母、身まかりぬ。明治44年12月25日、長崎県五島列島小値賀(おじか)の六社神社宮司吉野直人の三女として生を享けてより、平成21年10月16日、神奈川県横浜市で永眠するまで、97年10ヶ月の生涯であった。
一人息子のために身を粉にして働き、それを喜びとした人生であった。性格の明るさと楽天性、最晩年まで医者知らず健康に恵まれたこともあり、経済的余裕の無さが、息子の精神をいじけさせることはなかった。息子が交わる友人や周囲の方たちに対する愛情と感謝の気持ちは自然であった。そのため、私は心置きなく友情の輪を広げることが出来た。
11月20日、新横浜のホテルで、「佐野 英お別れの夕べ」が開かれた。ごく身近な私の友人とこれまでお世話になった方たち、現在、演劇の仕事を共にしている仲間、そして、家族、総勢36名の会になった。横須賀商業高校時代からの親友たちと東京ドラマポケットの仲間が、準備および当日のスタッフを務めてくれたお陰で、とても充実した内容のひと時を過ごせた。母を「第二のおふくろ」と呼んでくれる大久保君の手向けのお経(彼は、教職時代から僧籍を持つ)に始まり、献花、会主挨拶、食事と懇談、3分スピーチ、在りし日の佐野 英の映像など、…2時間はあっという間に過ぎ去った。
会主として、臨席した下さった皆様に対して「有り難い」気持ちでいっぱいだが、「食事と懇談」の時間にあらためてお一人お一人を見つめていると、そこには私自身の個人史があることに気がついた。「あなたとは、あの時、こういう日々を過ごしていましたね」「君とは、あの頃、こんなことを語り合っていたなぁ」「先生、あの日、家に飛んできてくれなかったら、僕は学校をやめていました」…この日は、母の会ではあったが、一堂に会してくださった方たちを見渡しながら、自分にまつわる一幅の絵巻物を眺めているようでもあった。