劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「痛み」のことばが「歌」を生む(終)

2024年07月02日 | 創作活動
 年の瀬、祖父母・両親・孫たち三世代が茶の間に集まりテレビを見て楽しむ。視聴率80%前後のその国民的行事「紅白歌合戦」は10年ほどで衰退してゆく。高度経済成長期に入り、老親は田舎に残り親たちは子供とともに都会で生活し始める。大家族は崩壊し、核家族が一般的になる。祭りなどの年中行事や共同体から抜けて、「隣は何をする人ぞ」のアパートやマンションにそれぞれが閉じこもる。
 孤立し何かに追われるような社会風潮が広まり、人と人とのつながりがバラバラになったことで、世代ごとに歌のジャンルも多様化していった。学生運動のうねりはフォークソングを生み、時代への異議申し立てはロックンロールを、内面の孤独はニューミュージックを生み出していった。また、アイドルやグループサウンズに夢中になる若者も増えていった。
 昭和歌謡の場合、聴く者はその詞に描かれた世界や主人公の悲哀を共有するのだが、それ以後のJ-POPというジャンルは、歌手本人のメッセージや情景に共感しながら自分をオーヴァーラップさせる。旧世代は一人ひとりが歌の世界にじっくり向き合うのに対して、新世代はファンが一体となってコンサート会場を埋め尽くしペンライトを振る。こうして、「歌」のジャンルも楽しむあり方も世代によってまちまちになったのである。
 さて、最近、「昭和歌謡がいま熱い」などというキャッチフレーズを番組表で見かけるようになった。時代遅れのはずの歌謡曲・演歌がテレビ画面から消えないのは、高齢化社会に浸透しているためなのか、演歌に関わる制作会社・作詞家・作曲家・歌手の生活が懸かっているからなのか、おそらくその両方なのだろう。しかし、旧世代の私はこれらの番組を見ない、パスしている。なぜか。そこには「痛み」のことばは内在しておらず、「歌としての真実」がどこにもないからである。新世代の歌い手たちが<自分なりに歌ってみせている>だけなのだ。
 昭和歌謡は過去のもので、オリジナル曲に命を吹き込んだ歌手たちの多くは他界している。したがって、令和の出演者たちはそれらを「カヴァー曲」として歌うことになる。いくら歌が上手くても、個性的な世界を持っていても、オリジナル歌手の「ことば」にはならないので、空疎で表面的な歌になってしまうのだ。ここには「歌」というものに対する根本的な認識が欠落している。
 歌は心の叫びである。詞と曲を通した歌い手の内面の爆発なのだ。そこには<自分だけしか歌えない>という熱い自負が充満している。無名の歌手、売れない歌手、新人歌手は、デビューまでの下積み生活が長い。昭和歌謡の場合、作曲家の邸宅に間借りして身の回りの世話や運転手、雑用係に数年を費やす場合が多く、その間、歌のレッスンは無い。師匠はじっと弟子の人間性・個性を見つめ続け、ある日、「一曲」を渡す。本人の音域や歌唱の個性ばかりでなく、詞を表現できる内なる言葉があるかどうかを見極めた上でのことだ。その彼(彼女)にしか歌えない歌、その本人だからこそ「歌としての真実」が生まれるレッスンが始められる。
 昭和も後半に入った時期のヒット曲を例に挙げてみる。
 歌手石川さゆりは「花の中三トリオ」の陰に隠れてパッとしなかった。スター街道を走り続ける同世代に置いていかれ挫折感に陥っていたが、「歌で生きる」決意を固め、親子ほど年齢差がある大先輩の門をたたく。歌謡浪曲の二葉百合子を師と仰ぎ、歌唱の基礎から学び直す。舞台に立って歌う際の表現技法を身に着けるために精進を重ねる。
 18歳になった時、コンセプトアルバム『365日恋もよう』<少女から大人の女に成長していく1年間を12曲で描く>が企画発売される。その12曲目が『津軽海峡冬景色』だった。阿久悠がタイトルを先行させ、三木たかしが作曲、それに詞をつけて完成させた曲だった。1年後にシングルカットとなり、大ヒットは第19回レコード大賞をはじめ様々な受賞、第28回紅白歌合戦への初出場をもたらした。
 この『津軽海峡冬景色』をシンガーソングライター・アンジェラ・アキが歌ったことがある。10年前、偶然テレビ番組で視聴して、『あ、カヴァー曲なのに、「歌」になってる』と思った。<他人の歌ではなく、自分の歌になってる>と感じた。アンジェラ・アキは、アメリカ留学のため、2014年に活動を休止している。おそらく自分の音楽に行き詰まりを感じ、新たな世界を切り拓きたかったのではないだろうか。現在は、10年ぶりに再始動、アメリカを拠点にミュージカル作家として活躍中だ。「ポップスは自分の経験から制作するので、主人公が自分の目線なのに対し、ミュージカルは脚本の流れの中で作詞をしていく。アンジェラ・アキという人間を一回忘れて、主人公や登場人物にりきって…」と語っている。
 19歳石川さゆりの紅白歌合戦初出場の時点での歌唱とアンジェラ・アキの活動休止の時点での弾き語りが「歌としての真実」にあふれていた根幹には何があったのか。本人にとって抜き差しならない状況下にありながら、歌の世界を自分のことばとして歌い上げた。その内面の奥底には「抱えていた痛み」と「歌への愛と希望」があったに違いない。私にはそう思える。
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「痛み」のことばが「歌」を生む⑶

2024年06月06日 | 創作活動
 1963(昭和38)年第14回「NHK紅白歌合戦」の視聴率81.4%という驚異的な数字が2023(令和5)年第74回では29.0%に<大暴落>した。その原因は一つではなく幾つかの要因が複合的に重なり合った結果だが、高度経済成長期による社会変動とそれに伴う日本人の日常生活および精神の変容が主因である。
 60年前は東京オリンピックの開催年、白黒テレビがカラー受像機に変わる時期だったのだが、それを購入できないでいる国民もいたことを考えると、「81.4%」という数字はまさに年末の国民的行事に違いなかった。師走の慌ただしさを乗り越えた大晦日、夜9時になると家族全員がお茶の間に集まりテレビの画面を食い入るように見つめる。紅組・白組の歌手たちの晴れ姿、一世一代の歌唱に老いも若きも引き込まれ、『いい歌だ』『新人だがうまいね』『流しを5年やってデビューしたんだって』『やっぱりトリを取るだけあって流石だね』…気が付くと番組は「ゆく年くる年」に変わり、永平寺の除夜の鐘の響き、にぎわう境内、明治神宮の初詣へとカメラは切り替わる。
 出稼ぎに出ていた男手たちも正月だけは田舎の家に帰り、老親や妻子と三が日だけは過ごそうとした。「盆暮れ」すなわちお盆は先祖の霊を迎え、正月は一年の計を立てるために家族全員が顔を合わせる習わしだった。それが高度経済成長期に崩れ始める。新幹線・高速道路網の整備に伴う土木工事、ホテル・デパートなどの商業施設や公共団地の建築ラッシュ、大都会は男手ばかりでなく女手まで必要としていた。地方都市から大都市への人口流失は必然的だった。経済面ばかりではなく、流行の先端を走るきらびやかな文化に若者たちは憧れ、子供の将来を決定づける充実した教育環境に親たちは目の色を変えた。大学受験では遅い、中学・高校受験から始めなければ…小学生のための受験塾が雨後のタケノコのように現れ始める。親子が遊べる遊園地・レジャー施設・テーマパークの登場…。
 生産活動・消費活動を満足させてくれる都会、「子どものため」というお墨付きを得た若い親たち。地方から転出する家族を止めようがない。故郷には地方公務員や教育従事者が残り、寺の跡取り息子が兼業農家を続ける。大家族だった一家はバラバラになり、多くは東京・大阪・名古屋などで核家族を形成し老親だけは残り墓守をする。もはや三世代同居、老いも若きも子供たちまでもが一体となって「紅白歌合戦」に夢中になることは<ゆめまぼろし>となっていた。
 かつて大人たちが買っていたレコードはターンテーブルの上で回ったが、やがて音源はカセットデッキ、CDプレイヤーに挿入されるようになり、購買層も若者中心になっていった。当然、音楽制作もその潮流に乗った内容と形式になる。昭和歌謡の時代は、「〇〇〇〇ショー」と歌手名を入れたタイトルの興行だった。今や、ショーはコンサートに変わり、歌手はアーティストと呼ばれる風潮となっている。歌謡曲の詞やメロディーは時代遅れとなり、レコード会社専属という雇用形式から才能ある新人との契約・マネジメントによって、時代と若者の心情にフィットした音楽が売り出されてゆく。ロックンロール・ジャズ・フォークソング・ニューミュージック…とジャンルも多様化する。
 故郷を離れ都会で暮らしていても家族や田舎との絆が生きていた時代は、「望郷」「母への思い」「恋人への慕情」「都会暮らしの哀感」…の詞はリアリティがあったが、その実態を失った社会変化によってそれらは色あせたものになった。しかし、「孤独」「痛み」は人間が生きている以上消えることはない。平成・令和でも時代に内在している虚しさ・悲しみ・叫び、その反転作用としてのアイドル志向へ変容しているだけなのだ。
 ただ不思議なことに、時代遅れとなったはずの「歌謡曲・演歌」がしぶとく生き残っている。一つには高齢者(筆者も含めて)にとって<青春>は60年前で、旧友たちと会えば決まって歌うのは「昭和歌謡」になる。少子高齢化社会では、われら老人たちが人口のマジョリティを占めているので、カラオケリクエスト曲ナンバーもそれに対応している。したがって、作詞家・作曲家の先生方の著作権使用料は相当なものだと思われる。
 「歌謡曲・演歌」がいまも制作され、テレビ番組にも生き残っているのはなぜか。併せて「カヴァー曲」の問題、「自分自身の痛みによる歌唱」についても考えてみたい。
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「痛み」のことばが「歌」を生む⑵

2024年05月08日 | 創作活動
 貧困はいつの時代にもあるが、経済的困窮と心の貧しさは一体のものではない。(前述の通り)目指すものや自分のなすべきことのために<おでん種を売り歩いたり><質屋に住み込み奉公をしたりする>青年、彼らに理解を示し手を差し伸べる周囲の大人、そこには心の豊かさがあった。
 なぜか。米軍による空襲・無差別攻撃によって焦土と化した国土。敗戦がもたらした<衣食住>という生きる基盤の確保に必死だった時代。「ゼロからのスタート」は国民全体が共有していた状況だった。だからこそ、「痛み」を分かち合い、希望を明日に託す思いが漲(みなぎ)っていたのだ。
 敗戦から10年ほど経つと、朝鮮戦争による軍需景気をきっかけに経済復興期を迎え、ラジオに加えてテレビ放送が各家庭に浸透していった。やがて年末の国民的行事ともなった「NHK紅白歌合戦」が定着する。その年にヒットした流行歌が「紅組/白組」に分かれて熱唱されるのだが、この「檜舞台」に立つことが歌手たちにとってのステイタスであり、視聴者のファンにとってもテレビ画面にくぎ付けになる時間なのであった。
 時代は、中学生の集団就職や出稼ぎ労働者、跡継ぎになれない次男・三男などが地方から大都会へ流入し、孤独をかみしめていた頃だった。「望郷」「母への思い」「恋人への慕情」「都会暮らしの哀感」…作詞家・作曲家はそうした心情をすくい上げ、歌手もそれを自分の言葉として歌い上げた。つまり、スタッフ(レコード会社・プロデューサー・ディレクター/作詞家・作曲家)、出演者(歌手・バンド・司会者)、そして視聴者(興行の場合は、観客)が世の中に取り残される「痛み」を共有し共振していたといえる。
 昭和が終わり平成となり、そして、令和となった今、「NHK紅白歌合戦」の視聴率は激変している(80%⇒30%)。その社会的背景・時代と大衆音楽・制作態勢・カヴァー曲の問題・自分の「痛み」などについて考えてみたい。
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「痛み」のことばが「歌」を生む⑴

2024年04月07日 | 創作活動
 私たちは、当たり障りのない言葉によって生きている。世間において、自分を護るために相手と摩擦を起こさないためにその場を保つために、表面的なコミュニケーションに必要な言葉を選んで暮らしている。本心から出た言葉は重かったり棘(とげ)があったりさえするので、日常生活を営む上で忌避されるのかもしれない。だが、無難で表面的な言葉は軽いために相手の心に届くことはない。相手との距離は縮まらないから自ずと人間関係は希薄なものとなる。
今は廃刊となった隔月刊誌に「痛み」のことばについて書いたことがある。

 …沖縄に「チムチャイサン」「チムグリサン」という方言があるが、「肝痛い」「肝苦しい」に由来し、ともに「かわいそうだ」を表す言葉だそうだ。筆者は、数十年前テレビドラマで耳にした「チムグリ…」が忘れられない。自分の内臓が痛む感覚、相手の辛い状態と一体になった人物の心の痛みまで伝わってきたものである。もしこれが共通語の「かわいそうね…」というセリフだったら、上っ面の同情表現で終わってしまう。
生徒たちに、相手のことを我がことのように思える他者への共感や人物の置かれた状況を多角的・多元的にとらえる複眼的思考を育むことができたら、文学の読解能力は飛躍的に伸びることだろう…「特集 文学を教えるということ(『文学』2014 9,10月号 149ページ/岩波書店)」

 お互いの気持ちを通わせ共感し合える言葉があってこそ人間は繋がり、社会に優しさと潤いが生まれるはずだ。わが国の現状はこれと真逆である。希薄な人間関係が広がりお互いの内面には無関心に―いやむしろそれを望んでいるかのようだ。しかしながら、人間は社会的動物、一人では生きていけない。もし自分だけが孤立していると感じたら、「だれかと繋がりたい」という衝動が突き上げてくる。それが果たせなくて<八方塞がり>の状況に陥ると、「事件」を起こす。自分という存在に気付いてもらいたくて<無差別殺人>などを犯してしまう。そこに「他者という存在への想像力」は微塵もない。

 「相手のことを我がことのように思える他者への共感」を私たちが失って久しい。少なくとも戦後から1970年代までそれは確かにあった。筆者の大学進学も身内ではない方の援助によるものだったし、小説家山本周五郎のペンネームの由来、映画監督山田洋次の『男はつらいよ』マドンナのモデル、そこには恩人がいたのだ。※幸せのBASE「心技体」~心③(終)2023/03/01 06:24:10カテゴリー:随想
 小説も映画も創作者の「核」から生み出される「ことば」である。苦境における心の痛みとそれをエネルギーにかえさせてくれた他者の存在に向けての「歌」でもある。昭和が終わり、平成・令和と時代が下るにつれ、その「歌」が徐々に薄れ消えていった。それに伴い、文字通りの《歌》、世間に流れている歌も、作詞・作曲・歌唱の全てにおいて変容していった。その実態と社会的背景について、また、今後の課題についても考えていきたい。
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人生の基盤構築~私の場合(後)

2024年03月07日 | 随想
 高校卒業後、少しでも収入が良く自分の可能性を拓くような職場を求めて二度転職した結果、当時は贅沢だった大学進学に舵を切ることになった。入学費用はこの苦学生に差し伸べられた手にすがり、学費は日本育英会の奨学金で、(食・住以外の)毎月の生活費は種々のアルバイトで賄った。
 1960年代後半、世界は冷戦下における戦争と社会変革の嵐が吹き荒れていた。日本国内では<ベトナムに平和を、市民連合!>のデモが知識人を中心に繰り広げられていたし、大学構内では「学費学館闘争」を旗印に大学当局への異議申し立てが叫ばれ、立看板とバリケードが林立していた。
 「この時代をどう生きるか、自分はどうあるべきか」―この時代思潮は当然のごとく芸術にも変化をもたらし、文学・美術・音楽は既成の表現とは全く別の手法が追求された。演劇においても古典劇・近代劇の構造を破壊し、戯曲形式も演技表現もこれまでに無かったものが生み出されていった。創造側に立つ舞台人も客席に座る観客も双方が求めていたからである。時代思潮のうねりは政治意識を高揚させ芸術文化を鋭く刺激した反面、その陰りと衰退がやがて「時代の傷」をもたらすことになる。
 入学した時点で21歳だった私に比べて同期生の多くは18歳であった。3年間の社会経験の有無は若者にとって大きい。私には彼らが“こども”に見えたし、彼らには私は“オジサン”に映ったようだ。文学部キャンパス181教室で行われた1年生自主公演『黄金の椅子』と文学部最後の4年生実習公演『芍薬の系譜』(大隈講堂)の両方で私はまとめ役や舞台監督を任されることになった。
 社会人となるまでの4年間が青春を謳歌する時期だった同期生と、3年の間世の中をさまよった私とでは大学生活は異なっていた。受験勉強とは縁のない商業高校時代、クラブ活動などを通じて一生付き合える友人がすでにいた私は、まさに大学における学問修得と「自分の道」に欠かせない新たな出会いを求めていた。教室で受けた授業では「哲学」「歴史学」「生物学」などの一般教育科目が心に残った。また、交流の深かった先生は「比較演劇論」の河竹登志夫(俊雄)先生と「演出研究」の安堂信也(安藤信敏)先生、当時助手を務められていた大島勉氏「『実験演劇論(グロトフスキ著)』などの翻訳」、そして演劇博物館学芸員の平正夫氏で、卒業後も長くお付き合いを頂いた。また、女優山本安英と劇作家木下順二が主宰する「ことばの勉強会」(本郷YWCA会議室)にも毎回通ってゲストとの対談に耳を傾けた。この4年間、大学構内で過ごした時間はごく一部で、あらゆるジャンルの芝居を観て回った。最先端の小劇場・テント小屋などのアンダーグラウンド演劇や野外演劇、3大劇団をはじめとする新劇、ミュージカルやオペラ、能狂言や歌舞伎の伝統演劇、映画、寄席にかかる話芸…。
 同時に、東京から離れた横須賀では自立劇団を率いて公演の準備と上演に明け暮れ、早朝の牛乳配達を終えて、鎌倉の住まいから早稲田の授業へ駆けつける日々だった。横須賀文化会館での第一回公演には真船豊の戯曲『寒鴨』を取り上げた。続く二回目に新作の必要性を感じ、大江健三郎の『ヒロシマノート』にあったエピソードを脚本化・上演してみたが、創作力不足は否めなかった。そこで、プロの指導を仰ぐべく池袋の戯曲教室(演劇教育の冨田博之氏・主宰)に通った。講師は大橋喜一・宮本研という売り出し中の劇作家だった。大橋さんは劇団民藝に所属し代表作『ゼロの記録』を発表していたし、研さんは『ザ・パイロット』や『美しきものの伝説』を俳優座・変身・文学座に提供していた。授業外でもお二人にお世話になった。大橋さんは民藝の稽古場に連れて行ってくださったし、研さんは下落合の自宅で私の脚本のダメ出しをしてくださったのである。
 大学卒業後、横須賀自立劇団の合同公演『わが町』(T.ワイルダー作)の演出を引き受けた。就職を一年延ばし牛乳配達をしながらの活動となったが、それまでの自分の総決算のつもりで取り組んだ。

横須賀での演劇上演の実践活動を軸に、東京での大学における学び、劇場通いによる毎月の観劇体験、演劇人・学者・先輩との交流、これら全てが私の「人生の基盤構築」の要素になったことは疑いない。一般社会から離れた大学生としての4年間がいかに貴重なものだったか。それを支え実現させた母や恩人について、また昭和という時代についてはいずれ書くことにしたい。
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