劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

創造の軌跡~演劇における音楽、オペラにおける演劇⑵

2020年01月04日 | 演劇
【音楽演劇の追求と展開(前)】
 「演劇における音楽」というモチーフは、<音楽演劇というジャンルの開拓>を起点とし、やがて<音楽演劇の追求と展開>へと向かうことになる。2006年秋、佐野を主宰とする「東京ドラマポケット」という演劇ユニットが誕生する。(設立趣旨:総合芸術としての演劇を制作する。戯曲の舞台化や新解釈による演出ではなく、俳優の演技を中心とした美術・音楽などの表現要素が重層的に融合する世界を創造する。)
 2007年8月24日~26日、横浜創造界隈ZAIM別館2Fホールにて『オフィーリアのかけら~予告篇~』が上演される。ユニットの設立趣旨にもあるように、その上演作品は実験性の高いものだった。音楽に関してはフルート・クラリネット・ヴィオラ・チェロ・パーカッション5名のアンサンブルを演技空間の奥に設置するとともに、演奏される音楽に劇的人格を与え、幽冥界を支配する「目に見えない存在」とした。この設定は、「演劇における音楽」の起点となった公演「音楽演劇『冥界の三人姉妹』」と同様である。
 東京ドラマポケットアトリエ公演『オフィーリアのかけら~予告篇~』は、翌年に本公演『音楽演劇 オフィーリアのかけら』(2008年8月28日~31日、新宿・シアターサンモール)に発展する。小オーケストラの構成は、作曲者石川亮太のピアノを中心にしてフルート・クラリネット・ヴァイオリン(第一/第二)・ヴィオラ・コントラバス・パーカッション8名のアンサンブルに変わる。客席に張り出す傾斜舞台、舞台奥(黒い紗幕裏)が小オーケストラ席だ。演奏者の声を拾ってみる。
…4日間の公演が終わり、ホッとしたけれど寂しくもあります。昨年初めて台本を読んだ時から夢中になりました。今年はたくさん印象に残っている事がたくさんありました。奏者がセリフの部分をまるで話しているように楽器で音を出したり、内面の様子を楽器で演奏するところや、素敵な役者さん達や、舞台装置等です。中でも本番中いつも心を奪われていたのは、綺麗な青と月のような黄色い照明でした。本当に幻想的で素敵でした。(フルート)
…今回の公演を終えて、感じたこと。ミュージカルやオーケストラの演奏会のように指揮者に合わせて目の前にある楽譜を吹けば良い、そんな当たり前の演奏会ではなく、指揮者、演奏者、楽譜、そして役者に合わせて吹くという今までにない体験でした。非常に難しい部分がある反面、演奏者と役者の掛け合いが瞬間的に生まれて、微妙なニュアンスの違いで、その場面の雰囲気が変わるというのがすごくやりがいがあり楽しい舞台でした。(クラリネット)
…初めて演劇というものに関わりました。もちろん自分が何かを演じた訳ではありませんが,音楽の一部を担えたことでオフィーリアのかけらを表現することに参加でき,本番の4日間はとても面白かったです。劇も素敵でしたが,やはり石川さんの音楽が素晴らしかったと思います。劇の空間に生演奏が劣らず存在しているのは,意外に思えるけれどもどこか心地がよい。これからの音楽演劇というジャンルの発展を願ってやみません。(ヴァイオリン)
 以上は、上演記念誌「Tokyo Drama Pocket BOOKLET vol.1 音楽演劇 オフィーリアのかけら」所載の文章だが、観客サイドから寄せられた論評も上げておきたい。
『音楽演劇の可能性―オフィーリアのかけらを観て』
この画期的作品は音楽劇ではなく、音楽演劇である。普通オペラのような音楽劇においては、台詞と音楽の結合が「歌」という形で具現化する。しかしこの作品ではそれらの結合はなく、音楽はむしろ台詞から独立し、単独で意味を持つように作られている。現界※(うつつかい)におけるオフィーリアの精神世界は、調性に支配された音楽によってときには情熱的に、ときには瞑想的に表現され、現世における心の安定と不安定が交互に映し出される。ところが冥界※(めいかい)では、調性から解放された、ピアノと打楽器の張りつめた「音」が聴こえるようになる。それらの音はまるで生きたオブジェのように立ち現れるが、その過程は無垢な「音」への変化を表しているようにも思える。そして天界※(てんかい)ではもはやそれらはなく、ただ言葉の音が静かに漂い続ける。すなわち「音楽」そのものから「音」へ、そして音楽の生みの親である「言葉」へと戻って行くのだ。その過程は物語と重複するが、同時に「音そのものの変遷」として独立し、それらが断片的に現れることで時と空間の移動が自在になり、重層的で独特の世界が創りあげられる。以上が私の感じたことであるが、作曲者は「神のごとき存在として音を響かせる」ことを目指したという。そうだとすれば、音は見えざる存在として、あらゆる者に変化(浄化?)を促す役割を果たしているのだろう。そして、作者が「かけら」と題したとおり、音のかけらの輝きが神の手として物語を支配しているのであろう。
 森 佳子(日本大学/フランス音楽劇)
コメント
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