先週の土曜日、日本大学芸術学部(東京・江古田)にて、「演劇と教育」研究会・1月研究会が開かれた。会場となった演劇学科研究室Aに私が通うようになったのは、1998年7月研究会「神奈川総合高等学校類型科目『基礎演技』の教育実践」の報告をさせていただいた頃からだと思う。当時は、故・高山図南雄先生が会長になられ、実務を熊谷保宏先生が担当されて活動が継続されていた。そして今日まで、演劇教育に携わる教員たちや演劇関係者が集まり、各自の実践を報告し意見を交換しながら、演劇教育の可能性やあるべき姿を追い求めてきたのである。
さて、今回のテーマは、「なぜ表現教育に取り組むのかー高校の教育現場からの提言―」だった。5人の報告者が教育実態の調査や現場での教育状況を語り、参加者からの意見・感想の交換もあって、4時間を越える熱心な会となった。演劇的手法による社会科・国語科の授業実践の工夫、表現科・演劇科におけるカリキュラムの実際や生徒指導の試行錯誤などの実例をめぐって討議が重ねられたのである。生徒の主体的学習の促進、読解など学習内容の定着、コミュニケーション力や自己表現力の育成、劇表現や舞台芸術・映像作品発表など芸術創造の体験。これらの教育実践は、生徒たちの学習意欲を増進させ、表現力を引き出し、個性を磨くことで生きる力を身につけさせる基盤となっている。
しかし、その教育現場は様々な問題も同時に抱えている。第一に、演劇が教育課程に取り入れられ各地で授業が行われ始めたのは最近のことであり、またその数も限られているため、教育委員会・管理職・同僚の教員たちの理解や協力を得られにくいということ。第二に、担当する教員自身、演劇の経験が必ずしも豊かではなく、具体的な指導方法が手探りであること。いきおい、演劇人など専門家?を社会人講師として招き、ティームティーチングを行うことになる。その場合、その講師の教育者としての資質が問題となる場合や生徒とのトラブルが起きるケースもあり、経済的な保証も薄いこともあって、長続きしない例も少なくない。第三に、保護者たち(学校サイドも)は、進路のことが念頭にあり、演劇教育の実効性に疑問を感じ、受験にとってマイナスであると考えること。
このように社会的認知度が低いことは、演劇教育の歴史の浅さが主たる要因である以上、授業を担う当事者が自らの経験を積むことで指導力を向上させ、教育効果を上げて、その実態を周囲に認めさせることが必要不可欠だと思われる。また、演劇の専門教育の場合については、演劇教育に関心のある演劇人に対する「教育実習」を実施することで、教員免許に準ずる資格を与えるなどの教育行政の対応も求められよう。外部講師と専任教員とによるティームティーチングではなく、専任教員単独による表現教育と、「資格」を取得した演劇人講師による演劇教育が行われるようになって初めて「社会的認知」も得られるのではないかと考える。ちなみに、私は教員免許取得者と同時に演劇人として「教育現場」に立たせてもらっている一人である。
さて、演劇教育の歴史の浅さに触れたが、その歴史を先頭になって切り拓いた方に、内木文英先生がおられる。この日も研究会に出席されて貴重なご意見を述べられていた。先生は高齢になられたが今なお精力的に演劇教育に携われている。「私の高校演劇(上・下)」(晩成書房)をはじめとする著書があり、また、多くの要職に就かれていて、韓国と日本との高校演劇交流の中心人物としても尽力されている。周知の通り、演劇上演は多額の費用が掛かり、しかも商業的なものでない場合、出費は当事者負担である。行政の支援もほとんど無い。先生は、個人的な負担を厭わず東奔西走され、今月、世田谷パブリックシアターで、韓国の高校生による上演を実現させた。舞台写真をお見せになり、本番の様子を話して下さる先生のお顔は耀いていた。久しぶりにお会いしたので、会の終了後、お誘いを受けた。江古田駅近くの小料理屋でおいしい豆腐と秋田の酒をご馳走になった。
さて、今回のテーマは、「なぜ表現教育に取り組むのかー高校の教育現場からの提言―」だった。5人の報告者が教育実態の調査や現場での教育状況を語り、参加者からの意見・感想の交換もあって、4時間を越える熱心な会となった。演劇的手法による社会科・国語科の授業実践の工夫、表現科・演劇科におけるカリキュラムの実際や生徒指導の試行錯誤などの実例をめぐって討議が重ねられたのである。生徒の主体的学習の促進、読解など学習内容の定着、コミュニケーション力や自己表現力の育成、劇表現や舞台芸術・映像作品発表など芸術創造の体験。これらの教育実践は、生徒たちの学習意欲を増進させ、表現力を引き出し、個性を磨くことで生きる力を身につけさせる基盤となっている。
しかし、その教育現場は様々な問題も同時に抱えている。第一に、演劇が教育課程に取り入れられ各地で授業が行われ始めたのは最近のことであり、またその数も限られているため、教育委員会・管理職・同僚の教員たちの理解や協力を得られにくいということ。第二に、担当する教員自身、演劇の経験が必ずしも豊かではなく、具体的な指導方法が手探りであること。いきおい、演劇人など専門家?を社会人講師として招き、ティームティーチングを行うことになる。その場合、その講師の教育者としての資質が問題となる場合や生徒とのトラブルが起きるケースもあり、経済的な保証も薄いこともあって、長続きしない例も少なくない。第三に、保護者たち(学校サイドも)は、進路のことが念頭にあり、演劇教育の実効性に疑問を感じ、受験にとってマイナスであると考えること。
このように社会的認知度が低いことは、演劇教育の歴史の浅さが主たる要因である以上、授業を担う当事者が自らの経験を積むことで指導力を向上させ、教育効果を上げて、その実態を周囲に認めさせることが必要不可欠だと思われる。また、演劇の専門教育の場合については、演劇教育に関心のある演劇人に対する「教育実習」を実施することで、教員免許に準ずる資格を与えるなどの教育行政の対応も求められよう。外部講師と専任教員とによるティームティーチングではなく、専任教員単独による表現教育と、「資格」を取得した演劇人講師による演劇教育が行われるようになって初めて「社会的認知」も得られるのではないかと考える。ちなみに、私は教員免許取得者と同時に演劇人として「教育現場」に立たせてもらっている一人である。
さて、演劇教育の歴史の浅さに触れたが、その歴史を先頭になって切り拓いた方に、内木文英先生がおられる。この日も研究会に出席されて貴重なご意見を述べられていた。先生は高齢になられたが今なお精力的に演劇教育に携われている。「私の高校演劇(上・下)」(晩成書房)をはじめとする著書があり、また、多くの要職に就かれていて、韓国と日本との高校演劇交流の中心人物としても尽力されている。周知の通り、演劇上演は多額の費用が掛かり、しかも商業的なものでない場合、出費は当事者負担である。行政の支援もほとんど無い。先生は、個人的な負担を厭わず東奔西走され、今月、世田谷パブリックシアターで、韓国の高校生による上演を実現させた。舞台写真をお見せになり、本番の様子を話して下さる先生のお顔は耀いていた。久しぶりにお会いしたので、会の終了後、お誘いを受けた。江古田駅近くの小料理屋でおいしい豆腐と秋田の酒をご馳走になった。