劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

幸せのBASE「心技体」~心②

2023年02月01日 | 随想
 『おかあさん』という詩集は、サトウハチロー(※父・佐藤紅緑/異母妹・佐藤愛子はともに作家)自身の母への想いが生みの親としても過言ではないだろう。男の子は母に・女の子は父に、同性の親よりも異性の親の方に「愛」を覚えることは自然である。それが高じるとマザコンとかファザコンとかに陥るケースもあるだろうが…。
 日本を代表する詩人・童謡作詞家が「母」を謳えば、第83回直木賞の向田邦子は「父」を主人公に据えている。かつてTVドラマ界では市川森一・倉本聰・早坂暁・山田太一が人間や社会を掘り下げた作品で脚光を浴びていたが、その四天王と並んで異彩を放っていたのが向田邦子である。ブラウン管に娯楽性ばかりでなく毒のある芸術的世界を開いて見せ、その筆力は随筆・短編小説でも高い評価を受けたのだが、直木賞受賞の翌年(昭和56年8月)、台湾航空機事故で亡くなる。52歳であった。
 昭和20年8月、日本敗戦。焼け野原から立ち上がろうとする中で日本国憲法が公布され、男女同権が認められるが、一般家庭には「家父長制」の文化が生き残っていた。父親は外で収入を得る家長、母親は育児と家事による内助の功で支えるという役割分担である。
 随筆『字のない葉書』に描かれた父親像はどうであろうか。戦時下を生き抜いてきた一会社員が「家長」を演じながら娘たちへの強い愛情を不器用なまでにさらけ出している。長女である作者はそんな父を正面から受け止め深い情愛と尊敬の眼差しで見つめている。いわば封建的な昭和の父親ではあるが、娘を一人格者として認め、その幸福を願う男の精神は注目に値する。

 令和の時代はどうであろうか。家父長制はもはや遺物となり、一家の中心は消えてパパ・ママと子どもたちは横並びになっている。家族を一隻の船に喩えると、船長・機関長・船員という明確な位置付けが薄れるので、航行に支障をきたす状況が生まれる。掟や躾(しつけ)も無化して言葉遣いや所作、相手への気遣いも度外視されている。
 日本は、これまでの「失われた30年」で先進国における地位が急落した。夫ひとりの収入だけでは家計を支えられず、妻も社会人として働き始めた。ダブルインカムノーキッズの場合はそれで何も問題ないが、子供を養育するとなると困難な問題が降りかかってくる。ゆったりとした親子の時間や心の通い合いがないがしろにされる。では、夫が高収入で妻が専業主婦という場合は問題ないかというと、これが逆に子どもを追い詰める事態を生みかねない。子どもの将来のためというお墨付きによって「教育ママ」となりそれに全エネルギーを注ぎ「鬼母」となってしまうのだ。<船長>の職責をエスケープする夫がその事態に拍車をかけてしまう。
 なぜ、こうした社会になったのか。
 子どもが伸び伸びと成長し親も心のゆとりをもって暮らすには何が欠けていて、どのようにすれば、家庭の幸福と社会の発展への道が見えてくるのか。それがカルト宗教でないことだけは確かである。何かにすがるのではなく自分自身や社会の実態を見つめ直すこと、それが第一歩となるのだろう。
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