劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

俳優芸術の復活は夢なのか(終)

2015年02月10日 | 演劇
 「三人目」は、マリア・カザレス。スペイン生まれの女優で、第二次世界大戦下の名画『天井桟敷の人々』をはじめ、『パルムの僧院』『オルフェ』などフランス映画に出演している。私は映画に精通しているわけではないので、「その時」までこの女優に意識が及んだことはなかった。
 大学時代、フランス演劇の安藤信敏先生(翻訳家・演出家/安堂信也)の授業、西洋演劇史ではなく演出研究だったと思う、でジャン・ヴィラールの存在を知った。TNP(国立民衆劇場)の主宰者で、シャイ法皇宮を劇場として用い「民衆演劇」を提唱し実践した演出家で、<アビニオン演劇祭>の創始者でもある。私は演劇・劇場・観客の関係に強い関心があったため、その名は印象に残った。
 ある日のこと、そのヴィラール演出の舞台記録映画が<国立近代美術館フィルムセンター>で上映されるという。演劇科で同期だったO君(フィルムセンターが勤務先だった?)が教えてくれたのだと記憶しているが、文学部の掲示板にポスターなどが貼られていたのを見たのかもしれない。
 そして、西洋のドラマを西洋人が演じる深さと必然性を突き付けられる「その時」が訪れる。その舞台の実写映像は、舞台下手側から撮影されていた。マリア・カザレス演じるマクベス夫人の有名な「夢遊の場」(第五幕第一場)である。夫を国王暗殺に走らせた罪意識のため発狂し、医者と侍女の見つめる中、蝋燭を手に登場する。
・・・・・・・・・
医師 なにをしておられるのだろう? おお、手をこすりあわせておいでだ。
侍女 いつもなさることです、まるで手をお洗いになるように、あのように十五分もおつづけになることもあります。
マクベス夫人 まだここに、しみが。
(中略)
       消えておしまい、忌まわしいしみ! 消えろというのに!―― 一つ、二つ。…―― それにしても思いもよらなかった、あの老人にあれほどの血があろうとは。
(中略)
       まだ血の臭いがする。アラビアじゅうの香料をふりかけてもこの小さな手のいやな臭いは消えはしまい。 ああ、ああ、ああ!
・・・・・・・・・(翻訳:小田島雄志『シェイクスピア全集Ⅱ』白水社)
  マリア・カザレス演じるマクベス夫人は天を見つめたまま手だけこすり合わせている。大きく開かれた目からは大粒の涙が一筋二筋頬に伝わるが、感情によって台詞が乱れることはない。すっくと立つ姿勢が美しい。私は「本物」に出会った衝撃に打ちのめされた。キリスト教における「原罪」に打ち震える人間がそこにある!神を畏れ、罪におののく人物が見事に現出されていたからだ。
 これは日本人には無理である。長くしかも精神文化の根底に流れている宗教観を滲み出すことはできない。上っ面をなぞってみても、それは真似ごとの演技表現でしかない。日本を代表する俳優の一人、森繁久彌が『屋根の上のヴァイオリン弾き』の主役を演じたことがある。ユダヤ人一家の長として、天に向かって『神さま~!』と呼び掛ける。客席にいて(あ、これはダメだ)と思った。日本人のセリフは、いわゆる「神さま、仏さま」になってしまうからだ。決して俳優の演技力が浅いためではない。また、女優として声優として名を成した岸田今日子がマクベス夫人を演じた舞台も、本質的に同じ結果になっていた。夫以上に権力欲に燃えていた女が罪の報いにうろたえジタバタするのである。そこに「因果応報」はあっても「原罪」の影さえない。
 
 『舞台俳優の演技は、かつて芸術だった。その身体性と内面から醸し出される実在感は観客を惹きつけてやまなかった。』と書き始めたこの小文で挙げた三人の俳優は、歌舞伎、新劇、海外の演劇とジャンルは異なるが、それぞれを代表する演技者と言える。滝沢修以外は生の舞台でなく映像記録で接したわけだが、その感動は褪せることなく今も深く残っている。

参考:「ヴィラール 演劇の事典」渡辺 淳/訳(一九七六年・テアトロ刊)
《TNP》』についての映画(P213)
●『《TNP》』、一六ミリ、黒白、トーキー(フランス語)、二〇分。《TNP》(シャイヨ)における、ジャン・ヴィラールの指導する『ドン・ジュアン』の一場面の稽古風景と、ジェヌピリエ、次いでアビニオンの法皇宮中庭における《TNP》、すなわち、『マクベス』(マリア・カザレス)※1954年と『ホングルク公子』(ジェラール・フィリップ)の一場面の演技を収める。《フランス国営ラジオ・テレビ放送局》(パリ)による(非商業的)配給。※は、筆者による。

☆写真は、ネット公開による映画のポスターおよびスチールで、上記のマクベス夫人役のものではない。


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