科学は、時代が下るにしたがって進歩する。たとえば医学は治らなかった病に完治の光明を当ててくれ、考古学は分からなかった事実を白日の下にさらしてくれる。人間も同様に、数千年前のギリシャの時代より、数百年前の日本の江戸時代より、数段進歩しているのだろうか。残念ながら、「否」である。確かに人は人生経験によって多少賢くはなるが、たとえば恋愛において同じ轍を踏むごとく、堂々巡りを繰り返す。それどころか、最近は、時代が下るにしたがって退歩しているのではないかとすら思える。特に、最近の日本人一般の劣化傾向は著しく、「生きる芯」が溶解してしまったのではないかと危惧している。そんな思いを強くしたのは、二つのの展覧会に接したからかもしれない。激動の昭和を、カメラを手に、またペンを握って、素晴らしい仕事をしながら駆け抜けた二人の日本女性――彼女たちには、「生きる芯」があった。
五月下旬、久しぶりに写真展に出かけた。土門拳、大竹省二に次いで今回が三回目になる。「日本初の女性報道写真家 笹本恒子100歳展」(横浜市中区・日本新聞博物館2階企画展示室)。偶然見たテレビのドキュメンタリー番組で、とても100歳とは思えないお元気さと現在もなお取材・執筆活動を続けられていることに驚いた。古稀で一段落した気分になっている自分に比べ、笹本さんは白寿を超えられているのだ!恥ずかしさと同時に人生の大先輩に喝を入れられた思いだった。展覧会に行ってみようと思ったのは、番組中におっしゃった言葉が心に残ったからだ。『明治生まれの女性で第一人者となった方たちが高齢になられている。今、自分が撮っておかなければ取り返しがつかない』――ここには、この世に生を享けた者が持つべき共通の精神の根幹が示されている。
社会的存在として、人間が充実感をもって生きるには「三段階」あるのではないか。一つ、「自分にできることがあるか」という基本的能力。二つ目、「自分でなければできない、自分がすべきだ」という独自性や使命感。最後に、「今、自分がやらなければ」という緊急性や優先的選択。この考えが浮かんだのは、もう一つの展覧会の主役・村岡花子さんと笹本さんに相通じるものがあったからだが、まずは、笹本恒子「100歳のファインダー」(2014年東京新聞刊)に掲載された文を挙げておきたい。――女性に参政権すら与えられず、今のように便利な家電製品もないなか、家事をこなしながら仕事を続け、終戦後に、その道で第一人者となることは想像を絶する苦労でしょう。その方たちの姿を長く残していく責任は、大正生まれのわたくしにこそあるのです。
会場に展示された日本初の女性報道写真家の一枚一枚には被写体となった方たちの気品のある毅然とした姿が写しとられていた。芸術・教育・社会事業・実業・平和運動…様々な分野で自分の仕事を貫いた女性たち。そして、「『子どものころから反戦主義』を公言する」笹本さんは、戦時下の東京、惨禍の広島、炭鉱闘争の福岡、60年安保の国会議事堂前…を飛び回り、目撃現場でシャッターを切り続けたのである。
五月下旬、久しぶりに写真展に出かけた。土門拳、大竹省二に次いで今回が三回目になる。「日本初の女性報道写真家 笹本恒子100歳展」(横浜市中区・日本新聞博物館2階企画展示室)。偶然見たテレビのドキュメンタリー番組で、とても100歳とは思えないお元気さと現在もなお取材・執筆活動を続けられていることに驚いた。古稀で一段落した気分になっている自分に比べ、笹本さんは白寿を超えられているのだ!恥ずかしさと同時に人生の大先輩に喝を入れられた思いだった。展覧会に行ってみようと思ったのは、番組中におっしゃった言葉が心に残ったからだ。『明治生まれの女性で第一人者となった方たちが高齢になられている。今、自分が撮っておかなければ取り返しがつかない』――ここには、この世に生を享けた者が持つべき共通の精神の根幹が示されている。
社会的存在として、人間が充実感をもって生きるには「三段階」あるのではないか。一つ、「自分にできることがあるか」という基本的能力。二つ目、「自分でなければできない、自分がすべきだ」という独自性や使命感。最後に、「今、自分がやらなければ」という緊急性や優先的選択。この考えが浮かんだのは、もう一つの展覧会の主役・村岡花子さんと笹本さんに相通じるものがあったからだが、まずは、笹本恒子「100歳のファインダー」(2014年東京新聞刊)に掲載された文を挙げておきたい。――女性に参政権すら与えられず、今のように便利な家電製品もないなか、家事をこなしながら仕事を続け、終戦後に、その道で第一人者となることは想像を絶する苦労でしょう。その方たちの姿を長く残していく責任は、大正生まれのわたくしにこそあるのです。
会場に展示された日本初の女性報道写真家の一枚一枚には被写体となった方たちの気品のある毅然とした姿が写しとられていた。芸術・教育・社会事業・実業・平和運動…様々な分野で自分の仕事を貫いた女性たち。そして、「『子どものころから反戦主義』を公言する」笹本さんは、戦時下の東京、惨禍の広島、炭鉱闘争の福岡、60年安保の国会議事堂前…を飛び回り、目撃現場でシャッターを切り続けたのである。