劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

大人の時代が生んだテレビの名作脚本

2011年12月23日 | 随想
 脚本家・市川森一さんが亡くなった。
 テレビでは『蝶々さん~最後の武士の娘~』が放映されていて(原作・脚本/市川森一/NHK-BS12月17・18日)、そのドラマを見ながらいくつもの感慨が胸に迫ってきた。
 作者は長崎県出身で私の母の生地も長崎、主人公が入学を夢見た活水女学校は母方の祖父が教鞭を取った学校、そんな意味でも身近に感じつつ作品と向き合った。「日本人の美しさとは、生きるとはどういうことか」画面を通して市川さんの魂があふれてくるようなドラマだった。
 市川脚本に出会ったのは、第一回向田邦子賞の対象作品『淋しいのはお前だけじゃない』(1982)あたりだが、最も印象に残っているのは、都電荒川線沿線を舞台にした『面影橋・夢いちりん』(1989)である。写真はその掲載誌であるが、当時の「ドラマ」編集人・辻 萬里君は、大学演劇科の同期生である。彼と、この作品内容の新鮮さと深さを語り合ったことを覚えている。
 ドラマが、制作される時代や社会・家族と個人を描き出し、時代を超えた人間の本質まで迫る作品は、娯楽を超えた芸術に違いなかった。映画館ではなく、家庭の茶の間に送るテレビドラマが生涯にわたって視聴者の胸に残ることは稀有である。
 市川さんが受賞した向田邦子賞の由来は、もちろん名作脚本を次々と世に問うた向田邦子さんにある。昭和56年(1980)珠玉のエッセイにより直木賞を受けられて間もなく、台湾航空機墜落事故に遭い51歳で亡くなった。その時は本当にくやしい思いで一杯だった。『七人の孫』(1964~)からのファンだったが、私にとっての傑作は『阿修羅のごとく』(1979)『幸福』(1980)である。人間の表面を引き剥がし、女性の「性」をあぶり出した世界は、テレビドラマに‘毒’を吹き込んだともいえる。
 当時「シナリオライター御三家」と呼ばれたのは、向田さんと倉本さんと山田さんである。『北の国から』(1981~)で大ヒットを飛ばした倉本 聰作品で印象に残っているのは、『ばんえい』(1973)と『6羽のかもめ』(1974)である。山田太一さんの場合は、視聴者を釘付けにした『岸辺のアルバム』(1977)のほか、『想い出づくり』(1981~)と『ふぞろいの林檎たち』(1983~)が忘れられない。もちろんこうした方々の他に、『夢千代日記』(1981~)『花へんろ』(1985~)で、情感豊かに‘痛い’ドラマを書き続けている早坂 暁さんをはじめとする優れた脚本家がいる。
 私の心に今なお生きているこのドラマたちは、東京オリンピック(昭和39年1964)から昭和の終わり(昭和64年1989)までに書かれている。平成の今年、立川談志さんも他界され、落語の名人は全て消えた。大人の時代がどんどん遠のくようで寂しい。


コメント
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