劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

ウチで描く、ソトで創る(三)

2006年10月07日 | 演劇
 「作・演出」タイプの私が、今後は「作」と「演出」とに仕事を分ける、ということについて具体的に述べてみようと思う。「作」の場合は、集団を持たずに戯曲を個人として発表する。「演出」の場合は、演劇制作集団におけるスタッフの一人として脚本を書き演出をする。…ということになるのだが、ここで明らかにしたいのは仕事に対する自らの在り方や関わり方ではなくて、劇作そのものへのアプローチの違いについてである。
 「作」の場合は、劇文学として自立した戯曲であり、読者は文学作品として、そのセリフやト書きによってそこに描かれている劇世界を鑑賞することが出来る。劇作法としては、ストーリー(物語)やプロット(劇的連関性のある筋)によって劇を進行していくもの、若しくはストーリーやプロットに依らずに或る状況設定の中での人間存在を示すもの(例えば、S.ベケット『ゴドーを待ちながら』)などが考えられる。
 それに対して、「演出」(=私が「作・演出」を担当する)の場合は、文学として自立する作品ではなく、演技や演出(美術・照明・音楽など)の設計図であり、音楽におけるスコア(総譜)に近いものかも知れない。「演劇という総合芸術の中核としてその構造を確定する」脚本と言えるだろう。たとえセリフやト書きという戯曲形式は残ったとしても、そこに一貫した筋や物語があるということにはならない。例えば、一見して脈絡のないシーンが連続するコラージュや入れ子細工のような劇中劇などが考えられるが、読者は脚本の文面を表面的に追っていっても、そこに表現されようとしている劇世界を総合的に把握することは難しい。セリフはその意味内容より、それを語っている人物自身の状況を示す一要素として機能する。俳優の演技は、言葉のみならず表情や動きなどを含めて、人物の写実的な再現ではなく、「設計図・スコア」の中心に位置して、与えられた「役」を瞬間的に生きる人間の表徴なのである。
 換言すれば、「作」の場合は、戯曲として自立した作品なのでその劇構造は固定されており、私以外の演出家が独自の切り口で自由に舞台劇に仕上げられるが、「演出」の場合は、「設計図」に止まる脚本であるため俳優との稽古やスタッフとの打ち合わせによっていかようにも変容し、最終的な造形は舞台稽古で確定するので、演出家は私に限定される。
 このように、「作・演出」タイプの私が、今後は「作」と「演出」とに仕事を分けるという場合、「ウチで描く、ソトで創る」の意味内容も、「ウチで描く」=「作(戯曲のみを書く)」と、「ソトで創る」=「演出(スタッフの一人として脚本・演出を担当する)」とに分かれることになる。


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