劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑺

2021年10月11日 | オペラ
Ⅱ「歌曲と歌劇」①
 前回<Ⅰ「言葉と音楽」>は、「ヴォーカリーズ」という歌詞を伴わずに母音のみで歌われる作品やフランス語が分からない外国人観光客相手にレストランのメニュー表を歌って感動させた場末の歌手のエピソードを例に、声楽は詞がなくても成立するという事実を示した。しかし、歌曲や歌劇にとってそれらは例外中の例外で主たる対象にはならない。その基盤はあくまでも「言葉=詞」と「音楽」という二大要素によって成り立っているため、前者=詞の精神的受容は必須条件となる。
 以前、音楽系大学における詞に関する表現教育(文学的理解と人物表現)がおろそかになっている点に触れた【「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑷】。クラシック歌手は、歌う以前に、五線譜を目にする以前に、詞の言葉と描かれている世界・人物の把握とその心情に対して深い理解・共感を持つよう心を砕いているのだろうか。
 歌詞は、演劇・映画では、脚本のセリフにあたる。演出家や監督は、「そのセリフが言えるか」「その人物の心の痛みや喜びを体現できるか」を念頭に配役を決める。俳優個人の外見や性格・キャリアばかりでなく、人間としての幅や深さ個人史まで考慮に入れる。なぜなら、その配役によって舞台や映画の成否が決定されるからである。
 国民的映画「男はつらいよ・第一作」を例にとろう。山田洋次監督は敬愛する黒澤明映画の中心俳優・志村喬を特別出演として迎えた。場面は主人公寅次郎の妹の結婚披露宴。息子と疎遠になっていた新郎の父親の挨拶。無口で不愛想に見えた大学教授は訥々と語りだす。『この八年間は、私達にとって長い長い、冬でした。…そして今ようやく皆様のおかげで春を迎えられます。…』心の底から絞り出すような言葉に“寅さん”は心打たれ、映画の流れはがらりと変わる。出演時間数分のシーン、わずか数行のセリフだが、俳優の演技力と存在感でその人物の実在感がスクリーンいっぱいに表された。監督が配役にかけた思いが実ったのである。
 クラシック音楽に話を戻そう。映画・演劇における脚本の台詞と同様に、歌曲や歌劇の詞にも創作者の魂が込められている。したがって、声楽家はその詞(ことば)を全身で受け止め自身が共感しその人物を体現できる状態になってから楽曲に向かってほしいのである。
 山田耕筰は少年時代、教会の施設で過ごし孤独な日々を過ごした。活版工場で働きながら夜学に通った。自伝で「工場でつらい目に遭うと、からたちの垣根まで逃げ出して泣いた」と書いているが、この思い出をもとに北原白秋が作詞し山田が作曲して『からたちの花』が生まれる。

 からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ
 からたちのとげはいたいよ 青い青い針のとげだよ
 … 
 人間はつらい思いをしても暗い顔をしているとは限らない。むしろ表面的には明るくふるまうことが多い。内面に寂しさや切なさを抱きながらも笑顔を見せるものだ。この『からたちの花』の歌唱に当たっては、やさしく美しく歌いつつも「人物の孤独と痛み」を心の中いっぱいに広げておいてほしい。何人もの有名歌手の演奏に接してきたが、美しいソプラノを聴かせてもらえても、人物が「白い花が咲いたよ」「とげはいたいよ」とニコッとするイメージは現れないし、無邪気な笑顔の陰にある寂しさを想像させてはくれない。なぜなのか。声楽家としての「詞に接する姿勢」と「自らと詞の世界との共振」が問われることになる。
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