劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

むかし落伍者、いま先駆者~ダウンシフターの私②

2014年05月30日 | 随想
 社会人としてスタートを切った職場は、羽田空港の貨物倉庫だった。英国海外航空会社(BOAC)の貨物課の搭載係(Cargo Section/loader)。高校の親友の義兄がPassenger Sectionに在職していて、その方の口利きだった。学歴の差別はなく、実力次第では紺の制服(金ボタンのついたサイドベンツのジャケット)に身を包み旅客カウンターに立つことも夢ではない。しかも、搭載係でさえ月給は23,000円の高給で、大手銀行に就職した同級生の2倍であった。外資系の日本IBMでさえ、15,000円の頃である(1$=360円の固定相場)。
 52年前、成田空港はなく羽田は唯一の国際空港で、貨物倉庫は旅客ターミナルから離れた場所にあった。当時は騒音問題などおかまいなく、ホノルルや香港からの到着便は深夜になるのは日常化しており、われわれ肉体労働者は出回り始めた即席ラーメンをすすり、埃だらけの倉庫の二階でわずかな仮眠をむさぼった。
 やがて、その職場を去る日がやってくる。三交代制で飛行機への貨物や手荷物の積み込みや荷下ろしの仕事から、灰色の作業服にベレー帽から、いつかは夢見た…。ところが突然その夢は消え去る。ロンドンからの通知(Notice)が職員掲示板に張り出され「今後欠員が生じても補充はしない」との合理化案が示されたのである。19歳になっていた私は転機を迎え、英字新聞(‘The Japan Times’)の求人欄(help wanted)を頼りに、貿易会社の事務職に応募した。給料はやや下がったが、それでも一般の大卒の手取り額よりはるかに高かった。
 ところがまもなく、再び人生の岐路に立たされることになる。肉体労働から事務労働に変わったものの、周囲は語学堪能の大卒がほとんどで、自分の将来像が霞んでしまったのだ。リア王はつぶやいた。‘Who am I?’―社会における自分、その存在価値、自分が自分であること。私は半年ほど悩みに悩んだのち、ある晩、正座して母に頼んだ。―『一回だけ大学を受験させてほしい』『…お前がそれほど言うなら』―母子が暮らしていた洋裁店社長宅の奥まった六畳一間での会話だった。
 私は「大卒(当時は学歴は価値があった)」の肩書きが欲しくて、進学しようとしたのではなかった。正直なところ、考える時間が欲しかったのだ。自分を生き生きと生きるにはどうしたらいいのか。高校卒業後、仲間と演劇を中心とした公演活動をやっていたこともあり、演劇の理論的な勉強はしたかった。けれど、それが生計を立てることに結びつくとは考えられない。でもともかく4年間あれば、自分なりの結論は出るに違いない。社会の激流に押し流されそうになった自分を留める一本の杭が大学という別世界だった。
 21歳の新入生から見ると、社会経験のない同期生は子どもに映った。もっとも彼らから私はオジサンに見えたらしい。類は友を呼ぶで、大学で親交を結んだのはほぼ同年齢の数人で、他学部からの転入者だったり休学明けの学究だったりの個性派たちだった。
 4年間は素晴らしかった。古典から現代、伝統演劇から西洋演劇まで見て回り、自らも公演活動に明け暮れた。大学構内は学園紛争の渦中だったし、アルバイトも忙しく、キャンパスライフを楽しむなどというムードは一切無かったが、充実感をもって卒業期を迎える。ところがいざ就職という段になって、壁にぶち当たるのである。今思えば、これがダウンシフターとしての一生を送る「事始め」になった。ある日、今は亡き河竹登志夫先生の研究室でのことだった…。

※写真は、羽田の航空会社の親睦旅行・銀座の貿易会社の親睦旅行・早稲田卒業式当日文学部構内での記念写真(母と学友たちと)。


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むかし落伍者、いま先駆者~ダウンシフターの私①

2014年05月12日 | 随想
 テレビ番組で、❛ダウンシフター❜が取り上げられていた。
 エリートサラリーマンが「働き方」を変える。課せられたノルマに追われる毎日から週休3日の居酒屋店主へ、安定した収入600万からなんとか暮らせる300万へ。大手の出版社を辞め、自分が出したい本を扱う個人出版社を設立した人もいる。都会から地方へ赴く例もある。生まれ故郷の漁村で整体師を夫婦で営みながら、朝漁港の荷揚げを手伝い、その謝礼に魚を戴く。それを手に近所を訪ね回り、野菜などと物々交換して食糧を確保する。また、IT会社を地元で立ち上げ社員を募り余暇は自由に使ってもらう。サーフィンで波に乗り、お遍路さんで街道を歩く。金銭にこだわらない。半減した収入の代わりに獲得した「自分の時間」をそれまで出来なかった好きなことに充てる。
 テレビ画面を眺めながら、『ほう、若い世代の生き方もいろいろ出てきたな』と思う一方で、『俺のほうが、早いぜ。50年前だもん、パイオニアじゃん!』とニンマリした。彼らの場合は、働き方のチェンジに踏み切り「ダウンシフター」となった。私の場合は、初めからダウンシフトの生き方を選んだ。その違いは何だろう?どこから来ているのだろう?そこには、個人の人生哲学ばかりでなく、時代や社会の大きな変化も背景にある。
 
 『お~い、無職~!』…高三の休み時間、バレーボールのパス遊びをしていて投げかけられた一言である。就職が決まっていないのは私だけだった。しかし、友人に悪意はなく、就職担当の先生の熱心な薦めをも断り自分にとってよりよい勤め口を求める私にちょっぴり呆れ、からかいの気持ちから出た本音だった。昨秋、仲間との小旅行の宿でその話をしたら、『そんなことあったかな…』と、みんなカラカラ笑った。
 「大学は贅沢、せめて高校だけでも」―それが当時の親たちの思いだった。商業高校の就職率は悪くなかった。昭和37年(1962)4月、我ら卒業生は、金融・証券・保険・生産会社へどんどん送り出された。日本は高度経済成長期の渦中にあり、護送船団方式・終身雇用・年功序列の社会体制が堅固だった。18歳の私は、その渦の中に巻き込まれるのに抵抗を感じた。人様と同じ道を歩かされるのが嫌だった。自分で自分の職場を選び取り、そこへ進もうとした。そしてその結果…。

*ダウンシフト(en:Downshifting)とは、生活様式に関する社会的な潮流・傾向の一つである。過度な出世競争や長時間労働、物質主義的、唯物的な生活環境を日常から排し、よりゆとりのあるストレスの少ない生活に切り替える生活態度の劇的な変化を指し、また、そうした生活態度は減速生活と言われる。邦書では『浪費するアメリカ人』(2000年,ジュリエット・B. ショア著)の中でこうした生活態度の変化をとったダウンシフター(減速生活者)についてはじめて紹介された。(ウイキペディアフリー百科事典より)

※写真は、横須賀商業時代の部活動。社会へ出る前の最後の3年間はだれもがスポーツに文化部活動に夢中になった。私の場合は、まず英語部とバドミントン部に入り、2年からは文芸部(演劇発表もする)に力を注ぐ。そして、生涯の友たちと出会う。


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