劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

少年時代夢中になった「プロ野球」

2016年02月13日 | 随想
 大相撲と並んで、夢中になったのがプロ野球の巨人軍だった。とりわけ、「打撃の神様」と呼ばれ、背番号16が巨人軍の永久欠番となった川上哲治選手。熊本工業時代の同期生吉原正喜とバッテリーを組み、夏の全国中等学校野球選手権大会(現在の夏の甲子園)で二度の準優勝、1938年に東京巨人軍に入団するが、巨人軍が欲しかったのは「名捕手」吉原の方で、吉原が『川上と一緒でなければ』との一言があったため入団できたと言われている。川上も「自分は刺身のツマだった」と認めている。しかし、「名捕手」とうたわれた吉原選手はビルマで戦死、生き残った川上は投手から一塁手に転向して「弾丸ライナー」を飛ばす大打者となる。
 小学生ファンだった私に野球の面白さを教えてくれた「お兄ちゃん」(母親同士が友だちで、同じ境遇だった弟分を可愛がってくれた)の影響もあって、当時からそれぐらいの知識は身につけていた。
 巨人軍のナインは、次の通り。投手は、カーブの別所・スライダーの横手投げ大友・ドロップの長身堀内・サウスポーの中尾・義原。捕手は、広田・藤尾。一塁手は川上、二塁手は内藤、三塁手は岩本・土屋、遊撃手は広岡、左翼手は与那嶺、中堅手は十時・加倉井、右翼手は南村と記憶している。チビだった私はピッチャーの投法やバッターの打撃フォームを真似したし、野球帽にTとG、YとGのマークを自らフェルト生地を切り抜いて張り付けたりもしていた。それが高じて、(お兄ちゃんの指導で)スコアブックをつけるまでになった。シミのついたそれが今も残っているということは、「少年時代の自分」が捨てられなかったということだろう。
 特に脳裏に刻み込まれていることが二つある。
 横須賀の下町、市役所と郵便局と警察署とに囲まれた児童公園の一隅に街頭テレビが設置されていた。プロ野球中継=日本テレビが始まると、大人も子どもたちも固唾をのんで見入った。
 1956(昭和31年)3月25日、後楽園球場。3-0で、中日ドラゴンズのリード。9回裏一死満塁。投手はエース杉下、打者はピッチャー義原の代打の樋笠選手。消える魔球フォークボールを初めて日本で身につけた杉下だがその時は投げずに直球で押した。それを見越した樋笠のバットが一閃すると、打球はレフトスタンドへ吸い込まれていった。4-3巨人の勝利でゲームは終わった。「代打・逆転・サヨナラ・満塁・本塁打」この5条件がそろった史上初の一振りだった。その瞬間を目撃できた者は、誰もが一生忘れられない場面であろう。
 1958年(昭和33年)プロ野球日本選手権シリーズ、読売ジャイアンツ対西鉄ライオンズの第7戦。3戦目までは3-0で巨人がリードしていて、あと1勝で優勝というところで、雨で一日順延となった。私は嫌な予感がしていた。それが的中する。西鉄の守護神稲尾和久投手は肩を休められ、まるで高校野球のように連投に次ぐ連投が可能になった。ホームランまで打った稲尾は「神様、仏様、稲尾様」と書きたてられた。4・5・6戦と西鉄が勝利しタイスコアに持ち込んだ後の最終戦。勢いというものはどうしようもなかった。10月21日後楽園球場で、6-1で西鉄の逆転優勝。 これをもって魔術師・三原監督は、勝負師・水原監督に引導を渡す。巨人軍は現役を引退した川上哲治が監督となり、V9時代を生み出していく。長嶋・王が看板選手となって新たな黄金時代の幕を上げることになるのである。
 大相撲ばかりではない。プロ野球にも個性的で迫力がある魅力的な選手がいなくなった。スマートだけれど味が薄いのである。スポーツばかりでなく、流行歌手も役者も蒸留水のような印象があるのを否めない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする