劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

むかし落伍者、いま先駆者~ダウンシフターの私③

2014年06月03日 | 随想
 私は「再出発」にあたり、自分を生かす職場としてテレビ局を選ぼうとしていた。それもNHKと決めていた。なぜなら、受験期に経済的に余裕のなかった私を物心両面でサポートしてくださった方が農事部に在職されていたこと、そして、演劇科の先輩和田勉氏が脚光を浴びていて、実習公演(いわゆる卒業公演)のパンフレット原稿を戴いた後、放送センターから渋谷駅までのタクシー内で会話したことなど縁があったからだが、草創期のテレビ界が芸術的なドラマを次々と生み出していたことに魅力を感じていたことも影響した。
 いざNHK演出部へと動き始めた途端、私は門前払いされた。理由は年齢制限、受験資格は満24歳までだという。高卒後3年間社会に出た者は対象外ということ。今でも変てこりんな会長が政府の後ろ盾のお蔭で君臨しているようだから、その官僚的・権力的な組織的体質は変わっていないのだろうが、その時は正直一瞬目標を失った気分になった。私は四年間親しくご指導くださった河竹登志夫先生の研究室のドアをノックした。そこで、偶然居合わせた卒業生(NHK局員)に先生が言葉をかけてくださった。『試験だけでも、受けさせてあげられないかね』『…どうもこればかりは規定なので』―そのやりとりを聞いていて、諦めがついた。
 私は何事にも楽観的な母の性質を受け継いだのか、切り替えは早いほうだった。演出の仕事で生活できる放送局がダメなら、生活はできなくても舞台をこれまで通り続けよう!これは縁であり、自分にとって天命なのだ。映像ではなく演劇を選ぶ、組織の庇護によるのではなくアルバイトで生計を立てる。私は卒業後も早朝3時間の牛乳配達を続け、残りの時間を演劇制作活動に充てた。定職に就いた時期もあるが、充分な公演活動ができないため、初めは英語の非常勤講師を掛け持ちし、その後正規の授業として演劇科目が高校・大学に広がっていく中で、演劇講師の職を得たりしながら、数十年過ごしてきた。薄給で身分保障のない臨時教員でも、生徒に対する責任の重さは変わらない。今年の3月で「演劇教育の現場」から去ることになって初めて、その責任から解放される同時に、自分ひとりの時間を持てるようになった。これからは、劇作を中心とした創作活動に専心しようと思う。
 ダウンシフターは、会社組織に属しその過重労働や経済的安定から降りて、ゆったりした時間の中でストレスの少ない生活を選ぶ人たちだとすれば、私はそもそも「シフト」に属さないことで生きようとした人間なので、その青年たちとは異なるのだろう。生き方の多様化が認知される時代になって、ダウンシフターにも市民権が与えられることは喜ばしい。かつて世間の「落伍者」だった私は今や時流に乗った「先駆者」―とも言えないのは、人生のスタート時点において、マジョリティよりマイノリティに、迎合の多数より孤高の少数に身を置きたかったからである。
 大学時代、劇団文化座・民藝の『炎の人―ゴッホ小伝』を観て打ちのめされた。作者三好十郎に「芸術に生きる厳しさ」を突き付けられた思いだった。「生きるとは、食べること以上の何かである」―45年以上経過して、『恥ずかしくないか』と今でも自問自答している。

 ※写真上は、臨時教員を18年務めた横浜市立南高等学校時代。写真中は、日本橋女学館高等学校で親しくして戴いた方たちによるお別れ会。写真下は、馬込サロンを来訪されお祝いしてくださった文学座企画事業部・演出部の友人たち。


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