当たり前のことだが、既成社会の一員として多数派に属しその常識の中で生きる者からは、文化は芽吹かない。世間に受け入れられ安定した地位と暮しの日々さえあれば良しとする人間には、独自性などは不要でむしろ危険でさえある。突出した存在は「出る杭は打たれる」対象となるからだ。
安中はな(後の村岡花子)は、東洋英和女学校で十二分に異質な存在だった。名家の子女たちがここの女学生になるのはフツウのことだが、貧農出身で給費生の彼女にとっては特別のことだったのだ。当時は、華族・士族・平民という身分制度が厳然としてあり、“住んでいる世界”自体がかけ離れていたので、蔑みや好奇の眼で見られたこともあっただろう。しかし、「フツウではない」はなには、人並み外れた向学心と身につけた学問や能力を他者のために生かそうという思い、すなわち「生きる芯」があったので、どんな苦境にも心折れるということはなかった。その背景には、長女のはな以外は奉公や養子に出された兄妹が多かったという農民階級としての現実がある。はなは、いわば安中家を背負って生きていたのであって、自らの立身出世ではなく、一族の代表として社会に役立つ仕事に身を捧げようとしたのである。
さて、前回、村岡花子の人生に親しみを感じる点がいくつかあった、と書いたが、叔母たちが東洋英和女学校の卒業生だったことの他に、私自身に関わる点が二つほどある。一つは、童話や私設ライブラリーである。幼いものたちのために抜群の語学力をもって多くの名作を翻訳した仕事に対しては足元にも及ばないが、愛息を亡くした後、自宅に「道雄文庫」を設け児童文学を愛する若者や子どもたちに開放したこと、自分の仕事を次世代へ託す思いには通い合うものがある。
もう一つは、東京城南の馬込である。私が転居してきたのは数年前だが、村岡花子は結婚を機に大正8年から昭和43年亡くなるまで旧新井宿に居住している。大正末期からは馬込には多くの文化人が移り住むようになり一大交流地「馬込文士村」として名をとどめ、現在はその旧跡が大田区の散歩コースに指定されている。東洋英和女学校で出会った歌人柳原白蓮とともに花子を支えたもう一人の友がいる。歌人・アイルランド文学者片山廣子(松村みね子)で、明治43年からすでに新井宿に居を構えており、しかも東洋英和の出身でもあった。『王子と乞食』の原著は、花子が息子を亡くした時、廣子から贈られたものである。こうしてみてくると、村岡花子にとって「学校」は文化を芽吹かせた場所であり、「馬込文士村」は文化の花を咲かせた土地であったように思う。
日本初の女性報道写真家・笹本恒子と児童文学翻訳者のパイオニア・村岡花子、お二人の展覧会を通じて、この人だからこそ出来た仕事、生きる芯と人間としての気品、それを深く感じたのだった。
※写真は、「村岡花子が暮らしたまち大森 馬込文士村お散歩マップ」他(大田区発行)
安中はな(後の村岡花子)は、東洋英和女学校で十二分に異質な存在だった。名家の子女たちがここの女学生になるのはフツウのことだが、貧農出身で給費生の彼女にとっては特別のことだったのだ。当時は、華族・士族・平民という身分制度が厳然としてあり、“住んでいる世界”自体がかけ離れていたので、蔑みや好奇の眼で見られたこともあっただろう。しかし、「フツウではない」はなには、人並み外れた向学心と身につけた学問や能力を他者のために生かそうという思い、すなわち「生きる芯」があったので、どんな苦境にも心折れるということはなかった。その背景には、長女のはな以外は奉公や養子に出された兄妹が多かったという農民階級としての現実がある。はなは、いわば安中家を背負って生きていたのであって、自らの立身出世ではなく、一族の代表として社会に役立つ仕事に身を捧げようとしたのである。
さて、前回、村岡花子の人生に親しみを感じる点がいくつかあった、と書いたが、叔母たちが東洋英和女学校の卒業生だったことの他に、私自身に関わる点が二つほどある。一つは、童話や私設ライブラリーである。幼いものたちのために抜群の語学力をもって多くの名作を翻訳した仕事に対しては足元にも及ばないが、愛息を亡くした後、自宅に「道雄文庫」を設け児童文学を愛する若者や子どもたちに開放したこと、自分の仕事を次世代へ託す思いには通い合うものがある。
もう一つは、東京城南の馬込である。私が転居してきたのは数年前だが、村岡花子は結婚を機に大正8年から昭和43年亡くなるまで旧新井宿に居住している。大正末期からは馬込には多くの文化人が移り住むようになり一大交流地「馬込文士村」として名をとどめ、現在はその旧跡が大田区の散歩コースに指定されている。東洋英和女学校で出会った歌人柳原白蓮とともに花子を支えたもう一人の友がいる。歌人・アイルランド文学者片山廣子(松村みね子)で、明治43年からすでに新井宿に居を構えており、しかも東洋英和の出身でもあった。『王子と乞食』の原著は、花子が息子を亡くした時、廣子から贈られたものである。こうしてみてくると、村岡花子にとって「学校」は文化を芽吹かせた場所であり、「馬込文士村」は文化の花を咲かせた土地であったように思う。
日本初の女性報道写真家・笹本恒子と児童文学翻訳者のパイオニア・村岡花子、お二人の展覧会を通じて、この人だからこそ出来た仕事、生きる芯と人間としての気品、それを深く感じたのだった。
※写真は、「村岡花子が暮らしたまち大森 馬込文士村お散歩マップ」他(大田区発行)