劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

佐野 英(ひで)お別れの夕べ

2009年11月21日 | 随想
 
 母、身まかりぬ。明治44年12月25日、長崎県五島列島小値賀(おじか)の六社神社宮司吉野直人の三女として生を享けてより、平成21年10月16日、神奈川県横浜市で永眠するまで、97年10ヶ月の生涯であった。
 一人息子のために身を粉にして働き、それを喜びとした人生であった。性格の明るさと楽天性、最晩年まで医者知らず健康に恵まれたこともあり、経済的余裕の無さが、息子の精神をいじけさせることはなかった。息子が交わる友人や周囲の方たちに対する愛情と感謝の気持ちは自然であった。そのため、私は心置きなく友情の輪を広げることが出来た。
 11月20日、新横浜のホテルで、「佐野 英お別れの夕べ」が開かれた。ごく身近な私の友人とこれまでお世話になった方たち、現在、演劇の仕事を共にしている仲間、そして、家族、総勢36名の会になった。横須賀商業高校時代からの親友たちと東京ドラマポケットの仲間が、準備および当日のスタッフを務めてくれたお陰で、とても充実した内容のひと時を過ごせた。母を「第二のおふくろ」と呼んでくれる大久保君の手向けのお経(彼は、教職時代から僧籍を持つ)に始まり、献花、会主挨拶、食事と懇談、3分スピーチ、在りし日の佐野 英の映像など、…2時間はあっという間に過ぎ去った。
 会主として、臨席した下さった皆様に対して「有り難い」気持ちでいっぱいだが、「食事と懇談」の時間にあらためてお一人お一人を見つめていると、そこには私自身の個人史があることに気がついた。「あなたとは、あの時、こういう日々を過ごしていましたね」「君とは、あの頃、こんなことを語り合っていたなぁ」「先生、あの日、家に飛んできてくれなかったら、僕は学校をやめていました」…この日は、母の会ではあったが、一堂に会してくださった方たちを見渡しながら、自分にまつわる一幅の絵巻物を眺めているようでもあった。


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09女学館祭・演劇研究クラス発表

2009年11月02日 | 日本橋女学館高校
  10月31日~11月1日、「日本橋女学館中学校高等学校・女学館祭」が開かれた。
新校舎での開催はやはり華やかなもので、在校生の保護者の方、たくさんの卒業生や入学を志望される中学生や保護者の方、一般の方まで来校され、にぎやかな二日間となった。
 校内の各階では模擬店や学習展示、5・6Fの多目的ホールでは吹奏楽・合唱・軽音楽・ダンス・琴などのクラブ活動の発表が続く中、授業成果発表として、演劇研究クラス2年生による『カラオケパニック』(作・担当講師久保田佑)がプログラムに組まれた。
 開演前に、新ホールの説明とバックステージ・ツアー(舞台上の案内)が行なわれ、来場された皆さんも関心を持たれたようだ。生徒たちは、日ごろの練習の成果もあって、30分のこの喜劇を見事に演じきった。このクラスの素晴らしさは、生徒同士で考え工夫し合って本番を目指す姿勢、その自主性・積極性にある。この「女学館祭公演」を乗り切ったことで、来年の「卒業公演」の土台が出来たに違いない。スタッフの一員となった演劇研究クラス1年生たちにとっても、よい刺激になったように思う。
 この日、舞台技術面でサポートしたのは、第1回の卒業公演(日本橋公会堂)以来、協力をお願いしている東京ドラマポケットの方たちである。新ホールの設計案・舞台設備・機材の調達まで中心となっていただいた羽賀氏をはじめ舞台・照明・音響の専門スタッフの方たちだが、来年度からは生徒主体で舞台技術を担当できるよう指導もしていただいた。嬉しいことに、卒業生のNさん(現在、音響専門学校在籍)が音響スタッフとして「女学館祭」終了までオペレートを担当してくれたが、このことも今回の大きな収穫であった。
  日本橋女学館高校の住所は中央区馬喰町だが、台東区浅草は目と鼻の先である。学校を後にした私は『ささやかな打ち上げを』と考え、東京ドラマポケットの仲間と共に昭和の匂いが残る町へ繰り出した。そこでも、飲みかつ語る際の話題は、やはり舞台への夢であり、創ることの歓びであった。


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