劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

続・人生の出発点が蘇る瞬間~私の場合

2023年11月18日 | 随想
 《「明けの仕事」を終えた昼前、空港ビル前の駐車場で撮影されたワンカット》を目にすると、羽田から日比谷へ向かった給料日のことが思い浮かぶ。現在のような金融機関への口座振り込みは無く、会計担当からの手渡しだった。読売巨人軍・長嶋茂雄選手の給料袋は厚かったので“立った”という時代である。
 有楽町駅日比谷口から徒歩5分、会社(BOAC)のオフィス(予約・広報/会計)が入っている「三信ビル」に向かう。当時この一帯(有楽町から日比谷にかけて)は外資系特に航空会社の事務所が並んでいてハイカラな雰囲気があり、行きかう人々も欧米人が目立った。日劇やデパートがある銀座方面とは違って日本人も<関係者>という様子の人が多かった。
 ※日比谷にある「三信ビルディング」は、1929年の竣工時モダン都市を象徴する建物だった。当時としては珍しく、低層階をアーケード商店街が貫く構造を持っていた。美しいアーチ型天井や曲線を活用した内装は斬新な印象を人々に与えていた。昭和初期のモダニズム…(オフィスマーケット 2001年11月号掲載。)
 三信ビルに入ったとたん、そこは<異国の空間>だった。外国人向けの店が並んでいて“外国の匂い”がした。外国語も耳に入るので、視覚・聴覚・嗅覚でそれを毎月体感することになる。ビルの二階にあった会計課で高卒者としては充分すぎる給料を手にすると、その足で銀座の松屋に向かった。毎月一本ネクタイを買うのが習慣になっていた。
 先日、日比谷を歩く機会があり、「幻の三信ビル」の前に立った。19歳の自分=人生の出発点が蘇る瞬間を味わえた。
 今、「三信ビル」の跡地には「東京ミッドタウン日比谷」が建っている。建物が変わっただけでなく、日比谷の街の様子も変容した。欧米人の姿よりも一般の日本人が多く行きかっている。これがいいことなのかどうかは分からない。ただ、銀座も日比谷も鎌倉もにぎやかな街並みとなり大衆化することで、街の個性が失われたことだけは確かである。
 さて、「人生の出発点」に続くのは「人生の基盤構築」である。それは私の場合、20歳~25歳の時期にあたる。人生というものの普遍性を考えるとき、筆者個人の体験を検証することにも多少の意味があると思えるので、いずれ稿を改めてみたい。
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人生の出発点が蘇る瞬間~私の場合

2023年11月05日 | 随想
「人生の出発点」は、18歳。羽田空港。
 日本復興の象徴「東京オリンピック」を前にして社会全体が湧きたっていた。東海道新幹線や高速道路の開通、ホテルをはじめ商業施設の建築ラッシュ、高度経済成長期へ突入する勢いがあった。しかし、どんな時代でも身分格差や所得格差はつきものだ。家庭の経済的事情で、実業高校から社会へ旅立つ者も少なくなかった。私もその一人だったが、「敷かれたレール」の上を歩くのがイヤで、日本の企業ではなく外資系の会社にもぐりこんだ。能力主義で学歴の差別がないことと、何よりも給料がよかった。1ドル=360円の固定相場制の時代で、旧財閥系大手銀行勤務となった友人の倍近い額だった。
 職場は羽田空港の一角、英国海外航空会社(BOAC/現在は英国航空BA)の貨物課。仕事は搭載係、A/B/C3シフト制のいわゆる肉体労働である。小型のジェット機Cometや大型機707が舞い降り飛び立っていく間に貨物・旅客の荷物・郵便物の積み下ろし/積み込みを行うのだ。成田空港は無く羽田は東京国際空港として外国との唯一の窓口だった。旅客の主体は政府要人・会社経営者などで一般人ではない。旅費も高額で大卒月給の10倍ほどだったので、現在のような気軽に海外旅行へなど夢のまた夢であった。
 当時は、浜松町からのモノレール羽田線は京浜急行と提携したおらず、現在のような空港ターミナル直接乗り入れではなかった。したがって、空港関係の労働者は、蒲田駅からバスで羽田空港へ通勤していた。BOAC貨物課は、カンタス航空・インド航空・キャセイパシフィック航空のサービスも一手に引き受けていた。かつて大英帝国の支配下にあった国々だからである。ホノルルや香港から飛来し離陸していく飛行機のサービスは重労働のはずだが、疲労感を覚えた記憶があまりない。若かったからであろう。「明けの仕事」を終えた昼前、空港ビル前の駐車場で撮影されたワンカットが残っている。
 この写真は誰が撮ってプリントを手渡してくれたのか記憶にない。半世紀以上も手元に残っていた画像を見るたびに自分の人生の出発点がここにあるように思える。私の人生の本質と要素がすでにここにあったのだった。
 第一に、「定時外勤務」すなわち朝9時~夕5時の一般的仕事時間帯ではないこと。亡き母が口癖のように『お前は、人が帰ってくる頃に出かけ、人が出かける頃に帰ってくるんだから…』と言っていた通りに、定職に就いた一時期を除いて塾講師を50年近く務めているのである。
 第二は、職場以外のコミュニティに軸足が置かれていること。かつては、高校時代の仲間との演劇活動だった。実際、この写真の頃も、羽田から横須賀の稽古場にとんぼ返りをしていたのだった。
※ブログ記事
公開中「あの日から始まった」 2007/03/27 10:27:28カテゴリー:創作活動 
 第三は第二に直結しているが、人生の核に「演劇」「創作」があること。近年、上演活動にピリオドを打った後は、稽古場に代わる書斎での執筆活動になっている。それ以外のことはそれを成り立たせるためのこれまた大切な時間と活動になっていて、その全体が自分の生活でありその連続が人生になっている。
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