劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

本物に触れて深さを知る、すべてはそこから⑴

2020年10月17日 | 随想
 綺羅星のように煌めく名優たち(音羽屋六代目菊五郎、高麗屋七代目松本幸四郎、成駒屋六世歌右衛門…)には芸があった。味わいがあった。型があった。それは芝居に止まらずかつての相撲にも檜舞台ならぬ土俵の上に「芸と味わいと型」があったのである。
 昭和の大相撲の全盛期は栃若時代である。蔵前国技館を文字通り“満員御礼”にし、ラジオと白黒テレビの前に全国津々浦々の庶民をくぎ付けにした栃錦(東京)と若ノ花(青森)の取組。二人は小兵ながら土俵に吸い付くような足腰の粘り強さで名勝負を繰り返した。見物は二人の切れ味鋭い「上手出し投げ」と新手の「呼び戻し」に感嘆し歓声を上げた。
 栃錦は引退後春日野部屋を継承し、理事長となってからは蔵前から本拠地の両国に新国技館を借金無しで落成させた。若ノ花は初代若乃花となり花籠部屋から独立して二子山部屋を創設、年の離れた弟・貴乃花(初代)を育てた。
 その昭和30年代、大相撲の人気をさらったのは力士ばかりではない。「呼出し」と「行司」にも花形が居たのである。立(たて)呼出し・小鉄が土俵に上がり、白扇を広げ、力士の四股名を読み上げる。…ひがあ~しい~、とちいにしきいい~、とちいにしきいい~。(おもむろに西方へ向き直って歩を進め)にい~しい~、わかあのはあなあ~、わかあのはあなあ~~…。その伸びと艶と張りのあるゆったりとした美声とさりげない身のこなしに私たちはしばし酔う。力士たちは最高の舞台を演出されて土俵に上がる。※小鉄が定年を迎え土俵を去ることになった時、ファンからの投書が相撲協会に殺到したため現役2年延長、1963(昭和38)年1月場所千秋楽、引退となる。
 やがて土俵上には、東西の力士と勝負を裁定する行司の三人のみが照明に浮かび上がる。結びの一番は気品のある装束に身を包んだ立行司・木村庄之助(22代)、結び前の一番は華やかな装束の立行司・式守伊之助(19代)が軍配を手に務めるのだが、時としてはその役目が入れ替わる。「静」の佇まいの庄之助、「動」の立ち居振る舞いの伊之助。この好対照の二人も人気の的だった。特に白いひげと憎めない人柄の伊之助は「髭の伊之助」と称され一世を風靡する存在だった。大相撲におけるこの名脇役の存在の品格と美しさ。われわれ庶民はそこに惹きつけられたのである。
 時間を巻き戻せない今、どうしたら歌舞伎の名優たちの演技や大相撲の名勝負・名人芸に触れることができるのだろう。歌舞伎の場合は、千代田区三宅坂・国立劇場の関連施設「伝統芸能情報館/視聴室」や早稲田大学・演劇博物館の別棟6号館3階AVブースなどで視聴できる。また、NHKのアーカイブスには歌舞伎ばかりでなく大相撲の映像記録もあり、ネット検索で「名勝負」の動画にアクセスし楽しむことができる。
 大切なのは、まず本物に触れてその深さや豊かさを知り、その上で現状の問題点やその原因をつかみ、将来への展望を見出すことだろう。
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