劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

あの日がなかったら~駆け付けてくれた先生(1)

2016年03月21日 | 随想
 かつての勤務校・県立神奈川総合高校に校内紙「スイミー」があり、教職員が生徒に向けてエッセイを寄稿していて、私も折に触れて小文を書いていた。
…だが、自分の存在を確かめ肯定できるようになるには、「親の愛」だけでは足りない。「他人の愛」が注がれてはじめて、人は社会性を獲得できるのだ。肉親ではない他人の愛の中心をなすものは、まず教師の愛である。特に初等中等教育段階で出会う先生は、生徒の精神的な支柱になる場合もあれば、人間不信の体現者となる場合もあるという重大な影響を与える存在である。子どもに愛情が持てない親のもとで育つ悲運と同様に、愛を知らない教師に出会った生徒の精神は歪み易い。…

 私は幸運にも母の愛に恵まれ、成長期の節目節目で恩師の厚情を受けたことで、人間として自立できた。戦後の政治体制が揺れ動き貧しさから抜け出ようとあがいている時代だったが、モンスターペアレントや責任逃れ教師が闊歩し日常化している今日から見ると、働く背中を見せてわが子を育て、人としての心をもって教え子に接した大人たちに囲まれて育った「昭和の子どもたち」は幸せであったに違いない。
  
 大場喜俊先生は、九州長崎県大村市から神奈川県横須賀市に赴任された青年教師だった。昭和30(1955)年、横須賀市立汐入小学校5年3組のクラス担任になられ、翌年6年3組も持ち上がりの受け持ちとなった。おおらかで明るく楽しい先生だった。
 授業中、脱線して面白い話をたくさん聞かせてくれた。流れる川の上に設置された「厠(かわや)」の構造や落とし紙を使わず藁縄をまたいで動きながら尻をふく方法など、いわゆる下ネタを今でも覚えている。体育教育にも熱心で、跳び箱を全員跳べるまで放課後も子どもたちと一緒だった。女好きであり、学校近くの居酒屋の常連でもある。私たち生徒はそんな人間味のある先生が大好きだった。しかし、当時、学校の環境は教育上好ましいものではなかった。今やTVにも登場する「ドブ板通り」が学校のすぐ近くにあり、嬌声を上げる米兵の腕にからむ女たち(パンパンと呼ばれ蔑視されていた)であふれ、連れ込み宿(温泉マークとの隠語があった)が汐入の街のそこかしこにあった。戦争で父親を失った子どもや貧困家庭は珍しくなく、唯一のデパートさいか屋の付近には浮浪児もいた。5年3組の中にも欠損家庭はあったので、大場先生は家庭訪問に熱心だった。休みがちの生徒や態度がおかしい子どもに気づくと、汐入二丁目、五丁目と出掛け、母親と話し込んで教え子の身を案じた。
 私の家は、汐入町ではなく、緑ヶ丘という高台にあった。父は、米駐留軍の武山キャンプで通訳兼マネージャーとして勤務していたが依願退職して、それ以後働かなくなった。代わりに母が、お茶の販売・クリーニングの注文取り・ホテルの賄い婦などをして生計を支えた。そんな中、異変が起きる。葬儀に天皇の勅使が立った祖父との確執や重圧から終生自由になれず、晩年精神のバランスを崩した父がある日の夕方、家を出ようとしたのだ。母は仕事に出ていて止める者がおらず、私はやむなく父に付き添って家を出た。一晩中、汐入の山中を彷徨い、翌朝、逸見の食堂で腹ごしらえをした後、横須賀線で東京に出て、祖母と叔母一家の住まいである西荻窪の屋敷で日中過ごし、結局、その日の夕方、緑ヶ丘の自宅に戻った。
 玄関に立った小5のわが子を見るなり、母は強く私を抱き寄せた。携帯はもちろん、自宅にも電話がない時代である。どんなにか心配し心を痛めていたことだろう。その母から『大場先生が二度も来てくださったのよ。佐野君は帰りましたか、って』と聞かされた。
 私はこの時、自分を思ってくれる他人の存在を知った。そして、「先生」という存在に対する親近感と信頼感を与えられ、その後に出会う恩師たちとのつながりの地盤を築けたと思っている。もし、あの日、大場先生が学校から高台の家まで石段や坂道を上り駆け付けてくれなかったら、「他人の愛」を知らない人生を送ったかもしれない。亡くなる十年ほど前だったろうか、同窓会の席で一枚の絵を返して頂いた。裏に「五年三組 佐野 巖」と鉛筆書きがあり、自分にしてはよくかけているように思う。


※写真上…1957(昭和32)年1月。中一の正月に大場先生の家に集まる。近くの空き地で撮影した一枚。左端にしゃがんでいる少年が筆者。


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