島県郡山で開催される全国大会に出場するそうだ。いつも穏やかな表情を絶やさないかつてのパートナーは半世紀以上「青春」を持続している。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする