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劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

世田谷美術館、芸大奏楽堂での…

2009年03月19日 | 神奈川総合高校
 県立神奈川総合高校が輩出した人材は各界で活躍しているが、私が10年ほど舞台系講師を務めた間に出会ったかつての生徒たちも、今、芸術分野で注目を集める存在になっている。
 
 その一人、コンテンポラリーダンスのボヴェ太郎(http://tarobove.com)の公演が、世田谷美術館の主催で行なわれた。ひんやりとした気品のある大理石のエントランスホール、広い床面には透明のアクリル板が演技空間を切り取っている。仄かな光の中に浮かび上がるボヴェの身体。ゆるやかな動きは美しく、かつ内面のエネルギー・思念があふれ出る…固唾を呑んで見つめる満場の観客たち。
 Setagaya Art Museum Trance/Entrance vol.7
 『ボヴェ太郎|in statu nascendi』
 2009.3.7.世田谷美術館エントランスホール
 ボヴェ太郎は神奈川総合高校3期生だが、現在、東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科に在学中の村上史郎は、10期生である。作曲家であり打楽器演奏家でもある彼の企画が、今回、学内公募の最優秀作品に選ばれた。新奏楽堂十周年を記念しての公演だけに、関係者の一人として嬉しい限りである。史郎君は、「演劇ユニット 東京ドラマポケット」に参加している仲間で、昨夏の『音楽演劇 オフィーリアのかけら』では、音楽助監督を務め、パーカッションを担当してくれた。
 明治を髣髴とさせる格調高い旧奏楽堂に対して、新奏楽堂はモダンなデザインで1000名収容の本格的音楽ホールである。小泉八雲・志賀直哉・折口信夫の作品を素材に、オーケストラ音楽と演劇・舞踊・人形が織りなす刺激的な世界…会場を埋め尽くした観客・聴衆たちはカーテンコールで、『ブラボー!』と拍手を何度も贈った。
 藝大二十一 奏楽堂十周年 第四回「奏楽堂企画学内公募」最優秀企画
 『怪談~前衛音楽が語る怪奇な物語~』
 2009.3.14.東京藝術大学奏楽堂
 ■公式サイト:http://geidai.kimodameshi.com/ 

 活躍する二人を支えているのも、神奈川総合高校の卒業生たちだ。ボヴェ太郎の公演では照明:深瀬元喜(1期生)。村上史郎の企画作品では出演:甲斐田裕子(1期生)、美術・照明:青木拓也(5期生)、演奏者統括/ヴィオラ:神原いづみ(10期生)。皆、プロとして活動し、将来を嘱望されている新進芸術家たちである。

 *写真上は、ボヴェ太郎公演のチラシ。写真下右は、藝大学内公募公演のチラシ、新奏楽堂と旧奏楽堂の外観。


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教育のリレー、軌道に乗る

2007年03月17日 | 神奈川総合高校
 新しく始めようとする事業の場合、それが個人的なことであれ、組織的なことであれ、初めからハード面が用意万端整っていたり、ソフト面が充実していたりするわけではない。活動目標や基本的なコンセプトを常に心に置きながら、実践を積み重ね、その結果の一つ一つに向き合い、相手や周囲の反応を確認しながら前進するしかない。真剣に誠実に行動したとしても、必ずしも思い通りの結果が得られるとは限らない。自分の力不足を突きつけられることもある。しかし、そうした試行錯誤を繰り返すことで、よりよい実践方法やあるべき対処の仕方を学習できるものである。
 神奈川県立神奈川総合高等学校(写真左)は、神奈川県初の「単位制による全日制課程・普通科高校」で、その後の県下の<総合高校設置>のパイロット校的役割を託されて創立された。私は、1995年4月の開校時からこの学校に勤務し退職するまでの11年間、現場の実情に即した授業運営と演劇の世界を生徒たちと共有する中で、「教育の場というものは、教師と生徒が互いに作用し合って創り出すもの」というごく当たり前の事を学んだ。
 4年ほどで辞めるつもりだった私が、その後7年も在職したのには理由がある。
 一つは、演劇教育の運営システムの確立である。本校には、照明・音響設備が整った固定席463のホール施設があり、学校行事や演劇・ダンスの授業、クラブ活動等に利用されている。そのホール利用を技術面で支えているのが、「ホールスタッフ」という生徒たちのボランティア組織である。彼らの技能向上と安全管理を当初の目的として、集中講義「舞台技術」が開講され、また、「基礎演技」「身体表現」の履修生徒が出演する‘舞台系発表会’のスタッフ活動を対象に「舞台実習」が新たに設置された。こうした教育実態に即した科目の拡充ばかりでなく、学校管理職・教職員の理解と認知と協力、生徒たちとの綿密なコミュニケーションが定着するには相当の時間を要したのである。
 今ひとつは、後継者の問題であった。演劇科目を担当する私と、開校当時からボランティアで協力し、後に「舞台技術」の講師を務めてくれた二人の友人(照明と音響の専門家)に代わる人材探しである。草創期の私たちに代わる新たな教育スタッフの条件は、教育者としての資質・演劇や舞台の専門知識と技能・本校のシステムの熟知、その三つを全てクリアしていなければならない。有り難いことに、本校出身で優秀な三名の方が引き受けてくださった。大学時代に既に専門家として活動されていた方たちばかりである。非常勤講師の報酬は手厚いとは言えない。しかも、演劇に関する指導は、規定の週1回90分ではとても収まらない。それでも母校のために、他のお仕事を調整しながら全力を尽くされているのを拝見すると、有り難い気持ちで一杯になる。かつての教え子が最良の後継者になって下さり、安心してバトンタッチできた私は幸せ者である。

写真右は、3月12日「第11回舞台系発表会」本番終了後の(左から)水谷先生・久保田先生・青木先生。


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自分だけが生み出せる世界を

2006年12月24日 | 神奈川総合高校
 19歳の頃、銀座の貿易会社に勤めながら、私は生きる意味を掴めずにもがいていた。当然のことながら、自分など足元にも及ばないほど語学の出来る社員が大勢いた。自分の存在価値って何だ?取り柄の無い高卒のサラリーマンとして、これから一生通勤電車に乗り続けるべきなのだろうか?「自分にしか出来ないこと」って無いのだろうか?幸運にも、それを考え、自分を見つめる時間を持つことが出来た。21歳から25歳までの大学での4年間だった。(ブログ記事メニュー「随想」の中の「デリケート・バランス(上/中)」に詳述)
 60歳を越えた現在も、私は収入を他で得ながら演劇という仕事(生計とは別立ての)を続けている。その生活パターンは学生時代と変わらないが、変わったことと言えば、作る芝居のレベルが少し上がったことと、アルバイトが牛乳配達員から掛け持ちの非常勤講師に変わったことぐらいである。「自分にしか出来ないこと」「自分だけが創り出せる世界」それを求め続けていることに変わりは無い。
 さて、大学を出て38年、体力的には年相応になってきているが、人間、気だけは若いものである。自分と同じ「創造に夢をかける」若い人たちの活動には「アンテナ」が直ぐ反応する。先日、昼は東京、夜は横浜を会場とする「創作発表」に足を運んだ。
 神奈川総合高校出身のKS嬢からの案内ハガキを手に、丸ノ内線・中野坂上駅に降り立った。東京工芸大学映像学科映像造形研究室三年「進級制作展」(12.15-16/東京工芸大学中野キャンパス・芸術情報館)を見て回る。動くアニメーション、飛び出す映像(備え付けのメガネ使用)、オブジェと照明によるディスプレイ、モニター上に展開するゲーム、映像とサウンド(ヘッドフォン使用)による作品など、若者の創作意欲に素直に感動した。このような世界があることは知っていたが、目の当たりにしてみて改めて面白いと思った。KS嬢と大学内のピロティ(1F)で缶コーヒーを飲みながら「創作への夢」を語りあった後、横浜へ向かった。
 JR関内駅から5分、横浜・創造界隈ZAIM(写真)に着く。やはり神奈川総合高校出身で、舞台美術家として活躍中のAT君がスタッフとして参加している「AAPA+『アウェイ街区―Away at Quadro』」公演だ。古色蒼然たる建物の外見、一歩足を踏み入れると、芸術の雰囲気に包まれる建物内部、発表会場の工夫された空間設定、照明効果。…二人のダンサーによるゆったりとした世界、ソロダンスの鋭く激しい身体の耀き、優しく語り掛けるようなジャズのサウンド…。あっという間の2時間ほどが過ぎ、ロビーに出演者たちが出てきた。コンテンポラリーダンスのNM嬢とSY嬢、小編成バンドのヴォーカルTR嬢も、神奈川総合高校在学当時、舞台系科目の教師だった私とは顔馴染である。楽しくも嬉しい再会となった。
 かつて、教師と生徒という立場で出会った私と彼・彼女たちだが、今は創造活動を通して「自分だけが生み出せる世界」を実現しようとする者同士である。近い将来、一つのプロジェクトの基に集い、共に舞台作品を創造する仲間となること、そんな嬉しいことを夢想した一日となった。



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木佐貫さんのダンス教育への情熱

2006年11月23日 | 神奈川総合高校
 教え子たちから自分が関わっている公演案内を度々もらう。今回は、桜美林大学総合文化学群に学ぶ神奈川総合高校卒業生が参加しているダンス公演(11/15~19)だった。照明プランナー/HT嬢(6期)、演出助手/MF嬢(9期)、ダンサー/KA嬢(8期)の面々。私は11月18日14:00の回に出掛けた。
 会場は大学関連施設であるPURUNUS HALL(プルヌスホール)[写真]。現代演劇やダンス公演にふさわしい最新設備の整った200席の劇場空間である。(http://www.obirin.ac.jp/prunus/index.html)
 さて、OPAP vol.22「song for sand 」は<scene-1 熱砂>から始まった。迫力あるサウンドをバックに、総勢22名が蹲踞(相撲の立ち会い前の低い姿勢)の体勢のまま一糸乱れず飛び跳ねるオープニングは、圧巻だった。ホリが開かれ、縦一列の仕込みのライトが舞台に射し込む演出。生明かり主体の、色彩を抑えた照明。シーン毎のスムースな変化、ソロダンスを追う移動する「転がし(舞台上に置かれた灯体)」というアクセント。照明ばかりでなく、小道具の使用も演出上のアクセントになっていた。「パラソル・三輪車・箒」。また、ベージュ・グレーの衣装に裸足を基本としながらも、時に「赤と黒のTシャツとハイヒール」という扮装も観客の目を楽しませた。
 <scene-10 連砂>まで75分間の緩急自在な構成。流動的で力強いダンス。しなやかな身体の動き。ビートの利いた音楽。実に切れ味の良いパフォーマンスだった。
 終演後、エントランスホールは出演者たちと観客との交流の場となった。私も3人の教え子たちと久しぶりに会い歓談の時間を持てたが、その話の中で、これだけの作品を創るまでの舞台裏を訊くことが出来た。
履修者を対象に行われた「オーディション」で選ばれたメンバー。ダンスの正規の授業は週1回だが、8月下旬からは、週3回の指導を受けることが出来た。それ以外に、学生たちは、毎日、放課後夜遅くまでの自主レッスンを積み重ねたと言う。話を聞きながら、彼らのがんばりはもちろんのことだが、私は指導者の実践力に思いを馳せた。
 今回の公演の演出・振付は木佐貫邦子氏。(http://www.kisanuki.jp/top.html)木佐貫さんはこの大学の助教授を務めておられるようだが、長い間活躍されてきた現役の舞踊家である。私は1982年に始まる実験的ソロダンス「てふてふ」シリーズが渋谷の小劇場ジャンジャンで公演されたことを鮮烈に覚えている。日本を代表するダンサーの一人から指導を受けられる学生たちは幸せである。
 一つの舞台作品を学校(大学)という教育現場で生徒(学生)を指導しながら作り上げるのは大変なことである。精神のタフさとエネルギーと時間が求められると同時に、指導者の人間性と才能も関係者を惹きつけなければならない。私も微力ながら演劇教育に関わってきた者として、そのことを痛感している。指導の成果は、発表会に如実に表れる。木佐貫さんは舞踊家に止まらず教育者としても素晴らしい存在であることを示された。教え子たちとの歓談の後、木佐貫さんと立ち話をすることが出来た。言葉を交わしたのは初めてである。その幸運に、20数年前の「渋谷ジャンジャン」が蘇ってきて体が熱くなった。


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教え子のおかげで早慶戦を観る

2006年11月04日 | 神奈川総合高校
慶應義塾三田キャンパスの中庭で、応援部が早稲田の校歌「都の西北」を演奏し、チアガールと一体となって高吟している。対戦校にエールを送る練習だ。昼休みでもあり、周囲には学生や教職員たちが幾重にもなって見物している。3限目の「映画演劇論」の授業に向かう私も、しばしの間足をとめる。迫力のある音の響きが体全体に伝わってくる。名状しがたい感情が呼び起こされ、一瞬、学生時代に戻っている自分がいる。
折しも「神奈川総合高校稲門会・慶應大学総合生PRESENTS」が企画された。神奈川総合高校の卒業生で早稲田と慶應に在籍する学生たちが、昼間は神宮球場で敵味方に分かれて応援合戦をし、夜は合流して飲もうという会である。10年間演劇を教えていた私にもお声が掛かったのだ。企画者は神奈川総合高校稲門会代表のKU嬢で、慶應側の幹事は同期のKK君である。
私が早慶戦を観に神宮球場に行くのは初めてである。40年ほど前、早大生になったが、3年間社会人生活を送った後で入学したこともあり、同期生たちと「青春」を楽しむ気分にはなれなかったし、学業以外の演劇活動に夢中だったこともあり機を逸していた。それでも、当時早稲田は八木沢という投手を擁して完全優勝したことぐらいは記憶している。
「早慶戦」の最初の記憶は、小学4年の頃まで遡る。その頃、父はまだ存命で、薄暗い六畳間で飴色のラジオ(ゼネラル製)から流れてくる好試合に耳を傾けていた。確か慶應のエースは「巽(たつみ)」という投手だったと思う。父は慶應の理財科(現・経済学部)出身であり、私も子供の頃は丸く平らな慶應帽が好きだったが、母と出席した入学式で被ったのは早稲田の座布団帽だった。
 さて、今回の早慶戦(10月29日。2006年秋季リーグ戦・慶大―早大2回戦)は、素晴らしい試合だった。慶應2-1でリードしていた9回裏に早稲田が同点とし、延長12回に4-2でサヨナラ勝ちをしたのである。私は、途中から観戦したため、外野席で応援することになったが、KU嬢が運んでくれた生ビールを飲みながら、思い切り「都の西北」と「紺碧の空(応援歌)」を放歌高吟した。暮れなずむ秋の空のもと、気分爽快であった。早稲田席にいたため、慶應を応援することは控えたが、あの子供の頃にラジオを聞きながら覚えたのは慶應の「若き血」であったことを付け加えておきたい。また、夜は新宿のお好み屋にみんなで繰り出し、勝敗の結果はあっさり超えて乾杯し、神奈川総合高校での思い出話や教育・芸術・人生を語り合った。時間はあっという間に過ぎ去り、またの再会を誓って別れたのである。
 KU嬢は、北海道帯広に本社を置く会社に就職が内定したそうである。しばらく北海道を訪れていないので、機会を作れたら帯広まで足を伸ばしたいと思っている。


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