劇作家・プロデューサー│佐野語郎(さのごろう)

脚本・演出、童話創作の傍ら、音楽劇の制作に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒃

2022年06月26日 | オペラ
 越路吹雪は、戦後復興期の時代のうねり・エネルギー・文化的潮流に押し上げられるようにして“日本のシャンソンの女王”と称されるまでになり、今でも日本人の胸に残る数々のヒット曲を持つ大スターである。しかし、その戦後復興期よりもはるか前、敗戦直後の焼け野原、粗末なバラックがまだ立ち並んでいた昭和20(1946)年、9歳で歌手デビューした少女がいた。
 美空ひばりである。平成元(1989)年6月に亡くなるまで43年間国民的スターであり続けた“歌謡界の女王”は、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した(没後の1989年7月2日)。そして、ひばりの活躍の場は歌謡界のみならず、映画界にも及んでいた。150本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演という映画女優でもあったのだ。
 この「映画女優」であることが、ひばりの「歌唱表現」を豊かにしている要素になっている。詞の世界に描かれている人物になりきって、その人物の言葉を歌うことが出来ているのだ。
 また、敗戦によって打ちひしがれていた同胞を励ますために、戦後間もない1950年、13歳のひばりは芸能界の師・川田晴久とともに米国サクラメント公演(第100歩兵大隊二世部隊戦敗記念碑建立基金募集公演)に旅立っている。日本人による海外ツアーの先駆けだ。さらに、1970年のブラジル公演では5万人の日系人観客を動員している。サンパウロの州議事堂に面した体育館、8月8・9・10の3日間昼夜公演は満席だった。ブラジルはもちろんアルゼンチン・パラグアイ・ペルー・ボリビヤ・アマゾンから日系人が団体で観にきたのである。かつてフランク・シナトラやトニー・ベネットが称賛したサンパウロの一流演奏家たち全員が『言葉は分からないが素晴らしい歌手だ』と異口同音にほめたたえたという。 
 ひばりは、敗戦間近の横浜大空襲を体験していた。8歳の誕生日、昭和20(1945)年5月29日、必死に防空壕に逃げ込んだ。1万人近くが亡くなっている。この戦禍の記憶は生涯ひばりの脳裏から消えなかった。昭和49(1974)年8月9日の第1回広島平和音楽祭で、新曲『一本の鉛筆』(作詞:松山善三・作曲/編曲:佐藤勝)を披露する。ひばり自身が選んだベスト10のうちの1曲で反戦歌である。
…一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く
ひばりは14年後の昭和63(1988)年8月に再び広島平和音楽祭に出演した。亡くなる前年、大腿骨壊死と肝臓病で入退院を繰り返していた時期である。出番以外は持ち込んだベッドに横になり、点滴を打った。それでも『一本の鉛筆』をいつも通り歌い終えると、『来てよかった』と喜んだという。
 この「時代を共にした同胞を訪ねて歌うこと」「平和を訴える場に駆けつけて歌うこと」―このことは、ひばりの「歌唱表現」を深いものにする要素になっている。借りものではない、自分自身の揺るぎない思いを「歌詞」に込められるからである。
 歌詞で書かれている主人公になりきって演じること。自分自身の辛い体験からくる思いを胸に秘めて歌うこと。それが出来たから、ひばりの歌は豊かで深いのである。
※出典/参考:ウイキペディア、日刊スポーツ配信記事、ブラジル日報配信記事。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒂

2022年05月24日 | オペラ
 「越路吹雪のロングリサイタル」は<ドラマチックリサイタル>という冠が付くようになり、最大のヒット作『愛の讃歌-エディット・ピアフの生涯』が生まれる。
 浅利慶太は、劇中劇形式を取り入れ、ピアフの名曲20曲を組み込む。劇団四季の俳優たちをギリシャ悲劇におけるコロス(舞踊合唱隊)にして、ピアフの一生(出生・結婚・死)をドラマチックに語らせ展開する。越路は主役ピアフを演じるとともに、各場面でその代表曲の数々を歌い紡いでいくという構成である。
 この斬新な作品は評判を呼び連日客席は埋まる事態になったが、同時にそれは公演の看板である越路に充実感を与えるとともに、責任からくる重圧にも耐えなければならないという側面も持っていた。
 かつて本物のピアフの歌を聴くために渡仏し、その深さと激しさ、躍動するシャンソンの見事さに打ちのめされた記憶を抱えつつ、親友の岩谷時子が自分のために翻案してくれた詞を歌い切れるか。自分の根っこから湧き出る悲しみ・切なさ・希望・迷い・歓びを聴衆は受け止めてくれるか。スターでありながらその胸は不安で膨らむばかりであった。
 浅利慶太は、稽古に向き合う越路に、これまでの体験~俳優たちと芝居を作り上げていく~とは異なるものを感じ取っていた。
「ケイコしていてつくづく感じるのですが、越路さんという人は、実に「苦しむ人」なんです。こういう話はこれまで公開したことはないのですが、この3年くらい彼女は苦しんでいます。たとえば愛の讃歌をケイコしていて、「あなたの燃える手で私を抱きしめて」と歌いますね。これを彼女はもう何千回も歌っているわけでしょう。ところが、当の彼女だけが、この歌に対して、歌うたびに白紙の状態なんです。ケイコ場で、ひとり自分の手を見つめたり、恋する人の手というものを想定しながら「あなたの燃える手で」「あなたの燃える手で」と繰り返している。これはどういうイメージなんだろうと苦しんでいる。『愛の讃歌』にしても『サントワマミー』にしても、あれだけ歌いこんでいて、「むつかしい」「どうやって歌おうか」ということなんです。みていると痛々しい感じがする」。
「しかし、この辺に越路吹雪の芸というものの秘密があるのではないかと思います。演出家というものは、俳優の苦しみの証人なんでしょうね。ぼくは、だまってケイコを聞きながら、「そこのイメージはこうではないか」「そこはあなたの求めているイメージとちょっとズレた」とかアドヴァイスしてあげるわけだけど、1曲やるのに1時間くらいかかる。歌詞からじっくり掘り起こしてゆくということですからね。二人だけで数時間ケイコして、終るとゲッソリしている、くたくたになっているわけですね。とにかく、かの女の芸に対する執着、考え方は、実に過酷で、見ていて気の毒になります。もっといい気持になったっていいんじゃないかという気もします。しかし、自らをさいなんでゆく努力、ある意味では幸福であることを拒むその姿勢が、越路吹雪のあの栄光を支えているのだと思います」(演出家は語る 越路吹雪リサイタル シャンソンドラマチック 公演パンフレット1976) 
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒁

2022年04月30日 | オペラ
 越路吹雪を“日本のシャンソンの女王”に押し上げていった「時代のうねり・エネルギー・文化的潮流」とは、どこからそしてなぜ生み出されたのだろうか。
 1945(昭和20)年3月米軍による東京大空襲・4~6月沖縄戦・8月広島長崎原爆投下、ソ連の不可侵条約破棄による対日参戦…政府は、世界から孤立し焦土と化した祖国の現実を前にしてついに「無条件降伏」を受諾するに至る。満州事変(1938年)以来、軍部の独走に歯止めがかけられなかった帰結であった。
 一家の大黒柱は大陸や南方の島々で、銃後の家族も本土各地の空襲で命を落とした。残された子どもたちは、親戚に身を寄せたり浮浪児となって駅の地下道をねぐらとしたりして生き延びた。
 国民の多くは衣食住に窮していたが、皮肉なことにまた「戦争」が日本復興を下支えすることになる。朝鮮戦争(1950~53年)の補給地となったことがキッカケで、神武景気(1954~57年)・岩戸景気(1958~61年)と、日本経済は鰻上りの発展を遂げたのだった。三種の神器をもじった「冷蔵庫・洗濯機・テレビ」が飛ぶように売れるとともに、ホンダ・ソニーなどの自動車・電機産業も勃興し、やがて輸出も盛んになっていく。
 それまでの「天皇陛下万歳!鬼畜米英!贅沢は敵だ!」のスローガンはあっさり消え、当局はそうした学校の教科書掲載の記述を生徒に墨で消させた。少年たちは大人に対して不信感を抱き、新たな価値観を求めて動き出す。青年に成長すると大人に代わって「破壊から建設へ」の中心的担い手になるのは必然だったともいえる。
 文化的潮流もとどまることを知らない勢いだった。戦時中は「敵性音楽」だったジャズが街中に流れ、軍の施設は接収され米軍基地となったため、ミュージシャンたちはダンスのバックバンドとして雇われた。海外留学も解禁となり、クラシック音楽作曲家黛敏郎のパリ滞在も実現している。また、ラジオに加えて新たな放送媒体となったテレビ局には才能豊かな若者たちが台本作者・作詞家・作曲家・演奏家・出演者として集結した。
 昭和という時代(1926~1989年)を戦争から壊滅、復興、成長と捉えると、この「復興期」こそが、エネルギーに満ち文化的潮流を生み出す時代だったのである。
 文学や演劇の分野にもそれまでは見られなかった新芽が芽吹いてきた。その一例が同世代の石原慎太郎と浅利慶太でともに20代後半だった。湘南の若者たちの生態を描いた『太陽の季節』で芥川賞作家となった石原。新たなフランス演劇を標榜して劇団四季を立ち上げた浅利。政治的感覚にも富んでいた二人は政財界の人脈にも切り込んでいき、日生劇場(千代田区有楽町)創設の原動力となる。東急グループの総帥・五島昇が日本生命社長・弘世現に二人を紹介すると、日本生命創業70周年記念として劇場建設が実現する。
 杮落とし公演「ベルリン・ドイツ・オペラ」(1963年10月)を皮切りに、劇団四季による石原の創作劇や劇団の枠を超えたシェイクスピア劇、歌舞伎、ミュージカルが上演される。1970(昭和45)年以降は自主制作から貸し小屋方式に変わり、五島社長と共に石原・浅利重役も退陣することになるが、浅利慶太はプロデューサー・演出家として中心的な役割を果たしていく。その代表的な仕事の一つが「越路吹雪のロングリサイタル」だった。
 日本ゼネラルアーツという舞台制作会社を設立した浅利は1960年代後半から越路のロングリサイタルの演出を引き受け、越路の死去する1980年までこのリサイタルを担当し続けた。もちろん、演出家ばかりではなく、音楽構成と作曲は越路の夫である内藤法美、ジョージ川口をはじめとする一級の演奏家メンバー、劇団四季からは舞台装置の金森馨・照明の吉井澄雄など各分野を代表するスタッフが揃っていた。こうして輝いていた「昭和の復興期」は、かつて敗戦時に少年だった世代が中心となって生み出した所産であった。
 越路吹雪がこの若いエネルギーを支えにできたことが“最もチケットが困難なライブ・ステージ”の主役という地位を得ることにつながった。しかし、その陰で本人がどれだけ真摯に「歌」に向かい合っていたかを知る人は少ない。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⒀

2022年03月26日 | オペラ
 エディット・ピアフの短い生涯(1963年/47歳没)は悲しく辛く激しいものでフツウの幸福とはほど遠いものだった。しかしだからこそ、その歌は聴く者の胸を打ち心に響く源泉を得て、「シャンソンの女王」として後世に語り継がれる存在となったのである。
 ピアフが世界の女王とすれば、越路吹雪を日本のシャンソンの女王と評しても的外れではあるまい。しかしそうなるまでの道のりは長かったし、成功を得るまでには本人のたゆまない努力はもちろんのこと、才能豊かなスタッフとの出会いがあり、優れた文化を生み出そうとする時代の空気に恵まれたという幸運もあった。
 1953年、越路は本物の歌を求めてパリへ旅立つが、エディット・ピアフの『愛の讃歌』を生で聴いて打ちのめされる。『…ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人でなく。悲しい、寂しい、私には何もない。私は負けた。…』29歳の日記である。しかし帰国後、彼女は「自分の歌」を求めて立ち上がる。(※その前後の経緯については、前々回に触れた)
 ピアフにはなれない。あの叫びにも近い歌は私には歌えない。だとしたら、私が歌えるシャンソンとはどんな歌だろう…。苦悩する越路のために親友岩谷時子は歌詞を紡ぎ出す。

あなたの燃える手で あたしを抱きしめて    
ただふたりだけで 生きていたいの    
ただいのちのかぎり あたしは愛したい    
いのちのかぎりに あなたを愛したい    

頬と頬よせて 燃えるくちづけを 
かわす喜び かわす喜び    
あなたとふたりで 暮らせるものなら 
なんにもいらない    
なんにもいらない 
あなたとふたりで 生きていくのよ    
あたしの願いは ただそれだけよ 
あなたとふたり

かたくいだき合い 
燃える指に髪を    
からませながら いとしみながら    
口づけを交わすの 
愛こそ燃える火よ    
あたしを燃やす火 
 心とかす恋よ

 ここには、ピアフ自身か書いた原詩の世界は跡形もない。西洋人の愛の形ではない日本人の“二人だけの世界”が描かれている。越路はこの「翻案詞」をメロディに乗せてささやくようにそしてダイナミックに歌い演じた。自分自身の根底から湧いてくる心情と思いを込めて歌い上げた。ここに、借りものではない越路吹雪の『愛の讃歌』が誕生する。
 『愛の讃歌』を皮切りに、『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』…と岩谷の訳詞によってヒット曲が次々と生み出され、この勢いが時代の文化的潮流となって越路吹雪を「日本のシャンソンの女王」に押し上げていくのだが、そこにはエネルギーにあふれた音楽界・演劇界の実力者たちの存在があった。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑿

2022年02月27日 | オペラ
 インド発祥の仏教ではハスの花について「池の中に蓮華あり、大きさ車輪の如し」(阿弥陀経)とあり、「その花は池の底の泥に根を張っているからこそ美しく花開く」(「淤泥不染の徳」「蓮華化生」)と伝えている。印度から中国へそして遣唐使・留学僧によって日本へ、この思想は先人たちの情熱と労苦によって今日まで息づいている。
 もちろん「その花は池の底の泥に根を張っているからこそ美しく花開く」は人間の真実・人生の真相についての深い比喩表現で、東洋ばかりでなく西洋においても何人もの人生によって証明されている。
 かの喜劇王チャーリー・チャップリンは、少年時代、家庭崩壊と貧困の極限の中にいた。両親はともにミュージックホールの芸人だったが、チャップリン2歳の頃に別居。母ハンナと異父兄シドニーとの3人暮らしが続くが、入退院を繰り返す母のために救貧院に収容され、屋根裏部屋を転々とする日々を送っている。5歳の時、彼は初舞台を踏むことになる。出演中の母がのどを潰して歌えなくなり、支配人が急遽代役として舞台に出したのだ。いつも舞台袖で出番を待つ大人を見様見真似の芸で笑わせていたのを知っていたからだった。
 その後イギリス中のミュージックホールを巡業する過程で少年は歌とダンスからコメディアンを夢見るようになる。生活のために使い走り・ボーイ・工員・受付などあらゆる下働きの経験をするが、やがてアメリカへ渡り、胸を打つ名作を続々と生み出してゆく。世界的な映画人となった彼の人生はまさに「その花は池の底の泥に根を張っているからこそ美しく花開く」そのものである。
 さて、世界的シャンソン歌手、エディット・ピアフの場合はどうだっただろう。1963年47歳で死去。パリ中の商店が弔意を表し休業、墓地での葬儀は40,000人以上のファンが押しかけ交通が完全にストップした。
 彼女の少女時代もチャップリン以上に悲惨だったといってもよい。パリ20区の貧しい地区に生まれ、イタリア系の母は17歳で彼女を出産、カフェの歌手として働いていた。父親はアルジェリア人の血を引く大道芸人であった。両親が貧しかったため、エディットは売春宿を営む父方の祖母に預けられた。やがて15歳になると、パリ郊外でストリート・シンガーとして自立する道を歩む。20歳でナイトクラブのオーナーに見出され、142㎝小柄な彼女は「小さなスズメ」という愛称を与えられた。上流・下流幅広い階層の客が出入りする社交場だったこともあり、翌年にはレコードデビューすることになる。
 第二次世界大戦下の『ばら色の人生』で大成功を収め彼女の代表曲になる(1998年グラミー賞名誉賞)。戦後は世界的な人気を得て、ヨーロッパ・アメリカ合衆国・南アメリカに公演旅行に出る。一方で、若い詩人・俳優・歌手のデビューに尽力し、彼らとの交際もあったが、生涯の大恋愛の相手(プロボクサー:マルセル・セルダン)に出会う。彼には妻子がありいわゆる不倫関係だったが、その彼は飛行機事故死してしまう。その翌年(1950年)に発売されたのが、あの『愛の讃歌』である。

蒼空が崩れ落ち
大地が割れようとも
私は気にしない あなたが愛してくれるなら
世間なんかどうでもいい

私の朝が愛にあふれれば
私の体があなたの腕の中で震えるかぎり
私は気にしない あなたが愛してくれるなら
世間なんかどうでもいい

 原詩はさらに続くが、その大意はかなり激しい内容である。
 シャンソンの女王エディット・ピアフも凄まじい少女期を送らざるを得なかったし、その恋愛遍歴も過酷なものだった。しかしだからこそ、あの蓮のように茎を水面の上まで伸ばし大輪の花を咲かせたのである。「清らかな心」という花言葉は、泥水を吸い上げながらも美しい花を咲かせることに由来する。それは、音楽へのピュアな思いと強い愛があったからこそエディット・ピアフにも当てはまるに違いない。
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