横須賀は、誕生から少年期、そして青春期までを過ごした「わが町」である。諏訪幼稚園、汐入小学校、坂本中学校、横須賀市立商業高等学校の卒業生だが、こと演劇に関しては、大学入学後に活動の最大の拠点となった町だ。劇場は、杮落とし間もない「横須賀市文化会館」。定員1600の大ホールでは、鑑賞団体主催による文学座や民藝の公演の他、いくつもの地域劇団が競い合うように公演を打っていた。今では想像も出来ないほどの熱気に包まれた時代であった。私と仲間が上演した主な作品だけでも次の通りである。
1965年『寒鴨』(真船豊)
1966年『貝殻のうた』(佐野)
1967年『小夜の鈴』(佐野)
1968年『ガラスの動物園』(T.ウィリアムズ)
1969年『対話(佐野)/桃太郎奮戦記(平正夫)』※中ホール
『わが町』(T.ワイルダー)※横須賀劇団合同公演
1970年『セールスマンの死』(A.ミラー)
…
さて、先日、「演劇ユニット 東京ドラマポケット(TDP)」の若き仲間二人が横須賀まで足を運んでくれた。TDPの重鎮、羽賀義博氏が演出する舞台を観に来たのである。
羽賀氏は私の小学校・中学校の後輩に当たり、40年前、合同公演『わが町』(演出・佐野)の際、音響スタッフの一人として出会った。当時彼は大学生で、横須賀の老舗劇団に所属していたのである。現在も羽賀氏は横須賀在住で、横須賀における演劇活動の活性化を願っており、今回、「横須賀市民劇場プロジェクト」なる組織をかつての仲間と立ち上げ、別役戯曲『はるなつあきふゆ』の上演に漕ぎつけたのであった。
2時間ほどの舞台は上出来だった。特に、彼の専門である照明はさすがで、季節の移ろいと人生の一こま一こまが品のよい情感によって映し出されていた。
小高い丘に建つ劇場を後にして、私と若き仲間H君とYさんは、平坂と呼ばれる坂を下って繁華街に出た。せっかく遠くからわが横須賀へやってきてくれたのだから、ここは一席設けなければならない。そこで、路地裏にある一軒の居酒屋へ案内した。40年前に‘佐野一派’が通い詰めた店である。さすがに主人は代替わりしていたが、「直八」という看板と店は昔のまま残っている。私たち三人は、その日の舞台をめぐって語り合い、楽しい時間を過ごした。
※写真上は、公演のチラシ。写真中は、横須賀市文化会館玄関前。写真下は、居酒屋にて。
1965年『寒鴨』(真船豊)
1966年『貝殻のうた』(佐野)
1967年『小夜の鈴』(佐野)
1968年『ガラスの動物園』(T.ウィリアムズ)
1969年『対話(佐野)/桃太郎奮戦記(平正夫)』※中ホール
『わが町』(T.ワイルダー)※横須賀劇団合同公演
1970年『セールスマンの死』(A.ミラー)
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さて、先日、「演劇ユニット 東京ドラマポケット(TDP)」の若き仲間二人が横須賀まで足を運んでくれた。TDPの重鎮、羽賀義博氏が演出する舞台を観に来たのである。
羽賀氏は私の小学校・中学校の後輩に当たり、40年前、合同公演『わが町』(演出・佐野)の際、音響スタッフの一人として出会った。当時彼は大学生で、横須賀の老舗劇団に所属していたのである。現在も羽賀氏は横須賀在住で、横須賀における演劇活動の活性化を願っており、今回、「横須賀市民劇場プロジェクト」なる組織をかつての仲間と立ち上げ、別役戯曲『はるなつあきふゆ』の上演に漕ぎつけたのであった。
2時間ほどの舞台は上出来だった。特に、彼の専門である照明はさすがで、季節の移ろいと人生の一こま一こまが品のよい情感によって映し出されていた。
小高い丘に建つ劇場を後にして、私と若き仲間H君とYさんは、平坂と呼ばれる坂を下って繁華街に出た。せっかく遠くからわが横須賀へやってきてくれたのだから、ここは一席設けなければならない。そこで、路地裏にある一軒の居酒屋へ案内した。40年前に‘佐野一派’が通い詰めた店である。さすがに主人は代替わりしていたが、「直八」という看板と店は昔のまま残っている。私たち三人は、その日の舞台をめぐって語り合い、楽しい時間を過ごした。
※写真上は、公演のチラシ。写真中は、横須賀市文化会館玄関前。写真下は、居酒屋にて。