劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

自分だけが生み出せる世界を

2006年12月24日 | 神奈川総合高校
 19歳の頃、銀座の貿易会社に勤めながら、私は生きる意味を掴めずにもがいていた。当然のことながら、自分など足元にも及ばないほど語学の出来る社員が大勢いた。自分の存在価値って何だ?取り柄の無い高卒のサラリーマンとして、これから一生通勤電車に乗り続けるべきなのだろうか?「自分にしか出来ないこと」って無いのだろうか?幸運にも、それを考え、自分を見つめる時間を持つことが出来た。21歳から25歳までの大学での4年間だった。(ブログ記事メニュー「随想」の中の「デリケート・バランス(上/中)」に詳述)
 60歳を越えた現在も、私は収入を他で得ながら演劇という仕事(生計とは別立ての)を続けている。その生活パターンは学生時代と変わらないが、変わったことと言えば、作る芝居のレベルが少し上がったことと、アルバイトが牛乳配達員から掛け持ちの非常勤講師に変わったことぐらいである。「自分にしか出来ないこと」「自分だけが創り出せる世界」それを求め続けていることに変わりは無い。
 さて、大学を出て38年、体力的には年相応になってきているが、人間、気だけは若いものである。自分と同じ「創造に夢をかける」若い人たちの活動には「アンテナ」が直ぐ反応する。先日、昼は東京、夜は横浜を会場とする「創作発表」に足を運んだ。
 神奈川総合高校出身のKS嬢からの案内ハガキを手に、丸ノ内線・中野坂上駅に降り立った。東京工芸大学映像学科映像造形研究室三年「進級制作展」(12.15-16/東京工芸大学中野キャンパス・芸術情報館)を見て回る。動くアニメーション、飛び出す映像(備え付けのメガネ使用)、オブジェと照明によるディスプレイ、モニター上に展開するゲーム、映像とサウンド(ヘッドフォン使用)による作品など、若者の創作意欲に素直に感動した。このような世界があることは知っていたが、目の当たりにしてみて改めて面白いと思った。KS嬢と大学内のピロティ(1F)で缶コーヒーを飲みながら「創作への夢」を語りあった後、横浜へ向かった。
 JR関内駅から5分、横浜・創造界隈ZAIM(写真)に着く。やはり神奈川総合高校出身で、舞台美術家として活躍中のAT君がスタッフとして参加している「AAPA+『アウェイ街区―Away at Quadro』」公演だ。古色蒼然たる建物の外見、一歩足を踏み入れると、芸術の雰囲気に包まれる建物内部、発表会場の工夫された空間設定、照明効果。…二人のダンサーによるゆったりとした世界、ソロダンスの鋭く激しい身体の耀き、優しく語り掛けるようなジャズのサウンド…。あっという間の2時間ほどが過ぎ、ロビーに出演者たちが出てきた。コンテンポラリーダンスのNM嬢とSY嬢、小編成バンドのヴォーカルTR嬢も、神奈川総合高校在学当時、舞台系科目の教師だった私とは顔馴染である。楽しくも嬉しい再会となった。
 かつて、教師と生徒という立場で出会った私と彼・彼女たちだが、今は創造活動を通して「自分だけが生み出せる世界」を実現しようとする者同士である。近い将来、一つのプロジェクトの基に集い、共に舞台作品を創造する仲間となること、そんな嬉しいことを夢想した一日となった。



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溝口健二、創造へのスタンス

2006年12月10日 | 慶應義塾大学
 今、慶應義塾大学で、日本映画の巨匠の一人、溝口健二監督の映画作りについて話をしている。没後50年に当たる2006年に私が授業で取り上げることになったのはまったくの偶然である。しかし、映像資料など教材を準備する中で、彼の映画作り特に俳優やスタッフとの協働作業におけるスタンスのとり方を知り、深い共感を覚えた。映画と舞台でフィールドは異なっているし、あちらは「世界のミゾグチ」、こちらはまったくの無名の存在なので、口にするのもおこがましいが、同じ演出をする立場の者として、このタイミングに「巨匠の仕事」に出会えたことに或る縁(えにし)のようなものを感じているのも事実だ。
 「1シーン1カット・長回し(ロングテイク)、とアップの少なさ(ロングショット)、クレーン俯瞰撮影、移動撮影」そうした撮影技法に興味があるのではなく、映画監督としての創造に対する姿勢に惹かれたのである。全てのカメラワークはあくまでも結果的なものであって、それ自体に価値があるのではない。溝口も「ロングテイク」に触れ、『ひとつの構図の動きの中で、人間の心理が盛り上がってくる。そいつを、カットして、ぽつんと切るのが惜しくなるんだ。そのまま押せるだけ押して行きたい。それが、ああいう手法になったんで、特に意識したり、奇をてらったりしたわけではじゃない』と語っている。創りたい世界が先ずある。人物に対する徹底したリアリティの追求と、場面における美意識の貫徹とその実現。その結果として「手法」が編み出され、溝口健二の仕事が生まれたに違いない。
 言うまでもなく映画は集団創作である。監督一人が闇雲に突っ走っても、作品は生まれない。溝口健二は、俳優やスタッフとの協働作業にあたって彼らをプロ扱いした。撮影は、名カメラマンの宮川一夫に任せる。もちろん打合せは綿密に行い、カメラの傍に座るのだが、自らはファインダーをのぞくことはしなかった。だが、スタッフに信頼を寄せているからといって、厳しい注文はつけるし『ダメです、ダメです』と言って安易な妥協はけっしてしない。特に役者の場合、監督が『違います、違います』を連発するので、『じゃあどうすればいいんですか?』と聞くと、『あなたは役者でしょう。それで給料をもらってるんでしょう。自分で考えなさい』と答える。けっして自分から『こうしなさい』と指示はしない。これは、演出家として彼らに仕事を丸投げしているのではなく、一個の創造者としてプロ扱いしているのである。俳優やスタッフ自身の想像力と実践によって、監督のイメージを作り出してもらおうという態度である。もし指示したり教えたりしたら「陳腐なもの」「真似ごと」程度のものになってしまい、新鮮な表現やリアリティは生まれないということを溝口は知っていたのである。特に役者には厳しく『違います、違います。芝居をまるごとつかんでください。反射してください』と追い込んでいき、役者がもはや「演技」ではなく「人物の限界状況」に入った時、OKが出て、『では、本番いきましょう』となるのである。溝口組の現場は、映画作りの熱気にあふれ常に緊迫しており、その雰囲気を壊したくなくて、溝口はセットから出ようとしない。用を足すための尿瓶まで用意したそうである。
 私はこの創造方法に、映画というよりも芝居に近いものを感じる。俳優を映像の1被写体としてでなく、人物の作り手として接し、その演技の到達点を画面全体の中に写し込んだからである。若き日の溝口が1920年に入社した日活向島撮影所は新派劇映画専門の撮影所で、その経歴を考え合わせてみれば、さらに溝口映画における演劇の要素が色濃く感じられるだろう。
 『雨月物語』(1953)『山椒太夫』・『近松物語』(1954)がヨーロッパの監督たちを今なお惹きつけてやまない理由に、その「映像美」が挙げられている。絵巻物や墨絵など日本の美意識がその傑作の底流に流れているからこそ、日本独自の文化が映像に表れ、外国人を魅了すると言われる。なるほどと思う。ただ、私の関心の赴くところは、あくまでも溝口健二監督の「創造へのスタンス」なのである。


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