劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

二つの展覧会に思う~笹本恒子と村岡花子~③

2014年08月27日 | 随想
 当たり前のことだが、既成社会の一員として多数派に属しその常識の中で生きる者からは、文化は芽吹かない。世間に受け入れられ安定した地位と暮しの日々さえあれば良しとする人間には、独自性などは不要でむしろ危険でさえある。突出した存在は「出る杭は打たれる」対象となるからだ。
 安中はな(後の村岡花子)は、東洋英和女学校で十二分に異質な存在だった。名家の子女たちがここの女学生になるのはフツウのことだが、貧農出身で給費生の彼女にとっては特別のことだったのだ。当時は、華族・士族・平民という身分制度が厳然としてあり、“住んでいる世界”自体がかけ離れていたので、蔑みや好奇の眼で見られたこともあっただろう。しかし、「フツウではない」はなには、人並み外れた向学心と身につけた学問や能力を他者のために生かそうという思い、すなわち「生きる芯」があったので、どんな苦境にも心折れるということはなかった。その背景には、長女のはな以外は奉公や養子に出された兄妹が多かったという農民階級としての現実がある。はなは、いわば安中家を背負って生きていたのであって、自らの立身出世ではなく、一族の代表として社会に役立つ仕事に身を捧げようとしたのである。
 さて、前回、村岡花子の人生に親しみを感じる点がいくつかあった、と書いたが、叔母たちが東洋英和女学校の卒業生だったことの他に、私自身に関わる点が二つほどある。一つは、童話や私設ライブラリーである。幼いものたちのために抜群の語学力をもって多くの名作を翻訳した仕事に対しては足元にも及ばないが、愛息を亡くした後、自宅に「道雄文庫」を設け児童文学を愛する若者や子どもたちに開放したこと、自分の仕事を次世代へ託す思いには通い合うものがある。
 もう一つは、東京城南の馬込である。私が転居してきたのは数年前だが、村岡花子は結婚を機に大正8年から昭和43年亡くなるまで旧新井宿に居住している。大正末期からは馬込には多くの文化人が移り住むようになり一大交流地「馬込文士村」として名をとどめ、現在はその旧跡が大田区の散歩コースに指定されている。東洋英和女学校で出会った歌人柳原白蓮とともに花子を支えたもう一人の友がいる。歌人・アイルランド文学者片山廣子(松村みね子)で、明治43年からすでに新井宿に居を構えており、しかも東洋英和の出身でもあった。『王子と乞食』の原著は、花子が息子を亡くした時、廣子から贈られたものである。こうしてみてくると、村岡花子にとって「学校」は文化を芽吹かせた場所であり、「馬込文士村」は文化の花を咲かせた土地であったように思う。

 日本初の女性報道写真家・笹本恒子と児童文学翻訳者のパイオニア・村岡花子、お二人の展覧会を通じて、この人だからこそ出来た仕事、生きる芯と人間としての気品、それを深く感じたのだった。


※写真は、「村岡花子が暮らしたまち大森 馬込文士村お散歩マップ」他(大田区発行)


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二つの展覧会に思う~笹本恒子と村岡花子~②

2014年08月06日 | 随想
 もう一つの展覧会は、「モンゴメリと花子の 赤毛のアン展」(日本橋三越本店 本館・新館7階ギャラリー)。原作者のL.M.モンゴメリ1874~1942と翻訳者の村岡花子1893~1968の回顧展である。この展覧会は、もちろん単に一冊のロングセラーを生み出しそれを広め花咲かせたカナダと日本の女性文学者の紹介に止まるものではない。
厳格な家族制度の時代に、作家として自立し妻として夫を支え母として子どもを養育し、終生文学に情熱を傾けた女性という点で重なり合うこと。また、村岡花子の母校・東洋英和女学校はカナダ・メソジスト派による創立であり、文学少女だった花子はカナダ人教師やその文化に強く影響を受けて成長したこと。さらに、日米開戦暗雲漂う1939年、カナダ人宣教師ミス・ショーが帰国直前に花子に託したのが“Anne of Green Gables(「赤毛のアン」原書)”であり、それ※を戦火の中で守り続け7年をかけて翻訳出版したという両者に相通じる縁とそれぞれの人生を明らかにし、「モンゴメリ生誕140年、日加修好85周年」にあたる本年、それにふさわしい記念展として企画されたのである。
 会場は、二人の生涯にまつわるゆかりの品々や著作物、写真パネルなどに見入る客たちでごった返していた。これほどの盛況は、NHK朝のテレビ小説「花子とアン」がもたらしたものだろうし、かく言う私もその一人だ。ただ私には、村岡花子の人生に親しみを感じる点がいくつかあったことも会場に足を向かわせた理由になっている。
 まず、彼女の人生の土台を作った「東洋英和女学校」は、私の叔母たちが通った学校でもあったことが挙げられる。現在も東洋英和女学院(港区麻布)として女生徒たちが学んでいるが、戦前は上流家庭の子女が通う女学校で、海軍経理学校校長だった祖父の英語重視の教育方針によるものだったようだ。もっとも叔母たちが在籍していたのは大正から昭和にかけた時代で、花子との直接の接触はなかったと考えられる。
 安中はな(村岡花子)は、1903(明治36)年10歳で品川・城南尋常学校から編入学しているが、貧農出身の子どもが良家の子女の学校寄宿舎になぜ入れたか。その背景に、父親が熱心なクリスチャンで、2歳で娘に洗礼を受けさせている事実がある。茶商を営みながら、はな5歳の時、山梨から一家で上京している。この父・安中逸平の存在があったからこそ学費免除の給費生として入学許可を受けられたに違いない。快調に放送中のテレビ小説は脚本もよくできているが、事実の脚色に一つだけ無理を感じたのが、この女学校編入学の経緯である。山梨甲府で少女時代を過ごしていた本好きな主人公が、宗教的バックボーンを全く持っていない父親の懇願だけで、地元の牧師の推薦という設定があったにせよ、当時の女学校が受け入れるとは考えられない。ドラマにおいてはどのような虚構化もその世界を成立させるためには許されるが、これに関しては「設定」そのものに必然性に欠ける面があった。
 さて、ここで最も重要なのは、安中はなが良家子女の花園において異色の存在だったからこそ、村岡花子に成長し後世に残る仕事を成し遂げえたことである。多くの卒業生が、私の叔母たちも同様だが、社会的地位の高い夫のもとに嫁ぎ、ある人はそれなりに、ある人は生活力がないため失意の生涯を送った中で、彼女は苦難を乗り越え幸福な人生を全うできた。「東洋英和女学校」に編入学した彼女には“「生きる芯」があった”からである。~続く~

 ※写真下は、『赤毛のアン』原書と自筆翻訳原稿(記念展Official Book―村岡花子篇より)


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