劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「無形文化遺産登録」と食文化の内実と

2013年12月31日 | 随想
 …食文化としての「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。「無形文化遺産」とは、「芸能や伝統工芸技術などの形のない文化であって、土地の歴史や生活風習などと密接に関わっているもののこと」(農林水産省の説明)…とネット画面に表示されている。和食党の身にしてみれば、大変結構なことだと喜びたいところだが、「待てよ」と首をかしげたくもなった。「和食文化」を人様=外国に誇らしげに語る前に、その土台となる我が国民生活における「食文化」「食生活」を見つめた場合、穴があったら入りたくなるほどの実態がありはしないかと。
 確かに「和食」は素晴らしい。…(1)多様で新鮮な食材と素材の味わいを活用(2)バランスがよく、健康的な食生活(3)自然の美しさの表現(4)年中行事との関わり…世界遺産登録申請にあたり、政府が謳いあげた和食文化の特徴である。しかしそれらは料理屋や職人の世界での話であって、食文化の土台となる一般家庭や国民の実態とはかけ離れつつある。
 「手前味噌」という言葉は死語になっているし、糠床の甕も台所から消え、手料理の並んだ食卓を家族全員が囲む家庭すら探すのが難しい。今放送中の、朝のテレビ小説『ごちそうさん』はそこを突いている。一般家庭が食文化を体現していた時代、「味」は家族の心を結び付けていた。愛するもののために作る、その手料理を皆で味わうことでより一層家族を身近に感じ、その家の味が生まれる。
 しかし、父の存在、母の役割、家の味、などは私たち世代が子供だった頃までで、高度経済成長以降、都市部を中心に、大型スーパーやコンビニの進出、外食チェーン店や料理専門店の営業に巻き込まれ、日本人の多くは手料理を忘れてしまった。作らなくても買えば済むという時代に変貌してしまったのである。「味気ない」世の中になってしまったなぁ、と苦笑するだけで済めばよいが、この「家庭の味の崩壊」が精神文化の危機を招いているとすれば、大ごとである。
 ある日、遅めの昼食をとるため、駅に隣接する複合施設内の定食チェーン店に入った。広めのカウンターには、先客があった。右側に学生風の青年、左には若い女性。彼は、左手をズボンのポケットに突っ込んだまま鷲づかみの箸で黙々とモノを口に運び、彼女はスマホを片手で操作しながら思い出したように右手のスプーンを動かしている。これは、食事ではなく、エサ補給である。食べ物そのものへの関心や愛着はない。ここには「食事」を軽視した親たちの実像が投影されている。
 社会の激変に伴って、食事時に家族全員が揃わない、料理する手間を省く、その結果、出来合いのものをバラバラに食べる「個食」と「孤食」がまかり通っているのだ。家族が揃うといっても、ファミレスや回転寿司は、家庭の食事ではない。金で「愛」は買えないからだ。家庭を持つということは次世代を育む責任を担うことであって、子どもたちが「家庭の食事」を通して愛情を知る体験にも繋がる。あたたかい愛を受けたことのない者は、他者を思いやる感情が乏しいため孤立しやすく、場合によっては犯罪にさえ走りやすい。
 一人暮らしになって、2回目の引越しをすることになった。不動産業者と何軒か当たってみる間に、1K・1DKの台所は「IH/一口コンロ」が多いことを知り、改めて料理への愛着の無さ(特に若い世代の)という現実を見せつけられた。たとえ素朴な料理でも、私には鍋とフライパンを同時に使える二口ガスコンロは欠かせない。老い先短い身だが、エサタイムでなく、これからも食事時間を生活に取り入れていこうと思う。


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