高校時代、文芸部発行「驟雨(しゅうう)」の編集・執筆に関わったことがあったためか、卒業後、仲間と立ち上げた劇団の上演パンフレットには巻頭詩を掲載することが通例になっていた。
『ガラスの動物園(T.ウィリアムズ作)』(1968(昭43)年11月/横須賀市文化会館大ホール)上演パンフには、宮澤賢治と並ぶ童話作家・新実南吉の詩だった。
戦後アメリカ演劇を代表する劇作家の自伝的処女作上演に際して、なぜ新実南吉の『雲』なのか。今思えば二つの要因が考えられる。
第一には、主人公の在り方と運命である。
『ガラスの動物園/原題The Glass Menagerie』の主人公は一般的にローラという足に軽い障害をもった内向的な娘である。ガラス細工の動物たちを心の友としていることが劇のタイトルの由来だからであろう。しかし、演出者としての私は母親のアマンダを主人公ととらえた。結婚も望み薄で職業婦人にもなれそうにない娘、倉庫係で映画館通いを繰り返す頼りにならない息子、その姉弟を抱え孤軍奮闘、自宅電話にかじりつき、婦人雑誌(官能小説の連載が目玉)購読勧誘を行っている。夫はだいぶ前にこのセント・ルイスを飛び出して行方知れず。アマンダは娘時代の栄華を回想し子供たちに語って聞かせることでわずかなプライドを保とうとしている。これは、作者の代表作『欲望という名の電車』の主人公ブランチが過去の幻想と現実を行き来するのと重なる。つまり、ブランチの原型がアマンダということになる。
第二には、主人公アマンダの状況と上演側が置かれた状況とが二重写しになったことが挙げられる。
演出者の私を含めて上演側の家庭には、「父」が居なかった。居たとしても敗戦をキッカケに生きる意欲を失ったり、病気で仕事を失ったり、何日も家を空けたりした。「家」を切り盛りし、子供を学校へ行かせたのは母親だった。母親へのシンパシーは私たちの心に根強くあったのである。
さて、この二つが重なると、新実南吉の詩『雲』の世界がその共通項となり、またそのまま劇の主題にも見えてくる。
「薔薇イロノ雲」と「生活のザツバクノナカ」を貫く「麒麟ノヨウニ クビガ ナガイ(人間)」。子供たちの幸せを唯一の「夢」として「現実」を苦とも思わず生涯を送った母親たち。
この劇で、私がもっとも好きな場面は、劇詩人テネシー・ウィリアムズ面目躍如の「第一幕 第六場」のラストである。
アマンダ 可愛いお月さま―銀のお靴みたい。さ、ローラ、からだ、こっち向けて―左の肩ごしに、願いごとをするの!
《ローラは、いきなり揺り起こされたような、とまどった顔つき。その肩に、アマンダが手をかけて、横にむかせる。》
さ、早く!早く、お願いしなさい!
ローラ なにを、お願いするの、お母さん?
アマンダ 《こえが、ふるえだし、両眼に、突然涙があふれてくる。》
しあわせを、さ、幸運を!
《照明が、しだいに、消えていく。》
田島 博・訳(新潮文庫)