劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「痛み」のことばが「歌」を生む⑶

2024年06月06日 | 創作活動
 1963(昭和38)年第14回「NHK紅白歌合戦」の視聴率81.4%という驚異的な数字が2023(令和5)年第74回では29.0%に<大暴落>した。その原因は一つではなく幾つかの要因が複合的に重なり合った結果だが、高度経済成長期による社会変動とそれに伴う日本人の日常生活および精神の変容が主因である。
 60年前は東京オリンピックの開催年、白黒テレビがカラー受像機に変わる時期だったのだが、それを購入できないでいる国民もいたことを考えると、「81.4%」という数字はまさに年末の国民的行事に違いなかった。師走の慌ただしさを乗り越えた大晦日、夜9時になると家族全員がお茶の間に集まりテレビの画面を食い入るように見つめる。紅組・白組の歌手たちの晴れ姿、一世一代の歌唱に老いも若きも引き込まれ、『いい歌だ』『新人だがうまいね』『流しを5年やってデビューしたんだって』『やっぱりトリを取るだけあって流石だね』…気が付くと番組は「ゆく年くる年」に変わり、永平寺の除夜の鐘の響き、にぎわう境内、明治神宮の初詣へとカメラは切り替わる。
 出稼ぎに出ていた男手たちも正月だけは田舎の家に帰り、老親や妻子と三が日だけは過ごそうとした。「盆暮れ」すなわちお盆は先祖の霊を迎え、正月は一年の計を立てるために家族全員が顔を合わせる習わしだった。それが高度経済成長期に崩れ始める。新幹線・高速道路網の整備に伴う土木工事、ホテル・デパートなどの商業施設や公共団地の建築ラッシュ、大都会は男手ばかりでなく女手まで必要としていた。地方都市から大都市への人口流失は必然的だった。経済面ばかりではなく、流行の先端を走るきらびやかな文化に若者たちは憧れ、子供の将来を決定づける充実した教育環境に親たちは目の色を変えた。大学受験では遅い、中学・高校受験から始めなければ…小学生のための受験塾が雨後のタケノコのように現れ始める。親子が遊べる遊園地・レジャー施設・テーマパークの登場…。
 生産活動・消費活動を満足させてくれる都会、「子どものため」というお墨付きを得た若い親たち。地方から転出する家族を止めようがない。故郷には地方公務員や教育従事者が残り、寺の跡取り息子が兼業農家を続ける。大家族だった一家はバラバラになり、多くは東京・大阪・名古屋などで核家族を形成し老親だけは残り墓守をする。もはや三世代同居、老いも若きも子供たちまでもが一体となって「紅白歌合戦」に夢中になることは<ゆめまぼろし>となっていた。
 かつて大人たちが買っていたレコードはターンテーブルの上で回ったが、やがて音源はカセットデッキ、CDプレイヤーに挿入されるようになり、購買層も若者中心になっていった。当然、音楽制作もその潮流に乗った内容と形式になる。昭和歌謡の時代は、「〇〇〇〇ショー」と歌手名を入れたタイトルの興行だった。今や、ショーはコンサートに変わり、歌手はアーティストと呼ばれる風潮となっている。歌謡曲の詞やメロディーは時代遅れとなり、レコード会社専属という雇用形式から才能ある新人との契約・マネジメントによって、時代と若者の心情にフィットした音楽が売り出されてゆく。ロックンロール・ジャズ・フォークソング・ニューミュージック…とジャンルも多様化する。
 故郷を離れ都会で暮らしていても家族や田舎との絆が生きていた時代は、「望郷」「母への思い」「恋人への慕情」「都会暮らしの哀感」…の詞はリアリティがあったが、その実態を失った社会変化によってそれらは色あせたものになった。しかし、「孤独」「痛み」は人間が生きている以上消えることはない。平成・令和でも時代に内在している虚しさ・悲しみ・叫び、その反転作用としてのアイドル志向へ変容しているだけなのだ。
 ただ不思議なことに、時代遅れとなったはずの「歌謡曲・演歌」がしぶとく生き残っている。一つには高齢者(筆者も含めて)にとって<青春>は60年前で、旧友たちと会えば決まって歌うのは「昭和歌謡」になる。少子高齢化社会では、われら老人たちが人口のマジョリティを占めているので、カラオケリクエスト曲ナンバーもそれに対応している。したがって、作詞家・作曲家の先生方の著作権使用料は相当なものだと思われる。
 「歌謡曲・演歌」がいまも制作され、テレビ番組にも生き残っているのはなぜか。併せて「カヴァー曲」の問題、「自分自身の痛みによる歌唱」についても考えてみたい。
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「痛み」のことばが「歌」を生む⑵

2024年05月08日 | 創作活動
 貧困はいつの時代にもあるが、経済的困窮と心の貧しさは一体のものではない。(前述の通り)目指すものや自分のなすべきことのために<おでん種を売り歩いたり><質屋に住み込み奉公をしたりする>青年、彼らに理解を示し手を差し伸べる周囲の大人、そこには心の豊かさがあった。
 なぜか。米軍による空襲・無差別攻撃によって焦土と化した国土。敗戦がもたらした<衣食住>という生きる基盤の確保に必死だった時代。「ゼロからのスタート」は国民全体が共有していた状況だった。だからこそ、「痛み」を分かち合い、希望を明日に託す思いが漲(みなぎ)っていたのだ。
 敗戦から10年ほど経つと、朝鮮戦争による軍需景気をきっかけに経済復興期を迎え、ラジオに加えてテレビ放送が各家庭に浸透していった。やがて年末の国民的行事ともなった「NHK紅白歌合戦」が定着する。その年にヒットした流行歌が「紅組/白組」に分かれて熱唱されるのだが、この「檜舞台」に立つことが歌手たちにとってのステイタスであり、視聴者のファンにとってもテレビ画面にくぎ付けになる時間なのであった。
 時代は、中学生の集団就職や出稼ぎ労働者、跡継ぎになれない次男・三男などが地方から大都会へ流入し、孤独をかみしめていた頃だった。「望郷」「母への思い」「恋人への慕情」「都会暮らしの哀感」…作詞家・作曲家はそうした心情をすくい上げ、歌手もそれを自分の言葉として歌い上げた。つまり、スタッフ(レコード会社・プロデューサー・ディレクター/作詞家・作曲家)、出演者(歌手・バンド・司会者)、そして視聴者(興行の場合は、観客)が世の中に取り残される「痛み」を共有し共振していたといえる。
 昭和が終わり平成となり、そして、令和となった今、「NHK紅白歌合戦」の視聴率は激変している(80%⇒30%)。その社会的背景・時代と大衆音楽・制作態勢・カヴァー曲の問題・自分の「痛み」などについて考えてみたい。
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「痛み」のことばが「歌」を生む⑴

2024年04月07日 | 創作活動
 私たちは、当たり障りのない言葉によって生きている。世間において、自分を護るために相手と摩擦を起こさないためにその場を保つために、表面的なコミュニケーションに必要な言葉を選んで暮らしている。本心から出た言葉は重かったり棘(とげ)があったりさえするので、日常生活を営む上で忌避されるのかもしれない。だが、無難で表面的な言葉は軽いために相手の心に届くことはない。相手との距離は縮まらないから自ずと人間関係は希薄なものとなる。
今は廃刊となった隔月刊誌に「痛み」のことばについて書いたことがある。

 …沖縄に「チムチャイサン」「チムグリサン」という方言があるが、「肝痛い」「肝苦しい」に由来し、ともに「かわいそうだ」を表す言葉だそうだ。筆者は、数十年前テレビドラマで耳にした「チムグリ…」が忘れられない。自分の内臓が痛む感覚、相手の辛い状態と一体になった人物の心の痛みまで伝わってきたものである。もしこれが共通語の「かわいそうね…」というセリフだったら、上っ面の同情表現で終わってしまう。
生徒たちに、相手のことを我がことのように思える他者への共感や人物の置かれた状況を多角的・多元的にとらえる複眼的思考を育むことができたら、文学の読解能力は飛躍的に伸びることだろう…「特集 文学を教えるということ(『文学』2014 9,10月号 149ページ/岩波書店)」

 お互いの気持ちを通わせ共感し合える言葉があってこそ人間は繋がり、社会に優しさと潤いが生まれるはずだ。わが国の現状はこれと真逆である。希薄な人間関係が広がりお互いの内面には無関心に―いやむしろそれを望んでいるかのようだ。しかしながら、人間は社会的動物、一人では生きていけない。もし自分だけが孤立していると感じたら、「だれかと繋がりたい」という衝動が突き上げてくる。それが果たせなくて<八方塞がり>の状況に陥ると、「事件」を起こす。自分という存在に気付いてもらいたくて<無差別殺人>などを犯してしまう。そこに「他者という存在への想像力」は微塵もない。

 「相手のことを我がことのように思える他者への共感」を私たちが失って久しい。少なくとも戦後から1970年代までそれは確かにあった。筆者の大学進学も身内ではない方の援助によるものだったし、小説家山本周五郎のペンネームの由来、映画監督山田洋次の『男はつらいよ』マドンナのモデル、そこには恩人がいたのだ。※幸せのBASE「心技体」~心③(終)2023/03/01 06:24:10カテゴリー:随想
 小説も映画も創作者の「核」から生み出される「ことば」である。苦境における心の痛みとそれをエネルギーにかえさせてくれた他者の存在に向けての「歌」でもある。昭和が終わり、平成・令和と時代が下るにつれ、その「歌」が徐々に薄れ消えていった。それに伴い、文字通りの《歌》、世間に流れている歌も、作詞・作曲・歌唱の全てにおいて変容していった。その実態と社会的背景について、また、今後の課題についても考えていきたい。
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人生の基盤構築~私の場合(後)

2024年03月07日 | 随想
 高校卒業後、少しでも収入が良く自分の可能性を拓くような職場を求めて二度転職した結果、当時は贅沢だった大学進学に舵を切ることになった。入学費用はこの苦学生に差し伸べられた手にすがり、学費は日本育英会の奨学金で、(食・住以外の)毎月の生活費は種々のアルバイトで賄った。
 1960年代後半、世界は冷戦下における戦争と社会変革の嵐が吹き荒れていた。日本国内では<ベトナムに平和を、市民連合!>のデモが知識人を中心に繰り広げられていたし、大学構内では「学費学館闘争」を旗印に大学当局への異議申し立てが叫ばれ、立看板とバリケードが林立していた。
 「この時代をどう生きるか、自分はどうあるべきか」―この時代思潮は当然のごとく芸術にも変化をもたらし、文学・美術・音楽は既成の表現とは全く別の手法が追求された。演劇においても古典劇・近代劇の構造を破壊し、戯曲形式も演技表現もこれまでに無かったものが生み出されていった。創造側に立つ舞台人も客席に座る観客も双方が求めていたからである。時代思潮のうねりは政治意識を高揚させ芸術文化を鋭く刺激した反面、その陰りと衰退がやがて「時代の傷」をもたらすことになる。
 入学した時点で21歳だった私に比べて同期生の多くは18歳であった。3年間の社会経験の有無は若者にとって大きい。私には彼らが“こども”に見えたし、彼らには私は“オジサン”に映ったようだ。文学部キャンパス181教室で行われた1年生自主公演『黄金の椅子』と文学部最後の4年生実習公演『芍薬の系譜』(大隈講堂)の両方で私はまとめ役や舞台監督を任されることになった。
 社会人となるまでの4年間が青春を謳歌する時期だった同期生と、3年の間世の中をさまよった私とでは大学生活は異なっていた。受験勉強とは縁のない商業高校時代、クラブ活動などを通じて一生付き合える友人がすでにいた私は、まさに大学における学問修得と「自分の道」に欠かせない新たな出会いを求めていた。教室で受けた授業では「哲学」「歴史学」「生物学」などの一般教育科目が心に残った。また、交流の深かった先生は「比較演劇論」の河竹登志夫(俊雄)先生と「演出研究」の安堂信也(安藤信敏)先生、当時助手を務められていた大島勉氏「『実験演劇論(グロトフスキ著)』などの翻訳」、そして演劇博物館学芸員の平正夫氏で、卒業後も長くお付き合いを頂いた。また、女優山本安英と劇作家木下順二が主宰する「ことばの勉強会」(本郷YWCA会議室)にも毎回通ってゲストとの対談に耳を傾けた。この4年間、大学構内で過ごした時間はごく一部で、あらゆるジャンルの芝居を観て回った。最先端の小劇場・テント小屋などのアンダーグラウンド演劇や野外演劇、3大劇団をはじめとする新劇、ミュージカルやオペラ、能狂言や歌舞伎の伝統演劇、映画、寄席にかかる話芸…。
 同時に、東京から離れた横須賀では自立劇団を率いて公演の準備と上演に明け暮れ、早朝の牛乳配達を終えて、鎌倉の住まいから早稲田の授業へ駆けつける日々だった。横須賀文化会館での第一回公演には真船豊の戯曲『寒鴨』を取り上げた。続く二回目に新作の必要性を感じ、大江健三郎の『ヒロシマノート』にあったエピソードを脚本化・上演してみたが、創作力不足は否めなかった。そこで、プロの指導を仰ぐべく池袋の戯曲教室(演劇教育の冨田博之氏・主宰)に通った。講師は大橋喜一・宮本研という売り出し中の劇作家だった。大橋さんは劇団民藝に所属し代表作『ゼロの記録』を発表していたし、研さんは『ザ・パイロット』や『美しきものの伝説』を俳優座・変身・文学座に提供していた。授業外でもお二人にお世話になった。大橋さんは民藝の稽古場に連れて行ってくださったし、研さんは下落合の自宅で私の脚本のダメ出しをしてくださったのである。
 大学卒業後、横須賀自立劇団の合同公演『わが町』(T.ワイルダー作)の演出を引き受けた。就職を一年延ばし牛乳配達をしながらの活動となったが、それまでの自分の総決算のつもりで取り組んだ。

横須賀での演劇上演の実践活動を軸に、東京での大学における学び、劇場通いによる毎月の観劇体験、演劇人・学者・先輩との交流、これら全てが私の「人生の基盤構築」の要素になったことは疑いない。一般社会から離れた大学生としての4年間がいかに貴重なものだったか。それを支え実現させた母や恩人について、また昭和という時代についてはいずれ書くことにしたい。
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人生の基盤構築~私の場合(前)

2024年02月05日 | 随想
 「人生の出発点」(11月記事)は羽田空港での貨物倉庫勤務だったが、「配置転換」という希望があった―いずれ空港ビル内の旅客カウンターの部署に転出できる可能性。現業者用の灰色の労働服から紺のダブル・サイドベンツの上着へ。その憧れがあった。しかし、一年ほど経ったある日、ロンドン本社からの“notice”が掲示される。「今後、欠員が生じても補充の募集はしない」という通告。夢ははかなく潰え去り、「今後とも肉体労働者のままで」という現実が突き付けられた。いくら高卒者としては高給取りでも、夢もなければ発展の道も閉ざされるのであれば、「ここを去る」しかないと思った。
 「自分の道」の模索が始まる。「道」といっても、取り立てて特技や資格があるわけではない。ただ、肉体労働の現場からは離れたかった。英字新聞の“help wanted”(求職欄)にあった「若い事務員・若干英語ができる者」を見つけ応募する。羽田勤務より給料はやや下がったが、青山・神宮前の衣料品輸入会社が採用してくれる。アメリカ人のボスと数人の日本人スタッフ。英文タイプが打てたのが役に立ち書類を作成しては東京駅前の中央郵便局に投函したり、また銀座4丁目のメンズ洋品店に商品を納めに行ったりしていた。
 ここで学んだのは、日本とアメリカとの職場に対する考えの違いだった。今日まで勤めていた秘書がサンダル片手に『Mr.Sano、バイバーイ』と笑顔で振り返って辞めていったのが印象に残っている。日本社会のように飲み会やら送別会やらは全く無くさばさばした関係だった。経営者もビジネスライクで、勤めて数か月後、ボスから『会社をたたむことになった』と告げられ、<(他の職場への)推薦状>を手渡された。
 就職活動が振出しに戻り、再び英字新聞で貿易会社事務員の口を見つけた。銀座八丁目のペンシルビル7階のワンフロア、今度は日本人が経営する会社だった。初めは貿易課に配属され東南アジアからのバイヤーの対応で壁紙を扱う会社に案内したりしていたが、後に商業高校出身ということで経理課に回されることになった。周囲はほとんど大学卒の社員。たまに専務のゴルフバッグを運ぶこともあった。ブルーカラーからホワイトカラーへ、肉体労働から事務労働に変わったものの、やはり夢も発展の道も無かった。
 1964(昭和39)年早春、世の中は東京オリンピックを控えて沸き立っていたが、20歳になりながら私は<先の見えない闇の中>で「どう生きたらよいのか」もがいていた。街には、第一回レコード大賞『黒い花びら』が流れていた。高校時代、歌が好きな同級生たちと仲間になったこともあって、歌謡曲は身近にあった。ある日、藁をもつかむ気持ちだったのか、作詞家・永六輔氏の自宅に電話をした。奥様が出られた。将来に悩む見ず知らずの青年の声を聴いたあと、やさしい声で応えて下さった。『永は、いま梅田のコマへ出かけていて留守です。スケジュールはビデオプロモーションの高階さんがご存知です』…教えて頂いた番号にかけると、すぐに「資生堂パーラー(銀座通りを挟んで私の会社の目の前にあった)2Fのティールームで」の約束となった。
『会社にいても先が見えなくて…芸能界のことはまったく分からないし…』追い詰められた表情をしていたのだろう。高階さんはじっとこちらを見つめておっしゃった。『芸能界のことをうんぬんする前に、君、大学へ行ったら』…若者にとって大人のこうした言葉は強く響く。母には事情を話し、一度だけ大学受験をさせてほしいと頼んだ。『…お前がそれほど言うなら』―母子が暮らしていた洋装店社長宅の奥まった六畳一間での会話だった。決算期に区切りがついた日、私は会社を辞めサラリーマン生活にピリオドを打った。
 私は「大卒(当時は学歴は価値があった)」の肩書きが欲しくて、進学しようとしたのではなかった。考える時間が欲しかったのだ。四大悲劇の主人公の一人、リア王は自問自答する。…`Who am I? ’社会における自分の存在価値は? “Identity”自分の存在理由は?自分を生き生きと生きるにはどうしたらいいのか。社会の激流に押し流されそうになった自分を留める「一本の杭」それが4年間という時間であり大学という別世界であった。この決断が、今振り返ると「人生の基盤構築」の第一歩となっている。
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