「本物に触れてその深さや豊かさを知り、その上で現状の問題点やその原因をつかみ、将来への展望を見出す」とは、まさに「温故知新」であり、先人たちが古典を修め新たな時代の文学を模索していった過程と軌を一にする。
江戸から明治へ近世から近代への変革の時代に、夏目金之助は文部省派遣第一回留学生としてロンドンに渡るが志半ばにして帰国。小説家夏目漱石の誕生はその5年後1905(明治38)年『吾輩は猫である』(俳誌『ホトトギス』)であるが、その背景にはノイローゼや胃病に苦しむ彼を支え続けた親友正岡子規の存在がある。子規は漱石の文壇デビューを知ることなく、その3年前に『病狀六尺』を書き終え脊椎カリエスのため他界している。江戸から続く発句・俳諧の世界を「近代俳句」として確立した正岡子規は、明治に生きる近代人の孤独を「小説」として描いた文豪漱石の生みの親ともいえる。なお、この二人は次の時代を担う門人たち(岩波茂雄・芥川龍之介ら/河東碧梧桐・高浜虚子ら)も育てている。この近代に続く現代も時代の潮流に即した「現代小説」や「非定型自由律句」が、また文学のみならず美術・音楽・演劇など新たな芸術運動が起きている。
では、改めて伝統芸能の世界に目を転じてみよう。ここには上記の文学や芸術とは異質の困難が立ちはだかっている。「温故知新」の対象が生身の役者や力士であること、加えて、伝統の継承という役割があるということだ。前々回に触れた歌舞伎と大相撲の場合、かつては輝いていた型と気品・存在感、それらが薄らぎ失われていったのは「時代の変化に伴う意識と身体性の問題」および「舞台を見上げる見物(観客)の鑑賞眼」と考えたが、それらは時代の流れとともにどのように変化したのだろう。
「舞台に立つ役者と土俵に上がる力士の意識と身体」の問題は、彼らを取り巻く名人や花形の存在が及ぼす影響と生活様式から受ける身体への影響が考えられる。1960~70年代、国立劇場開場や蔵前国技館時代には名人や花形が健在であったが、高度経済成長の波はテレビ放送網を張り巡らせCMにも役者や力士が出演するようになり、次世代を担う者たちは「舞台/土俵」以外でも観客・見物とつながれるようになる。かつては劇場において直接的で濃密であった関係はテレビ画面で認知され、その知っている人が舞台に出ているという間接的関係に変質させられた。中堅・若手役者たちは稽古場と劇場のみに身を置くことが難しくなり、先輩たちから薫陶を受ける時間が十分に持てないうちに居並ぶ名人たちは他界していった。また、芸に集中する意識の問題の他に身体の問題も深刻だ。畳からフローリングへ座布団から椅子へ茶の間からリビングへ、生活様式が変化したことで、「座る・かがむ・立つ・構える・歩く・小走りに進む・跳ぶ」の伝統的所作が体に馴染んでいない。そのため、「腰が決まらない」のである。人気劇団との交流や企画公演で観客の裾野を広げることも理解はできるが、本職としての修業をおろそかにしては本末転倒である。これは当時の中堅・若手(現在の花形・大御所)の責任ばかりではない。時代の要請に応えようとした興行会社、そして、われわれ観客・見物の意識の問題でもある。
相撲界に目を転じても、「意識および身体の問題」は当てはまる。怪我が多く、膏薬やサポーターを付けたまま土俵に上がる者が絶えない。全横綱連続休場というフアン無視の興行の在り方。近年の日本相撲協会の責任は大きい。もちろんここにも高度経済成長期の影響がある。戦後の復興期までは、農業・漁業など第一次産業が主流で自然と肉体は鍛えられ、子供たちも労働の担い手だった。娯楽は相撲と野球で、少年たちは花形力士にあこがれ、村の期待を担って相撲部屋に入門し故郷に錦を飾ることを夢見た。
昭和、平成を経て、年号は令和となった今日、社会は大きく変容し「立身出世」などのモデルは失われ、人間の生き方さえ根源的に問われている。そうした時代だからこそ「本物に触れて深さを知る、すべてはそこから」を考え、未来を切り拓く展望を得たいと思う。
※写真は、現在の歌舞伎座(東銀座)と両国国技館。