劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

ウチで描く、ソトで創る(一)

2006年08月29日 | 演劇
 詩人は原稿紙に、画家はカンバスに、作曲家は五線紙に、自らの作品世界を描き出せる。それが書斎であれアトリエであれ、創作活動は芸術家個人によって完結を見る。しかし、演出家の仕事場はウチではなくソトであり、しかもその活動は本人単独では完結どころか進行すらしない。上演に関わる多くの他者の存在があってはじめて成り立つものだ。それが稽古場であれ、劇場であれ、演出家は役者の言葉と身体、スタッフの技能による装置・照明・衣装・音楽などを通してのみ作品世界を造形することが出来るのである。
 私は、大学時代から数十年演出の仕事を続けてきたが、早い時期から戯曲の創作にも手を染めるようになった。仲間と作った劇団やプロデュースカンパニーにおいて日本および外国の戯曲を上演していたが、自分なりの言葉で劇宇宙を現出してみたい欲求と所属集団の制作条件に適合する脚本が必要だったからである。しかし、もちろん、書き始めの頃は技術が伴わないため稚拙であり、類型的で劇的連関性に欠ける代物だった。それでも、仲間はそんな脚本を基に何とか上演まで漕ぎつけてくれた。私も、当時『美しきものの伝説』(初演・文学座/演出・木村光一)執筆中の劇作家宮本研氏のお宅を訪ね、劇構成について助言を仰いだりして創作修業に励んだ。しかし凡才ゆえに、戯曲のイロハというものが身に付いてきたのは、それから大分経ってからのことだった。
 こうした経緯もあって、私の場合はいわゆる「作・演出」タイプに分類されるだろう。書き上げた戯曲を劇団に渡したら、仕事は完了!という劇作家ではない。演出の仕事を兼ねているので、書斎で書き上げた場面を稽古場で稽古し、スタッフと打ち合わせをする「脚本家」なのである。
 映画にも、「作・演出」タイプの監督はいる。巨匠黒澤明は、熱海の旅館に共同執筆者と45日間籠もって『七人の侍』のシナリオを完成させるが、その祝いの席で、脚本家橋本忍と小国英雄に『…いいなぁ、君たちは。ボクはこれからこれを撮るんだよ。』と呟いたそうだ。頭の中で構築し終わったウチの世界を、改めてソトの作品として自ら造形していく作業には、正直、辛いものがある。

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デリケート・バランス(下)

2006年08月13日 | 随想
ベルギーの貧しい炭坑町で、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは宗教者としての自分を見失う。絶望の極限状況において彼は宣教師から画家へと転生する。1景「プチ・ワスムの小屋」の鮮烈なラストを受けて、2景「ハアグの画室」が浮かび上がってくる。ゴッホはモデル女シィヌと同棲し、売れない絵のデッサンに明け暮れている。収入はゼロ、弟のテオの仕送りに頼る極貧生活である。私が衝撃を受けたのは、食料品屋の「ルノウのおかみさん」とのやりとりだった。

ルノウ …で、あんたはその調子、すると女の身で金え稼がなきゃならないとなると、こいで、元手はウヌが身体だけだあね。ひひ。そうじゃありませんかね?そうさせたくなかったら、あんたが奮発して、何か仕事を見つけて稼ぐんだね。
ヴィン 僕にやれるような仕事があるだろうか?
ルノウ そりゃね、今こんな不景気だから、割の良い仕事はなかなか無いけど、やる気になりさえすりゃ、ハトバの仲仕だとか道路掃除の人夫など、無いことは無いねえ。
ヴィン よし、じゃ、それをやって見よう。…だが、すると、絵はいつ描くんです?
ルノウ いつ描くんだって、そりゃあんた、仕事をおえて、帰ってから夜でも描きゃいいでしょう。
ヴィン 駄目だ。夜じゃ色が見えない。色が見えなきゃ、ホントはデッサンも出来ないんだ。色彩とデッサンとは別々のものじゃ無い。僕は早く色を掴まなきゃならない。
(中略)
ヴィン よす?…すると、僕はどうして生きて行けばいいんです?
ルノウ え?…(頭がもつれて)ですからさ、生きて、この、暮らして行くためには、絵を描くのをやめなきゃならないなら、まあ当分がまんしてですよー
ヴィン 絵を描かないで、どうして僕は生きて行けるんです?
ルノウ だからさあ、いつまでも絵ばかり描いていると、あんたもシィヌも死んじまうことになるからー
ヴィン そうです、絵を描かないと、僕は死ぬ。そうなんだ。
ルノウ …(あきれてしまって、口を開けてヴィンセントを見ていたが、不意にゲラゲラと椅子の上でひっくり返りそうに笑い出す)ヒヒ!フフフ、アッハハ、なんてまあ、ヒヒ!アッハハ、ハハ、アッハ。
ヴィン …(びっくりして、おかみを見ている)
[「炎の人ーゴッホ小伝ー」三好十郎(講談社文芸文庫・P61~63)



この作品はゴッホを通した作者のメッセージであり、劇作家三好十郎の自画像である。「生きること」と「創ること」は一致しているのであって、そこに「食べること」への意識が介入する余地は無い。私の「AとBとのバランス」など、芸術家にとっては「生ぬるい戯言」だと思い知らされた。昭和40年12月12日都市センターホール1階る側6番の座席で、私は幕が下りてもしばらく動けなかった。文化座第39回本公演(演出・佐佐木隆)の舞台を通して、芸術創造に身を投じるということはどういうことかを突きつけられた。
あれから40年…私は今なお「デリケート・バランス」に生きている。忸怩たる思いもあるが、これもまた「自分の人生」だと思えないこともない。しかし、残された人生の時間を全て演劇創造に充てることで、あの21歳だった自分、打ちのめされていた自分に応えて上げたい気持ちもある。

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デリケート・バランス(中)

2006年08月11日 | 随想
東京オリンピック後の1960年代後半、大学は学園紛争の渦の中にあった。キャンパスには闘争スローガンの立看板が林立し、校舎はバリケードで封鎖されていた。大学とは何か、体制とは何か、学生は権力とどう対峙すべきか…。学生運動は、フランスの五月革命を含め、若者たちの「異議申し立て」となって、世界的な広がりを見せていた。そうした時代を肌で感じながら、私はアルバイト先と大学の教室と芝居の稽古場をコマネズミのように動き回っている存在だった。
学費は日本育英会の奨学金によって納め、生活費は条件のいいアルバイトで賄うことで、生計を立てた。授業は専門の演劇よりも、むしろ、哲学・歴史学・心理学・経済学・生物学・古典などの教養科目に「大学」を感じた。だが、精神的なエネルギーのほとんどは、演劇活動に注ぎこんだ。早朝の牛乳配達、昼間の受講、夕方から深夜までの稽古(稽古のない日は、劇場通い)。それが一つの生活パターンだった。
少年時代から「まず、どうやって食うか」が頭を占めていた私は、生活の糧を得ることを優先した上で、「生きる自由」を確保しようとした。自分の置かれた経済的環境では、それが最良の選択であり、A「食べること」とB「生きること」との均衡・調和は、私の内部で確固たるものだった。
しかし、その信じて疑わなかった生き方は「ある舞台」を観て大きく揺らぎ、確固たるバランスは崩れ去った。
その舞台とは、7/10のブログ記事「自分の拠って立つ所への愛Ⅰ(前)」で触れた三好十郎作『炎の人ーゴッホ小伝ー』(文化座公演)だった。今、改めて戯曲を手に取りページを繰っていると、作者の人物に対する深く強い愛情と芸術への厳しい認識が台詞の一つ一つから伝わってくる。
私のそれまでの「確固たるバランス」が崩されたのは、2景の「ハアグの画室」のある場面でだった。







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デリケート・バランス(上)

2006年08月09日 | 随想
最近、「バランス」という問題を改めて考えている。AとBとの均衡・調和、本人の内的な平衡感覚。人間が社会的動物であり、言葉によって思考する存在でもある以上、これは永遠のテーマではないかと思う。
「バランス」といえば、現代演劇の旗手の一人、エドワード・オールビーのピュリツァー賞受賞戯曲‘A Delicate Balance’を思い起こす人もいるだろう。「デリケート」という形容詞(繊細な・微妙な・壊れやすいさま)が付されたことによって、劇の主題<現代人にとっての家庭と人間関係の危機>を表す題名となっている。
しかし、今、私の頭にある「バランス」は、自己と他者との人間関係におけるそれではなく、深遠な形而上的なものでもない。自分という個人が現実生活を送る上での極めて世俗的な「デリケート・バランス」なのである。『人はパンのみにて生くる者にあらず』…この言葉は、2000年を超えた現在でも洋の東西を問わず、宗教の如何を問わず、まったく色褪せていない。ヒトという動物として、コトバという厄介で素敵なものを手に入れた人間存在として、このA「食べること」とB「生きること」との均衡・調和、則ち「デリケート・バランス」は、私にとっても終生つきまとうテーマである。
20歳を目前にして、私は「自分がどう生きるべきか」について苦悶していた。英字新聞を手に自ら選んだ貿易会社ではあったが、生活の糧を得るため以上の意味を職場に見出せなかった。「職業とは何か」について、岩波書店の創業者・岩波茂雄の言葉を読んだり、相談相手になってくれた大人の意見に耳を傾けたりした。自分はどんな仕事について、どう生きたら、自分の人生だと思えるか。結果、当時は贅沢だった「大学進学」を決断した。演劇の理論的勉強を、というのが建前だったが、「流されそうな川の真ん中に杭を打ち込み、それに一時しがみつきたい」が本音だった。立ち止まる時間が欲しかったのである。





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